一話 出逢いの過去
人は、本能の壊れた動物である。と、ジクムント・フロイトは言った。彼は、こう続けた。その本能を補う為に自我が生まれた。と。そして、私はこう繋げる。自我は心に宿り、自我は至福を求める。と。
人の心とは、かくも脆弱で、うつろいやすいものである。
鬼、悪魔、妖怪、魔物、悪霊。これらは全て、人の心に宿る闇を具現化した言葉で、「魔が差す」とは、欲望や憎しみに心を喰われ、心を闇で満たした人に魔が宿る様を表した言葉である。
2032年6月
キン、と校庭で音が飛ぶ。
打ち上げられた、こぶし大の球を、数名の男子が汗を飛散させながら必死に追いかける。「もどれっ!」と声。
みんなの期待を乗せたその球は、校庭のフェンスを軽々越えた。「ワッ」と歓声。
僕は校庭の木陰で、授業を見学していた。決して体調が悪い訳ではなかったが、とても眠く、そして疲れていた。
「ありがとうございました!」と、両者敬礼。
日本科学技術高等学校。通称カギ校は、将来の国を支える技術者や科学者を育成する事を目的として設立された高校で、ここでは、一般高校にはない特別なカリキュラムで授業を行う。
386回目の始業の鐘が、聞き飽きた校内放送で響き渡たった。白く塗装された、コンクリートに囲まれた教室の端で、僕は大きなあくびを繰り返す。昨夜のバイトが長引いたせいでの寝不足だ。僕は、隣の女子を少しだけ見て、うつ伏せた。
隣には、息を呑むほどの美人が、静かに、まるで美しい活花の様に、何も語らず、その存在感を放っていた。先月、海外から転校してきた生徒、箕輪藤花だ。彼女はこの春、突然現れた。授業中にガラガラと扉を鳴らし、先生のチョークを取り上げると、達人の様な達筆で、箕輪藤花と黒板をなぐった。
藤花は良くも悪くも注目を集めた。まず、外見が美しかった。漆黒の濡れ髪を腰まで垂らし、肌は雪のように白く、藤色の瞳が幻想的な輝きを放っていた。藤花に一目惚れしたという声をどれぐらい聞いただろう。僕も少なからず気にしていた。ファン倶楽部もすぐにできてたし、会員は「藤花様」と影で呼んでいた。しかし、彼女が来て1月が経とうとする頃には、「藤花様」の呼び声は、いつのまにか消えてなくなった。彼女は決して誰とも心を通わせなかったからだ。
そして、彼女が来てから、この町に次々と不幸な事件が頻繁に起こり始めたんだ。
※
滝の様な雨の日だった。僕はバイト先の店長に頼まれた本を買った帰り道、新宿の繁華街を通って帰っていた。強風と時々鳴る雷が、僕の足を急かす。
店の近くまでたどり着くと、人の壁が僕の足をを阻んだ。喧騒を含んだ人集り。中心には数台のパトカーと救急車。息も切れ切れの重傷者が担架で担がれていく。いろとりどりの傘をさした野次馬が「無差別傷害事件」だと教えてくれた。
今月3件目。
丁度4月に入った時に1回目で、当初は春先にはそんなやつも出るだろうと楽観視していたが、それから2ヶ月。犯人が捕まることもなく、むしろ被害は増加している。
また雷が鳴った。その音をきっかけに、重傷者の一人が断末魔の叫びと覚える悲鳴を上げていた。嫌な声だった。一刻も早くこの場を去ろうと、僕が踵を返すと、目の前に見覚えのある、藤色の瞳が大きな雨粒を受けながら咲いていた。携帯が鳴る。着信はバイト先の店長。目を逸らしたのは一瞬だった。だけど、僕が再び顔をあげるとそこにはもうう何もなかった。
図書館カフェ、ミステリーブレイクは、飲食の出来る図書館として一時期有名になったお店だ。店長が5年前に、夢の国を作るといって開業し、古今東西の本と、珍しいハーブティーなどを揃えた。僕はこの店に住み込みでウエイターのアルバイトをしている。この物珍しく、話題性十分なカフェも、近頃の不景気の影響をもろに受け、経営が傾いていた。原因は、きっと置いてある本のチョイスのせいで、もっと万人受けする様な話題作なんかを入れれば、お客さんも楽しめようものだが、実際、店長の自宅に入りきらない古書やマニアックなオカルト本が陳列されただけのお店で、お客を選び過ぎるのだ。思うに、本を捨てたくもないし、かといって、そのために部屋を増やしてたらキリがなかった、といったところだろう。こんな思いつきで始めた様なこの店が、5年も続いている理由はまた別にある。
