8th 後悔の午後
ふはー、と昇降口を出た香取は大きくため息をついた。
(やっちゃった……)
もちろん、さっきの教室でのことである。あの場には、他のクラスメイトも少なからずいた。間違いなく香取に対する彼らのイメージは激変したはずだ。
あまり目立ちたくない、地味派の香取としては歓迎できない事態だった。
(それに……)
例え僅かでも、自分が他人をその手に掛ける素振りをしてしまったこと。
それが、許せない。
(……畜生っ!)
思わず香取の右手に力が籠る。傷口がほんの少し開いたのか、指貫グローブの隙間から血が一滴涙のように滴った。
それを軽く手を振って払いながら香取は帰路を歩いた。
「ただいま~」
返事は無い。今日も香苗は遅いようだ。
と思ったら、リビングの机の上に紙束が幾つか置いてあった。
(あ、これは……)
異伝子に関する論文だ。今朝母に頼んだ分の、この街でのさかのぼってとりあえず十年分。
香取はヤカンを火にかけてから、六法全書に引けを取らない厚みの論文コピーを手にソファに座る。最初の論文の題名は、『異伝子と先祖返り、それらの類似性について』だ。香取は深海に沈むように読み耽り始めた。
「うん?」
次に香取が初めて自分意外に意識が向いたのは、ヤカンが派手に笛で沸騰を告げた時だった。
「うわわわっ!?」
慌ててとめに走る。間一髪、吹きこぼれは避けられた。
(そういえば、夕食はどうしようかな……)
冷蔵庫を覗く。立派なステーキ肉が見えた。
夕食後。
初日に宿題がある訳はなく、香取はまた論文を読み始める。ヤカンがもうひとつあったので、そちらにもお湯を沸かしておく。
そっちは、懲罰用だ。
手袋を外す。ガーゼはまだ剥がさない。外気に当てて乾かしたほうがいいだろう。その方が痛い。
(あ、あれ……?)
しかし、急速に眠くなってくる。まぶたが重くなり、自然と視界が暗くなる。
(思ってたより……疲れてた……かな……?)
最後にそれだけを考えて、香取は眠りに落ちた。
「……ょ……!」
(うん……)
香取は眠りの中で声を聞く。よく知る誰かの声だ。そう思うが、頭の中が靄がかかったようでハッキリとしない。
「……ょっと!……」
どうやら、誰かが起こそうとしているようだ。だが、意外に疲れた身体は睡魔に抗えない。
「も…! ……起き…い…ら、キス…ちゃうそ!」
待て、と香取の頭に警報が響いた。今ものすごい危険なワードを聞いた気がする!
急速に意識を覚醒。付けたままだった灯に焼かれる覚悟で一気に目を開くと、
「……あ」
文字通り、目と鼻の先に化野の顔があった。心なしか甘くいい匂いのする吐息がかかる距離を実感して、不覚にも香取の心拍数が跳ね上がる。そして一気にカラカラになった喉を辛うじて唾液を飲んで潤してから、香取は尋ねた。
「……夜這い?」
その言葉にカキン、と音がしそうな勢いで化野が固まった。
(近い……)
しかし、身体の位置が位置だ。どうやら背もたれからずり落ちたらしい彼の体は天井を向いており、化野はその上に覆い被さるようになっている。傍から見たら完全に夜這いだろう。彼女の体が影を作ってくれたお陰で香取の目は大丈夫だったが、今度は彼の心臓がピンチである。
(うぅ……)
死にたい。今更込み上げてきた恥ずかしさもそうだが、
自分の罪を目の前にしてこんな気分になっている自分に対する嫌悪が一番だ。
右手指を鳴らすために構える。自分を傷付ける為なら能力は惜しまない。どうせ今夜辺り焼くつもりだったのだ、斬ることに代わっただけだ。
と思った後で香取は気付く。化野が固まったままであると。困った。手が斬れない。
「……そろそろ退いて貰っていいかな?」
おそるおそる香取は尋ねる。案の定、真っ赤になって固まったままの化野は反応しない。
(近い……)
二回目。というか更に近付いて来ている気がする。
らちが明かないと思った香取は、強引な手段に出る。両腕を持ち上げ、化野の脇の下、肋骨部分をホールドし(ここで化野が気付いて変な声を上げたがスルー)、一息に押し上げた。
結果香取と化野の上半身は同じタイミングで持ち上がり、化野が香取の膝の上に座った状態で対面することになった。
「ふう。それで、何の用なの?」
思春期には危険な体勢から逃れたことで顔の赤みが幾分か引いた化野に香取は尋ねた。化野はちょっと待って、と言って何時深呼吸をしたあと、香取の膝の上から立ち上がりながら言った。
「香苗さんにね、健がちゃんと晩ご飯食べたか確かめて欲しい、って連絡が来たの。ほら、健はいまケータイ無いでしょ? 私も守護役で外に出てたから、ついでにって思って来てみたら健が紙の山の中で寝てたから起こそうとしてたのっ!」
後半早口で微妙に要らない説明までくれた化野の言葉に頷いてから、香取は夕食はきちんと食べたことを告げる。
