そうしつ
それから僕は死を選び、最愛の人を殺してしまった。
おそらく世間一般の人間にとって、それは確かに愚かな選択であったに違いないだろう。
しかし意外に思われるだろうか。
この僕の胸中においては、しみったれた後悔などという後ろ向きな感情は微塵たりとも存在していない。
むしろ天高く羽ばたき舞い上がるほどの爽快さをもって、この物語の結末をあまねく世人に対して誇ることだろう。
あたかも天地がひっくり返ってしまったかのような驚愕を胸に秘めつつ、清濁を飲み込んでしまうほどの荒波の前に高ぶった感情を押さえ込んだまま、アマチュア作家よりも文才のない僕はいっぱしの文豪気取りで、そのことを長々と書にしたためて語るのだ。
この数枚重ねに厚みを増した便箋の端々まで、やがて僕が流すであろう血の朱色に染まることを祈りつつ、一字ずつ一字ごと、それぞれの言葉に乗せて我が魂を、この文面に向かって荒々しく刻み込んでいくことにしよう。
おそらくこれを読み上げたとき、君は僕に共感してやまないことだろう。いや、この際だ。理解しなければしないでいい、最初から僕らの住む世界が違ったというだけの話だ。
思えば僕は昔から向上心というものに欠けていた。
そこそこレベルの高い国立大学に入学して以来というもの、その結果だけをもってして、すでに己の人生に充足していたのかもしれない。
人生のエンドロールを迎えるにはいささか早すぎる段階だということに考えが及ぶこともなく、どこか悠々自適に我が物顔で過ごすキャンパスライフこそが晩年における栄華を飾っているかのような、社会的な優良レッテルを張られたような気がしていた。
わかりやすく言えば将来のことを一切考えないままに遊びほうけて、たったそれだけで十二分に満足していたのだ。
教養を深めるための勉学など、卒業後の生活のための就職活動など、そのぬるま湯のような楽園生活の前には机上の空論に過ぎない。明確な意味を持って、いわゆる壁や障害として立ちはだかることはなかった。
僕の前には何一つとして深刻な問題として提起されることはなく、自由気ままな大学生となった僕には、あらゆる事象が馬鹿馬鹿しく思えてたまらなかった。
数字取りのために流されるネットやテレビのニュースも、暇つぶしのために人々が口にする噂話も、なんら語るべきほどの価値を見出せなかった。
つまらなくて、くだらなくて、ちょっと耳にするだけでも悪寒が走るような嫌気が差して仕方がなかった。
あえて極端なまでに誇張して言ってしまえば、僕は生きることそのものの意味と喜びを喪失していたのかもしれない。
高校に入学する以前から周囲の人間によって厳命されていた「いい大学へ入れ」という、すでに第一にして最大の目標を達成した僕にとって、わざわざ次のゴールを定める必要性あるいは必然性がわからなかったのだ。
最終的には皆が平等に死ぬ人生、どこで死んだところで変わりない。
そう中途半端に悟ったような人生観が虚無主義的に未熟な思考を支配して、僕は退廃的な姿勢を崩すことが出来なかった。
ところが自堕落に陥る一方で、娯楽、享楽、極めて怠惰な生活習慣だけが、逆説的に僕の生を有意義に満たしてくれていた。
漆黒の広がる暗闇の中でこそ光が輝きを増して感知されるように、薄ら寒い死に向かって近づけば近づくほど、生の歓喜を擬似的にも味わうことが出来たのだろう。
それはもちろんヒトという生物学的にも、人間という社会的存在にも。
しかしながら、それがいつのころからか面白いように逆転したらしく、僕は怠惰や退廃という不完全性に彩られたものをより強く求めるべく、己の人生を能動的に生き始めた。
いわゆるセンセーショナルで反社会的な耳目を集める言動こそ、心身ともに未熟な僕ら若者が社会的に醸成されるために必要不可欠な要素であるに違いないと、そう信じて疑わなかった。