「鵠くん、遅いよ!」
店長は、牛乳瓶の底の様なメガネを光らせて、ひとなじりすると、僕からお使いで買ってきた本を取り上げ、満面の笑顔で本を抱きしめた。ボサボサの髪を後ろに束ねただけの彼女は、本を2、3ページめくると、すぐに口元が緩む。まだ20代後半の彼女は、スタイルも悪くなく、もう少し見た目を意識すれば男の一人や二人は釣れそうなものだが、現実、そのような浮いた話は一切なく、ただ本の虫で、僕の雇い主である。
「すいません。ちょっと表で事件があったみたいで……」
店長は視線を本から離す事なく、相槌を打つ。
「また傷害事件みたいですよ。今月3件目の。最近、この辺りは物騒だから、……店長も本ばかり読んでないで気を付けて下さいね」
返事がない。いつもの事だが、店長は本の世界に入り込むと、周りが一切見えなくなる。僕は店内のお客さんのコーヒーを継ぎ足して回った後、机の上に放り出された郵便物を開封していった。請求書、請求書、請求書。殆どが、店長の趣味の高額な本の請求書だ。そして、その束の中に一通の黒い封筒も混ざっている。僕はその束を纏めると、店長が本を読みふけっている書庫に持っていく。改めて流行らない店内を見渡すと、実に不安になる。ため息が、つい漏れる。
「店長。……請求書です」
これだけは流石に店長も反応する。本を買うお金を心配して、だ。
「げー、もうそんな時期?お金無いよぉ。鵠くん、お金貸してー」
万年金欠でだらしない。
「頼む相手を間違えていますよ。店長が高い本ばかり買うからです。向かいの消費者金融のATMにでも相談してみてはいかがですか」
「……鵠くんのいじわる」
見た目はオトナ、中身は子供の逆コ◯ン。
「いじわるじゃないです。まったく……はい、黒封筒来てましたよ」
僕が黒封筒を渡すと、どういう仕掛けか、店長のメガネが光った気がした。
「依頼!やった。金欠からの開放だよ!やったね鵠くん!」
「店長喜ぶの早すぎ、まだ内容も見てないでしょ……」
この店、ミステリーブレイクは、図書館カフェ以外にもう一つの顔がある。それは、超非科学現象専門調査業。つまり霊とか怪奇現象とか、そっち系の調査をして、時には除霊する。祓魔師だ。この店の赤字決済でも、なんとかお店をたたまずに済んでいる理由も、定期的に黒い封筒に包まれて届く、祓魔の仕事の依頼のお陰といって他ならない。
そして、この店の店長。大人になれない永遠の子供、ネバー◯ンドにゴーゴゴーの御船千鶴こそが、信じられない事に、千二百年、先祖代々伝わる御船家の四十代目当主、浄天眼の御船その人だ。ただ、その立派なお家柄や二つ名を聞いて、立派な人物を想像してはいけない。
「よし、では鵠くん。残念ながら私はとても忙しい。今この店の危機を救えるのは、君しかいないのだよ」
彼女は、ただ怠ける為に、僕に祓魔術を教え、一人読書に耽りたいが為に、お上通達の黒封筒をゴミ箱に捨てる様な女だ。しかも、浄天眼なのに本の読みすぎで目が悪い。
「いや、無理ですよ!僕バイトですよ!」
「おーねーがーいー。ねっ、ちゃんとボーナスあげるから」
「……じゃあ、じゃんけんで決めましょう!」
「さーいしょーは、ぐー…………」
今回の仕事の依頼は、最近頻繁に起こっている障害事件の犯人の捜索だった。報酬額は500万円。そこそこの依頼だ。ただ、店長が本気で仕事をしてくれれば、ものの1時間で終了する様な依頼でもあったのだが……。
「「ポン!」」
店長は、仕事を僕に押し付ける為だけに、じゃんけんにさえ浄天眼を使用したりも平気でする。
「やったー!私のかちぃ。一応、大体の居場所は分かってるから、何かあったら電話して。……これ地図ね。ヨロシク!」
「……店長、今、僕の心を読んだでしょ」
最低の職場だ……。