「よかった。なんだったら有り合わせで作ろうかなって思ってたんだよ?」
「料理、できるんだ?」
十年前はそんな機会がある訳もなく、料理ができるというのは初耳だった。
「うん、できるよ! ……たまに焦がすけど」
後半は聞かなかったことにしようと香取は思う。だから、彼女の呟きには気付かなかった。
「……特訓、したんだからね?」
「あ、ごめん。何?」
「なんでもないっ!」
「???」
香取は疑問符を頭上に浮かべるが、化野は何も言わない。香取は自分も立ち上がると足元に散らばった論文を適当に一纏めにして台所の机の上に置く。
それから、棚から皿とお菓子を取り出して居間のテーブルに置いた。
「こんなものしかないけど、どうぞ。お茶いる?」
対面に座るよう化野に手で促しつつ言った。化野は大丈夫、と言ってから、きちんと対面に座った。一応地元では名士の家柄だからなのか、姿勢はカッチリしている。
「そういえば…… 健の能力、十年前と変わってないみたいだね?」
化野はそう話題を切り出した。
「変わってないようにみえた? 制御できるように、結構頑張ったんだけどなぁ……」
「ううん。制御、って意味じゃなくて本質がってこと。能力なんて相当な外的心因ショックが無い限り変質はしないけど、やっぱり『あの事件』は私たち二人ともにとってショックだったし、変わっちゃってるかなって思ったけどね」
「ショックも何も、僕は心神喪失状態だったんだよ? ショックも素通りしてたさ。……その、化野はどう? 僕が、その……いろいろやっちゃったけど」
おそるおそる香取は尋ねる。返答次第では、彼の十年は無駄になる。それはそれで彼にとっては喜ばしいことだが。
だが無情にも、現実は彼を裏切った。
「ううん! 傷もお医者さんがびっくりするくらい早く治ったし、持病の喘息まで治っちゃってね! 傷は多分私の能力のせいもあるんだろうけど、病気のほうはお医者さんも不思議がってたよ」
ああ、と香取は全力で顔に出さないようにしながら心の中でため息をついた。
(思った通り、かぁ……)
十年が無駄にならなかったことを喜ぶべきなのか、わかっていたとはいえ最悪の状況を嘆くべきなのか。
「……どうしたの? なんか、凄い汗かいてるけど」
言われるまで香取は気付かなかったが、もし彼を外からみれば相当酷いことになっていることがわかるだろう。まるで熱病に罹っているかのように顔は青く、明らかに尋常ではない量の汗が顎を伝っている。
袖で雑にそれを拭いながら、香取は言い逃れた。
「慣れない環境で疲れて、風邪でもひいたのかな? うつるとマズいし、化野は一旦帰ったほうがいいかも」
どうする? と目で尋ねると、残って看病する! との視線が返ってきた。家に香苗がほとんどいない状態だからだろうか、その申し出はありがたいが仮病であるので丁重に断ることにする。
「そんなに心配しなくても平気だよ。これくらい、異伝子保有者ならすぐ治るし」
すると彼女は猛然と、
「そうじゃなくて! 誰かが居たほうが安心でしょ、ってこと!」
と返す。ならば、と香取は理性に訴える。
「あのね、僕が風邪引くのは別にいいけど、それが化野にうつったらダメでしょうが。一般生徒の僕は最悪何日か休めば済むけど、化野は守護役だよね?」
うっ、と化野が言葉に詰まる。それを見て香取は更に畳み掛けた。
「しかも化野は壱位なんでしょ? そんなエリートが現場から抜けたら大変じゃないか! ……というわけで、僕としては化野のためを思って、化野には大人しく帰って欲しいんだよ。……わかって、くれるよね?」
「わ、私のため……」
なんか反応するポイントが違う気が香取はする。
「そこまで言われたらしょうがない、帰るね。何かあったらメールか電話で……って、無くしたんだっけ、携帯電話」
「あー。そういえばそうだったね。ま、もう少し待ってみるよ。探し物って意外な所から出てくるようなものだし」
あっさり態度を変えた化野に少しばかり奇妙さを覚えるが、香取は都合が良いので深くは考えなかった。
「玄関までは送るよ」
そういった香取はゆっくり立ち上がる。
「うん、わかった」
化野も続く。
「それじゃ、お大事にね。そうそう、明日の能力測定は大丈夫?」
そういえばそんなものもあったな、と香取は思い出した。
「まぁ、なんとかなるよ。いざとなったら保健室に逃げるし」
そう言うと化野は安心したように頷く。互いに挨拶をして別れた。
「さて、と」
居間に戻り、香取はまず水を一杯飲む。
「ふう……」
何も考えたくない。いや、考えられない。
(……風呂入って寝よう)
寝ている間にすっかり冷めてしまった懲罰用のお湯もそのままに、彼は風呂に入ってすぐに眠ってしまった。