もはや己の生存のためだけに我が身からあふれる欲求を満たすのではなく、あらゆる欲望を満たすためにこそ、大事な命や人生を手段として駆使するべく変貌してしまったのだ。
大学二年の春を迎えるに当たって、僕は完全に入学以前とは様変わりした別人格を習得していた。
それはあたかも一度死んで新たに生まれ変わったかのような様相を示しており、当時の僕にはそれまで培ってきた仮面の内側が消失されたのだと自覚された。
人格そのものを規定する、価値観の一大変革である。
ああ、それは大変に気持ちよかった。
彼女との出会いは、サークルを同じくしたことに始まる。
スポーツ系のサークルを標榜するも羊頭狗肉――その実体は飲み会サークルに過ぎない――という、すなわち腐るほどの暇を持て余した若い学生たちによる馬鹿騒ぎのための集まりだった。
そこに烏合の衆のごとく雁首をそろえるのは、誰も彼もが低俗な人間ばかりで、男にモラル、女に貞操などまるでなかった。
とはいえ大学の手前、そんなサークルも体面的には健全な組織運営を取り繕ってはいたものの、監視者がいないおかげで内情の乱れを正すことはできなかった。
そこでは無知で垢抜けていなかった僕も例外なく先輩や同士たちによって大小さまざまな悪事を伝授され、その悪弊に身も心もすっかり染められた。朱に交われば赤くなる、それはもう重力に引かれてリンゴの実が落ちるかのように、不可抗力な運命だったのかもしれない。
思い出す限り、当時の僕は抵抗を試みることさえなかった。
どちらかと言えば、半ば自ずから求める形で変化を受け入れたのだ。
その不明瞭なサークル活動における、いつ頃からのことだったろうか。
電池切れを迎えた懐中電灯のように少しずつ、けれど着実に心をどす黒く病んでいく僕の隣で、圧倒されうる華やかな輝きを放ちつつも、不思議と足並みをそろえて僕が凋落していく様子を興味深そうにうかがっていた人物こそ、同じ年度の新入生である”彼女”だった。
どうやら彼女は浪人生の多い他のサークルメンバーと違って現役で大学に合格したらしく、僕との年齢も変わらなかった。感情に流されない理知的な雰囲気をかもし出しながら、他方で誘惑するように頭のてっぺんからつま先までの全身から色香を放つ扇情的な容貌は、僕を含めた男達の注目の的だった。
しかし一方で彼女は無自覚に他者を寄せ付けない潔癖を貫き、乱れたサークルの中でも異質な存在に他ならなかった。
周囲の毒々しさに決して溶け込まない、不可侵の高潔さを凛々しく保ち続けていたのだ。
ところがそれも、一年もの長き時間にわたって狡猾に攻め崩される。
滴り落ちる雫が巨大な岩をうがつかのように、群がり集った小者たちによって、次第に彼女は守り続けていたものを失っていった。郷に入りては郷に従わされ、やがて彼女もサークルの流儀に屈することとなってしまったのだ。
そんなある種の不可逆的な侵食過程を、僕はといえば、相も変わらず日々心待ちにして眺めていた。
なぜならば、一切の穢れを知らない初心で真っ白な輝きを放っているキャンパスに向かって、無遠慮に黒々とした墨を塗ったくるような快感が、穏やかに弱まっていく彼女のそばにいると、もはやそれだけで僕の胸をわしづかみにしたのだから。
堕ちろ、堕ちろ。
一足先に堕落を極めていた僕は、同じ境遇に彼女を引きずり込むことを全くためらわなかった。たった一度でもその華奢な足首をつかんでしまえば、決して手放すことをしなかった。
そして彼女は地に落ちる。地の底深くに躓き堕ちる。
その失墜の果てで、今まで大事に育んできたであろう気高きプライドを喪失してしまい、社会的にはまやかしの精神的充足を手に入れる彼女。
一時的にも大学卒業後に見るべき夢や希望を捨て去ることで、多重なストレスにしかならない重荷や苦労から解放され、青春という、大多数の若者が本来手放しで謳歌するべき圧倒的甘美な現実を手に入れたのだ。
