5th 心当たりの保健室
保健室で、香取は適当に傷を処置する。開いた傷口はそんなに大きくはなく、血を拭いてから消毒液を吹き付けて、軽くガーゼを当てるだけにした。
一方、血が付いた手袋は化野が流水に晒してくれていた。汚いから自分がやると香取は言ったのだが、私にもなにかさせて! と言われてしまえば仕様がない。まさか傷口を彼女に見せられるはずもなく、手袋の方は彼女に任せるしかなくなってしまった。
大きめに切ったガーゼを当ててテープで固定しようと香取が四苦八苦していると、暇を持て余した化野が話し掛けてきた。
「そういえば健が見た人って、どんな人だったの? 夏休みに学校に人がいるって珍しいよね」
「あー、でも、私服だったし生徒じゃないのかも? いやでも、背格好は化野くらいだったし……」
よく考えてみれば、その少女の印象はかなり薄い。だが、香取は一つだけ、強い印象を思い出した。
「そういえば、白かったな……」
「……? なにが?」
ゆらり、陽炎のように頭の中から記憶が蘇ってくる。印象的な、白く長い髪と手袋。
「ええとね。今の化野とは逆で髪が長くて真っ白だったんだよ。しかもなんて言うんだっけアレ、アームウォーマー? まで白でさ」
さすが『千変万化』というべきか、今の化野は明るい黒のショートで、最初に駅で会った時とは違っていた。本来の彼女はこちらで、駅でのロングヘアは、こちらに分かりやすいようにと配慮した結果だそうだ。子供バージョンで来ていたため余計なトラウマまで呼び起こされたが。
「白い髪、ね…… っていうか健も白いよね。染めたの?」
さり気なく伸びてくる化野の手を躱しながら、香取は否定した。
「いや、これは…… いろいろあったのさ。向こうで」
もちろん、染めた訳ではない。試しに抜いて陽に透してみればわかるが、毛そのものが弱って細くなり色素が抜けたための髪色なのだ。つまりは、ストレス性の脱色作用。かつてある王妃は、処刑までの一日で毛が真っ白になったという。まさか自分で証明する羽目になるとは思わなかったが、それは真実らしい。
まぁ、それは置いておいて。
「で、どう? 化野は見覚えがありそう?」
香取の問いに、彼女は首を捻って。
「わかんない。やっぱり顔を見ないと……」
「あ、やっぱり?」
そういえば、と香取はもう一つだけ思い出した。あの腕章のことだ。
「そういえばあの人、禁忌種の腕章を……」
「禁忌種?」
途端、化野が食いついてきた。何かしら思い当たる節があったのだろうか?
「禁忌種で、ランクは? やっぱり、弐?」
「う、うん。確か弐だった……」
思い当りでもあるの、と香取が尋ねると、彼女は珍しく言葉を濁した。
「うん…… その、多分悪い人じゃないから、できたらでいいから、仲良くしてあげてくれると嬉しい…… かな」
どうやら知り合いではあるらしい。どんな人物かは香取にはさっぱり見えてこないけれども。
「う、うーん? まぁいいや。で、手袋はどう? 色は薄まった?」
晒したままの革手袋の様子を尋ねる。素材が素材なのであまり水はよろしくないからだ。
「あ、うん。だいたい血は取れたと思う」
水から引き揚げて、軽く振って水を切る。革なので乾きは早いが、念のためタオルで拭いて貰った後でポケットに入れる。
「これでよし……と。で、化野はこの後どうするの? 僕は一通りは見学したから帰るつもりだけど」
そう言うと彼女は微妙に残念そうな顔をした。
「うーん、できたら学校案内をしてあげたかったんだけどなぁ。しょうがない、それじゃ私も帰ろうかな。学校にもう用事もないし」
「そうなの? それじゃ、途中までは送るよ。学校案内のお礼にはちょっとそぐわないけどさ」
もちろん、昼食のことを忘れているわけではない。ただ、香取の意識にこびりつく罪悪感が彼に言うのだ。
償え。と。
だが、彼には方法がわからない。逃避として自分を傷付けたところで、何の解決にもなってはいない。
せめて彼女に何かしたいと思うが、もはやそんな資格さえあるかわからない。
ならせめて、離れ気味の友人としてここにいようと彼は思う。自分が彼女にした真実をいずれ話したとき、どんな関係にでも変化できるように。
例え絶交されても、友人ならそう心は痛まないだろう。突然消えたとしても、ただの友人ならばいずれ記憶の片隅に埋もれ忘れ去られる。
そうでなくては、ならないのだ。彼女の平穏の為に。
……逃げだとはわかっている。しかしこの十年、方法を彼はずっと捜し続けたのだ。手当たり次第に分厚い医学書を読み漁り、異伝子についての博士論文を辞書を傍らに目を通し、自分の能力を自身を実験台に文字通り必死になって理解し制御の訓練を続けてきた。
結果、皮肉にも彼の能力は研ぎ澄まされ、ほぼ完全に支配下に置けるようになった。彼にとってちっとも嬉しくないことだが。
死んで償えるならすぐにでも彼はそうするだろう。だが、それだけはしないようにしている。未来の可能性だけは、捨てられないからだ。
「ううん、いいよ。私もちょっと用事があるし。……ついて来たらダメだよ?」
なぜか香取から目を逸らしながら化野は言う。その様子から、香取は素直に身を引くことにした。
「わかった。気をつけてね」
「大丈夫よ! これでも私は守護役なんだからっ!」
化野と校門で別れる。自分の家とは反対側に走る彼女を見送りながら、香取も歩き出した。
香取は家に帰り着く。道中それとなく携帯を捜してはみたものの、結局見つからなかった。誰かに拾われたのかもしれない。先日からトラップが仕掛けられたままの玄関をもはや慣れた様子でくぐり抜けて、彼は家に入った。
「ただいまー」
誰もいない。分かりきっているが。
キッチンに書き置きもなく、どうやらまだ母親は帰ってきていないらしい。
「…… 寝よう」
やることもないし、と思ったら、思い出した。
「晩ご飯作らないと……」
どうせ母親はアテにならない。香取は冷蔵庫を覗きこんだ。
結局、香苗は寝るまで帰って来なかった。