死神
『天使は常に、神のお申し付けに常に従うこと。これに反する者には罰を』
『天使失格』
『失格した者は人間界に堕ち、人間として生きること』
『ただし、神の遣いとしてふさわしい仕事をした暁には、再び天使となり、天上界へ帰還することができるであろう』
「…だったよな、確か」
人間界に向かって堕ちながら、俺は呟いた。耳元で風がごうごうと唸っていて、自分の声すらはっきりと聞こえない。神サマにこの声が聞こえているのかは、分からないけれど。
「…ばかばかしい。やるわきゃねーだろ。仕事なんて」
どんどん遠くなる上の世界を見つめながら、俺は言った。
「俺は、…天使になりたかったわけじゃないんだ」
人間界がどんどん近付いてくる。俺は眼を閉じた。
思い出すのは温かかったあの場所。全身で愛情を確認できたあの場所。そして、しがみつけなかったあの場所。
「俺は、本当は…」
心臓の音が頭の中に心地よく響く。俺は眼を閉じて、その音を聞いていた。規則正しくリズムを刻む鼓動。その音が、少しだけ、乱れた。
真っ暗だった視界が、徐々に明るくなっていく。向こうの方で聞こえる、人々の足音、そして声。心臓の音だと思っていたのは、足音だったらしい。目を開けるとまず見えたのは、綺麗な青空だった。
「…。」
人気のない薄暗い路地裏。俺はそこで仰向けに倒れている。らしい。本当に人間界に堕とされたらしいが、もう少し優しく堕とせないのだろうか。どうやって着地したのかは覚えていないが、背中が痛い。背中をこすりながら、俺は上半身を起こした。ひとまず、自分の身体をチェックする。黒いTシャツの上に白のパーカー、紺色のジーパン。いつの間にか、人間界の若者の格好になっている。それから、
「…翼が出ねえ」
いくら背中に力を入れても、翼が出てくる気配はなかった。どうやら本当に、人間になってしまったらしい。
身体を起こして、光が強く差し込んでいる方へ歩いてみる。狭い路地の隙間から、人々が行き交う姿がちらほら見える。多分この路地裏を抜ければ、大通りか何かに出るのだろう。
出てみると、やはり大通りだった。せかせか歩くサラリーマンや、笑いながら歩く女子高生たち。どうやら今は朝のようだ。俺はあたりを見回して、ハッとした。
この場所を、俺は知っていた。
「…あの野郎」
神サマと言われているおっさんに向かって、吐き捨てる。聞こえちゃいないだろうが。とりあえず人の流れに沿って、俺も歩きだした。交差点に花が供えられている。そう言えばこの前、この交差点で大きな事故があった。
交差点を通り過ぎ、ガラス張りのブティックの前で立ち止まる。ガラスに映る自分の姿は、ぼさぼさ頭で釣り眼。年齢は多分、高校生くらいに見えるだろう。そしてやっぱり
「人間、になってるよな」
服装をチェックしながら呟く。俺の姿は、どこからどう見ても人間だった。俺の隣に映っている黒いマントのやつは、どう見ても人間に見えないが。…。…。
…え?
俺はゆっくりと、自分の隣に目をやった。そこには、見ず知らずの子供が立っていた。いや、浮いていた。30cmくらい、足が地面から浮いていた。
男なのか女なのかよく分からない、かわいらしい顔。身長はかなり低い。マントにフードを付けたみたいな黒い服。そしてその両手には、…その身体には不釣り合いなくらい大きな鎌。
死神。
そう思うやいなや、俺は一目散に逃げ出した。とりあえず、早くあいつを撒かなければならない。ところが、
『待ってくださ~い!!』
と間抜けな声を出しながら、そいつは追いかけてくる。待ってられるか、殺されるかもしれないなのに!! と思っていたら、あっという間に追いつかれた。
「ぬお!」
今度は俺が、思わず間抜けな声を出した。俺は無様に走っているが、相手は宙に浮いている。そのスピードの差はどうしようもない。
追いつかれても走るのをやめない俺に、そいつは話しかけてきた。
『見えるんですか!?』
「ああ!?」
『見えるんですか!?ボクのこと!!』
「見えてるから逃げてんだよ!!決まってるだろが!」
それを聞いたそいつは嬉しそうに、俺の後ろをしつこくついてきた。必死になって走っている俺を、周りの人間がチラチラ見ている。
「やめろ馬鹿!!ついてくるんじゃねえよ!」
とかなんとか一人で叫びながら走っている俺は、相当おかしなやつだったんだろう。