彼女は魅力的に笑うようになった。
もちろん、やつれすさんだ病的なまでに。
けれど僕らはそんな人間的に崩壊し始めた彼女の微笑にこそ、歪んだ話ではあるけれど、惹きつけられるように目を奪われてならなかった。心配することも不安視することもなく、ただ無条件に彼女の社会的失墜を歓迎した。
そして僕が彼女に向かって愛の告白を挑戦したのは、そんな折、二年の五月ごろだったかと思う。
やけに日差しの強い、無駄に五月晴れを体現したかのような日のことだった。
すっかり茜色に染められた空も、にじむように鮮やかに余韻を残しながら暮れていく夕日を背にして、それら心象風景を舞台装置として背負った僕は、事前の呼び出しに応じて姿を現した彼女の瞳に酔いしれながら、幾千もの美しい愛の言葉をささやいたのだ。
意外なことにも、突然切り出した交際の申し出をすんなりと受け入れてもらえたことを記憶している。承諾までの間にもう少し、てっきり一悶着くらいはあるものとばかり想定していた僕には、どこか物足りないくらいで、拍子抜けもいいところだった。
今になって冷静に考えてみれば、こういうことかもしれない。
そのとき彼女の心に対してサークルメンバーが強引なやり取りによって開拓してしまった空隙は、僕を含めた誰の目にも、異様なほど大きく広がっているものとばかり思っていただけに、彼女はその茫漠たる心の空白を埋めるためにも、とっかえひっかえに無抵抗なままで誰彼構わず受け入れようとするがため、かえって特定個人からの告白をよしとすることはないと、そう勝手に決め付けていた部分もあったのだろう。
けれど手前勝手な予想は外れていたらしく、その後の彼女が見せてくれた一方的な献身振りといえば、唯一無二の彼氏を公認された僕でさえ申し訳なくなってしまうほどだった。
……重い。
世間一般にはそう評されてもおかしくないことだろう。
ともすると、奥深い心根の喪失を埋め合わされるかのように、彼氏を称した僕は彼女によって求められ続けていただけに過ぎないのかもしれない。かつて彼女が守り抜いてきたはずの自尊心や虚栄心といったもろもろの感情を、僕への奉仕それだけによって、代償的に取り戻そうとしていただけなのだろう、きっと。
その事実に付き合い始めた早い段階で思い当たった僕は確かに快く思うことなどできなかったけれど、しかしながら、なにも決して不愉快というわけではなかった。
正直な話が、ひたすらに満足だったのだ。
いや事実はそれだけにとどまらない。いっそのこと僕はもっと無茶苦茶にしてやりたかった。もうどこにも後戻りが出来なくなってしまうほど、誰かを必要としてやまない彼女を僕の人生に取り込んでしまいたかった。
足りない彼女と、足りない僕。
歪に欠けた心の形は組み合わずとも、どこまでも相性がよかった。
ところが、僕らは運が悪かった。
参加しているサークルは別だったが、折角だから同じ学科にいる親友にも交際相手を紹介しようと、得意顔を浮かべた僕が彼女を引き連れて友人との昼食の席に出向いたときのことだった。
「付き合っている? 君たちが?」
初めて二人を引き合わせたはずなのに、その友人は僕らの組み合わせに驚いているようだった。
ゆっくりと僕の顔を見て、次に彼女の顔を見て、それから並んだ僕ら二人を合わせて眺め、とたんに目を白黒させて大げさに肩をすくめる。
その反応が気になったので、一体全体どういうわけかと詳しく話を聞いてみると、どうやら彼という人間は、彼女とは大学以前からの知り合いらしかった。
つまりこうだ。彼は僕にとっての親友であると同時に、彼女とは昔なじみの友人でもあったらしいのだ。
「言ってくれればよかったのに」
「そいつはお互い様だろう」
やはり気恥ずかしいというか、何故か誇らしいというか、とにかくそのとき抱いた感情はあまりに複雑で自分でもよくわからなかった。
友人に自分の彼女を紹介するということ、その彼女が僕より先に友人と知り合っていたらしいこと、なのにそれを手に入れたのが僕であること。
それらから導き出された感情を整理するには、その時の僕にはまったくと言っていいほど心に余裕がなかったのである。
ふと気になって彼女の横顔を盗み見ると、なんでもないことのように微笑んでいたように思う。
だから僕も難しいことを考えるのはやめにして、同じく能天気な振りをして笑うことにした。もちろん照れ隠しもかねていた。こっそりと彼に対する優越感も含めていた。
だが忘れない。その場で唯一、彼は最後まで笑わなかった。
ずっと深刻な表情を崩さず、じっとテーブル越しに目を細めて見詰めては、挑戦的な瞳で僕のことを吟味し続けていたようだった。
「まぁ、とりあえずお幸せに」
昼食を終えて別れる際に口にした、まるで取ってつけたような短い祝福の言葉が、僕にとってはなによりも嘘臭かった。
胡散臭くて気味が悪かった。
もう一年近い付き合いである友人の言葉とはいえ、幸運を祈る言葉を字面どおりに受け取ることができなかったのである。
だからこそ、僕はその後の彼との関係性について明確な変化を必要とした。
内心、不審な様子である彼を警戒するようになったのだ。
疑うくらいなら縁を切れと、さかしい人間はそう思うことだろう。
だが僕なんて所詮は小賢しい人間どまりで、なにやら怪しさを深めていく彼の存在を、僕の目が届く監視下から外してしまうことを恐れていた。
なにしろ彼は彼女に対して、当時付き合い始めたばかりだった僕よりも、はるかに長い関わりを持っていたのだ。心に隙間を持ち、それを僕では埋め合わせることのできない彼女の真実に気がついたとき、正義感を燃やした彼は僕から彼女を奪い去ってしまいそうでならなかった。
しかし僕も無策に怯えていただけではない。こうしてまがいなりにも僕が一人の友人として彼に関わり続ける限り、彼は僕を裏切って彼女に手を出したりしないだろうという思惑があった。
もちろんそれにはそう思うだけの理由がある。
彼は生真面目な自身の人格を、他の誰よりも誇っていたのだ。
人の道を外れてしまうことを、誰よりも何よりも嫌っていたのだ。
今にして思えば、だからこそ彼女とも古い友人関係を存続させていたのだろう。大学に入った直後の彼女、その毅然としたプライドの高さは、本来ならば義理堅い彼にこそふさわしい。
当時の凛とした彼女を前にしていれば、低俗な存在である僕には勝ち目などまるでなかったはずである。
ところが事実、その時点における彼女はその面影をことごとく喪失していた。もはや理念さえも、感情さえも、あるいは自我さえも、それら残滓すら彼女の風貌には見当たらなかった。
ただひたすらに他者へと、心の救いを本能的にすがり求める欲望と、その美しい容貌だけを彫像のように残したままである。
「何かがおかしい」
友人が初めて僕にそう告げたのは、大学二年目の夏休み直前、七月中旬のことだった。
僕と彼女が交際を始めて二ヵ月後のこと、ある暑い日のことだ。
「何かって、何がさ?」
すっかり暑さに対して気が滅入っていた僕は、シラを切って首をかしげる。
覚悟を決めたような彼が何を言わんとしているのか、夏の暑さのせいで頭が空っぽになっていて全く予想が付かなかったわけではない。ただ、自分からその話題を切り出すことだけは全くもって気が進まなかった。
友人は歯軋りし、語気を強める。
「彼女のことだ。何か知らないか?」
知らないわけがない。むしろ僕は元凶の一つである。
きっと彼もその事に気がついているのだろう、だからこうして厳しく責めるような口調なのだ。僕は自分の胸が痛むような気がした。
「だから知らない。一体なんのことだ?」
「彼女の様子がおかしい」
「おかしくはないさ。もとから彼女はああだった」
「そんなはずがない。君も感じているはずだ。だって君は――」
そこで彼の言葉は止まる。
こちらから話すようには促さなかったので、長い沈黙を必要とした。
「君は、彼女の恋人なのだろう?」
疑念と、偽善と、義憤と、欺瞞に満ちた、直視するには不愉快な表情だった。
だから僕は強く言い返してやった。
これ以上僕らの関係に踏み込んでくるなと念を押すように、突き放すために断言してやった。
「そうさ、だから君は口を出すな」
おそらく、それが直接的な引き金だったろうと思う。
夏休みのことだ。彼女はサークルに顔を出さなくなった。
最初の数日は彼女だって大学生だからと、サークル以外の用事で忙しいのだろうと無理に納得して過ごした。
ところが一週間、そして半月、挙句に八月終了まで休み続けた彼女には、さすがの僕も無視することができなくなっていた。
なにしろ無断だったのがいただけない。
正式に交際中だった僕にも一度だって連絡はなく、もちろん他のメンバーにも姿を見せない理由がわからなかった。
こちらから連絡を取ろうにも携帯は不通、確認したが彼女のアパートは留守、もはや完全に行方不明だった。だから彼女が今どこにいるかなんて想像することも、まぁ、一応は不可能ということになっていた。
偶然だろうか、友人も時を同じくして音信不通のままだった。
きっかけは十月、大学における後学期の始まりである。
結局あのまま九月末までの夏休み期間中、ただの一度として彼女とは連絡が取れなかった。無事でいるのかさえ不明で、当然僕は彼女のことが心配だった。
もしかすると、このまま彼女とは永遠の別れになってしまうのかもしれない。僕の胸に渦巻いていたのは、そんな不安と恐怖だった。
ところが僕らは腐っても大学生、夏休み期間中のサークル活動ならいざ知らず、大学を卒業するためには講義に出席して単位を取得しなければならない身分である。
思いがけず彼女との再会は、履修登録を同じくした講義の終わった直後、教室の片隅であった。
「久しぶりだね、元気だった?」
「……あ」
教室を出ようとした彼女を呼び止めるため声を掛けた僕の顔を見るなり、彼女は驚いたような、ある種覚悟していたような、けれど結局は無感情さを思わせる張り詰めたような微笑で、わずかに顔を下げてお辞儀するのだった。
それはどこまでも他人行儀だった。
実際に二ヶ月近く顔を合わせていなかったのだから、余所余所しくなってしまうのも仕方のないことだったのかもしれない。
「心配したよ。でも大丈夫そうで安心した」
「うん、大丈夫だった」
「そっか。それでさ、今日はサークルに来られる? 久しぶりだし、顔くらい出しておいたほうがみんなも安心するよ」
「それは……」
唐突に口ごもった彼女の脳裏によぎったのは、懸念だろう。
色あせることのない瑞々しい罪悪感かもしれない。
次第に顔色を薄暗く曇らせていく彼女。ようやく感情らしい感情が復活してきた彼女。しかしそれゆえに、彼氏である僕に対する不義理を理解してしまい、不条理を痛感してしまったであろう彼女。
見るからに弱々しく、あまりに脆弱な姿だった。
「大丈夫、誰も責めたりしないよ。……もちろん僕だって」
だから僕が怯える彼女にささやいたのは、とても甘い許しの言葉だった。
その蜜を、あざといエサを、しかし彼女は無防備なままに舐め取ってしまう。
「うん」
その頷きは、生涯で最も従順だったろう。もはや僕に逆らうこともなく、素直に手を引かれるまま、彼女は無抵抗につき従ったのである。
サークルメンバーには、適当なことを言って誤魔化した。
実家が大変なことになっていた、だから彼女は連絡もなしに急いで帰省しなければならなかった、などなど、夏休みに起きた架空の出来事をでっち上げたのだ。
本来なら子供でも疑問を覚えるであろう幼稚な言い訳。しかしサークルに集まっていた彼らは単純で愚かしい人間どまりだ。
誰一人として、口からでまかせだった僕の説明を疑う者はいなかった。
「まあいいさ、またこうして来てくれたんだから」
それは他でもない、サークルリーダーの言葉だった。
すでに形骸化された責任者ではあったものの、立場上オピニオンリーダーとなっていた彼がそう言ってしまえば他からも異論はないらしく、僕らはすんなりとサークルに馴染むことができるのだった。
彼女は最後まで居辛そうに表情を曇らせていたのだが、それは彼女の杞憂でしかなく、サークルに集まった誰もが、彼女の夏休みにおける振る舞いを責めてなどいなかったのである。
その日のサークル終わり、僕は彼女を連れ帰った。もちろんそれには下心以上の理由があって、彼女が僕と連絡を絶っていた夏休みの二ヶ月間あまり、自分のアパートに帰っていなかったことを考慮したからである。
つまり僕が何を言いたいのかというと、彼女が夏休みの間に過ごしていたであろう場所――すなわち仮初の宿に帰ってしまうのではないかと、そのことが不安に思えてならなかったのである。
とはいえ交際していた女性と二ヶ月ぶりに会ったのだ。僕は彼女に対して様々なことを求めた。
ただし誤解されてはならない。決して暴力的な行為ではなかった。
ただお互いの愛情を、相手を求め合う気持ちを確認しようと試みたのである。
「……やめよう」
しかし彼女は夏の間に変わっていた。
より正確に言えば、彼女は何者かによって変容されていた。
こう書いてしまうと語弊があるかもしれないが、そうとしか書けないのだから仕方がない。
要するに、なかなか思うように反応してくれなかったのである。
「ごめんなさい」
彼女は以前のように声を出して笑うことも、喜ぶこともなくなった。
……なぜ?
その問いに答えるのは簡単だったろう。彼女はその身において、一つの罪を抱えていたのだ。
恋人関係にある僕を裏切り、他の男に身を寄せていたのだから。
僕との交際関係にあったままなら、自堕落な彼女は苦しむことなどなかっただろう。けれど彼と交わることで失っていたかつての誇りを取り戻したとき、その原因を自ら呪ってしまったのである。
堕落した人間なら悪気なく平気でやってのけることでさえ、高潔な彼女には許すことが出来なかった。たとえいかなる理由が存在しようと、それを口実にしてしまうことこそ、彼女が憎んでいた卑怯さであるのだろう。
では、僕はどうか。
あえて改まって答えるまでもない。僕はそんな彼女の破滅寸前の内情を知っていて、それを楽しむように遊んでいた。
罪の意識に歪んだ女性ほど、自覚的に己を罰する女性ほど、この世で美しいものはないのだから。
思えば当時の僕は、解決策もなく悩み苦しむ彼女の姿に魅了され、以前より激しく、狂おしいまでに惹かれてしまうのであった。
しかし、当然と言えば当然ながら、それは僕だけの理想郷だった。
おそらく彼女は徐々に耐えられなくなってしまったのだろう。
あらゆるものにけじめをつけるべく、よりにもよって、最初に僕のもとを離れようとした。
寂しげに「ごめん」と、それだけの言葉を置き去りに。
そのころ友人がどうなっていたかというと、僕にも実際のところは不明である。
しかし彼は、彼が裏切った僕と会うことについて、今さらながら恐怖していたのだろう。直接互いの顔を合わせないためなのか、それから一度として大学に姿を見せることはなかった。
友人の不器用に誠実な人間性が衰弱する彼女を見逃すことを許さず、友人をして夏休みの背信行為を引き起こし、その不器用に誠実なまっすぐすぎる人間性がまた、遅れて苦悩を呼び起こした友人をして僕に会うことをためらわせていたのだ。
おそらく、このまま僕から隠れ続けるつもりでもいたのだろう。
おそらく同時に、ひと夏の過ちを忘れ去ってしまうためにも。
しかし状況が状況だ。
そのまま黙っていればこちらから接触するつもりもなかったが、あらゆるものから逃げ出した彼女がそこへと向かったであろうと予感した僕は一人、彼の本拠地へと足を踏み入れることにしたのだった。
その友人は不器用なくらい真面目であり、誰よりも義理堅い男である。
したがって彼に間違いは許されず、正しく精進するのみが人生だ。気高き夢のため、生まれてこの方、ただの一度として手を抜くことなく、努力に努力を重ねてきた人間である。
そうやって確立された彼の人間性は、良心は、おそらく悩みがちな年頃である彼にとっては最大の敵として、壊せぬ壁として、常日頃から脅威であったのだろう。
そんな友人に対して、おそらく彼を一撃で粉砕してしまうであろう罪悪感の爆弾を、容赦なく真っ直ぐに突きつけるための最善の近道を、僕は思い当たっていたのである。
「まだ彼女は僕のものだった。……だというのに、君はいくらなんでも不義理じゃないのか?」
たったその一言を正面から受け止めただけで、面白いほどに友人は観念し、諦観し、あらゆる判断を終えたのだった。
きっと彼も軟弱な僕のように不埒でさえあれば、柳に雪折れなしという言葉の通り、そこまでの悲痛を胸に感じたりなどしなかったことだろう。
けれど現実に彼の理想はかすんでしまうほど高く、ゆえに落ちるときは凄まじき勢いだったのだ。
友人が自殺したという一報が人伝に届いたとき、それはもう彼女は大いに落ち込んでしまった。
大方、その原因が自分にあるとでも思ったのだろう。彼女を内面から美しく研磨する罪の意識は肥大化し、彼女の心を過酷なまでに追い詰めていった。
これは自分でも意外なことかもしれないが、思いつめた彼が遺書の一つも残さなかったことに、疲弊した彼女の姿を見た僕は怒りに近い感情を覚えたのである。
ほらみろ、君は彼女のことを何も理解していなかったじゃないか――と、無責任に命を絶った友人のことを勝手に見損なったのだ。
「彼の心はね、私にピタリと合ったの」
だから、その喪失は永遠に埋められない。
彼女が求めるものは永遠に見つからない。
「ごめんなさい、あなたじゃ……」
それは残酷で無慈悲な言葉だ。
彼女に惚れ、彼女だけを求め、人生のパートナーとして彼女のことを唯一の頼みにしていた僕にとって、死刑宣告にも等しい意味を持っていた。
「僕は気にしない」
「……ごめんなさい。私は、もう」
それきり黙って、彼女は何事も語らなかった。
それも仕方ない。すでに彼女は恐怖に震える人間だ。
もはや心が満たされることなく、いつまでも許しを求め続ける罪人である。
「だったら僕が君の罪をなくしてあげよう。そしたら笑ってくれるかい?」
「あなたが助けてくれるというの?」
「ああ、そうさ。お願いだから目を閉じて」
そして僕は、彼女の願いをかなえる。
そして僕は、ほとんど同時に僕の願いをもかなえてしまう。
激しく罰せられたいと願う彼女は、その権利を有するであろう僕の手によって。
彼女を僕のものだけにとどめておきたいと願う僕は、そして愛欲を求めてやまない飢餓感を終結させたいと願う僕は、この手によって彼女と、それから僕自身の命を奪い去ることによって。
彼女を殺して僕も死ぬだろう。そこにはもう、何も残らない。
それが他でもない、現時点における僕らの選んだ結論である。
さあ、これを書き終えたなら彼女の笑顔を見に行こう。
幸せそうに笑ってくれるであろう彼女を、僕の傍らに添えよう。
あらゆるものを失った代わりとして実にささやかな幸せを勝ち取った、栄えある僕の死をもってして、ここに一つの決着をつけて終わりにしよう。
それが結末だ。
つまらない結末だ。
まだ少し語り足りないのだけど、現状、思いつく限りはそれがすべてだ。
これ以上は筆が乗らない。