4th 禁忌の少年少女
「さあて、と!」
香取は、地図を頼りに探索を再開した。確かに広い学園だが、地図があればなんとかなりそうである。
どこから行こうかと悩んだ挙げ句、外側から回ることにした。この学園は内周部分に特別教室が集中している造りになっているため、外周部分は教室ばかりだ。時間短縮のためそちらを先にした。
手早く教室棟を見て回る。やはりというか何と言うか、同じような部屋ばかりでつまらなかった。ただ、どの部屋でも窓が防弾ガラスになっていた辺り戦慄せざるを得なかったが。
(校内で能力の小競り合いでも起きるのかな?)
よく見れば、引き戸のガラスにさえ飛散防止フィルムが貼ってある。学園側としては、最大限生徒の安全性は保障したいのだろう。
彼の目にとまる物があったのは、外周と内周を繋ぐ渡し廊下からふと見下ろした中庭だった。いや、者と言うべきか。
(ん……!?)
時間が停止したかのような中庭のベンチに、一人。香取と同じ見事な白髪を長髪にした女子生徒がいた。読み差しなのだろうか、小説を傍らに置いてぼんやりと中空を見上げて物思いにふけっているように見える。まるで喪服のように飾りの無い黒い服を着ているその手には、香取とこれまた同じ白い手袋が。香取の手袋は火傷の保護のため少々厚い生地を使っているが、その少女の手袋は日除けのためのものらしく生地が薄く、半袖に合わせているのか肘までの長さになっていた。肌自体がそもそも白いのとあいまって、見た目はまるで陶器で出来た人形のようである。
ある意味、自分と似た少女。気になるが、しかし見知らぬ人に声をかけるのもはばかられる。第一、上から声をかけたら驚かれるだろう。
(学生……だよね?)
年代は同じくらいなのだが、校内なのに私服だった。学生ならば先程の化野のような制服のはずなんだろうけれど。
よく見れば、彼女も腕章を着けていた。そこには、『禁―弐』とある。
それを見て、香取はすぐその場を立ち去る決意をした。
禁忌種に扱われるのは大抵『制御不能』か『無差別』の特性を持つ。中には、目線が合っただけで石になる、などという神話の化け物じみた能力者までもいるらしい。巻き添えは勘弁だ。
(なんか、この街に来てからよく逃げてる気がする……)
情けないことを思いながらも、香取は速度を上げる。異伝子で強化された身体は容易く中庭を背景の一部にした。異伝子保有者の平均速度は、百メートルを三秒とされている。当然、床に与える力もそれなりだろうが、校舎は余裕をもって耐えてくれた。校舎自体がかなり頑丈になっているのだろう。
ふう、とため息をついてから、香取は校内の探索を再開した。
「……先生。これって?」
香取が校内探検を再開した頃。市街地では化野と守屋を含む守護役が数人、集まっていた。先程救急車に青年一人が乗せられて運ばれていった所だ。
「おっさんが搬送されただけだぁな。パニックになっちまった市民が慌ててアタシらを呼び出したらしい」
「ああ、坂崎さん」
二人に話し掛けたのは、見た目三十程度のおばさんだった。坂崎沙江と言う熟練の守護役で、その年季からこの区画のリーダー的な存在である。
「なるほど。それじゃ、用件自体は大した事ではないというわけですね?」
守屋が返事を返す。周囲に集まっていた他の守護役も、その言葉と坂崎の頷きに表情を緩めた。
「極端に衰弱してたのがちょいと気になるけど、病院行けば平気やね。
さあさ、解散解散! 後の処理はアタシと守屋がやっておくから、各々自分の仕事に戻んなさいな!」
パンパン、と手を高らかに鳴らして坂崎が言う。
勝手に巻き込まれた守屋も坂崎には一目置いているので、渋々とメモ用に手帳を取り出した。
「それじゃ、先生。私はこれで」
化野は自分は必要ないと判断して、踵を返した。
「ああ。私が言うのも何だが、気をつけて帰るといい」
「わかりました」
(さて、健の所にもどらなくちゃ!)
ぐぐっ、と足に力を込める。同時に、『こう在りたい自分』を強くイメージする。イメージの強さが一定を越えたら、後は身体が勝手にそれを実現する。
イメージに依存する変身能力。これが化野の『変幻自在』の性質だった。
軽く地面を蹴る。それだけで、午後の空に身体は舞っていた。近くのビルの屋上に着地して、屋上伝いに学園を目指す。
異伝子保有者特有の馬鹿げた身体能力を更に強化、操作でき、場合によっては人間以外にも変身できる。特種の異伝子保有者は『変化すること・させること』に特化しているが、特種で壱号に指定されるのは彼女と後一人だけだ。
まさにあっという間に化野は学園の屋上に到着した。
ちょうどよく、香取の姿も見える。中央棟の屋上で、彼は空を見上げていた。
手を振ると、気付いてくれたのか手を挙げて返事を返してくれる。彼女はもう一度、屋上を蹴った。
「ふう……」
香取は、中央棟の屋上に登っていた。私服が風で騒がしく暴れるが、気にせず彼は手摺から身を乗り出して下を見る。
落ちたら死ねるかな、と思う。死んだら楽になれるかな、と思う。……右手を見た。
(意味が無いって、わかってるんだけどね……)
そしておもむろに、鉄の手摺に傷口を叩き付けた。
「……っ!」
開いた。血が溢れ、手袋が赤く色付く。痛みはあまり無い。というより、そこだけが鈍くなっていた。十年間、焼いたり潰したり切ったり刺したりしてきたのだ。当然とも言える。痛くなくなったら、もっと痛くなるように傷つけてきた。だからというか、今はもう感覚すら鈍い。視覚から来る条件反射で声だけは出るが。
だらだら垂れ始めた血を、やるせなく見つめる。赤。赤。赤。赤。
思い出すのは、かつての風景。
僅か五つの自分が人を殺しかけたという、思い出したくもない思い出。
そう。化野育美の腹部に、確実に肝臓と脊髄を貫く勢いで、刃を刺したという、彼の全ての原点で終点でトラウマでもある思い出だった。
と、視線を感じて見上げた空から目を外すと、ここ数日で見慣れた影が手を振っているのが見えた。返事代わりに手を挙げて応える。そしてこちらにジャンプする彼女に場所を開けるために、手摺から離れた。
「おかえり。……でいいよね?」
「うん。ただいま! で、どう? どこまで見れた?」
「一通りは。中庭だけは誰かがいたからまだだけどね」
互いに言葉を交わす。ふと、化野が香取の手に気付いた。
「どうしたのそれ! 真っ赤じゃない!?」
「あー。うん。そんなに慌てなくていいよ。ちょっとぶつけて傷口が開いただけだから、しばらくすれば止まると思う」
ささっ、と香取は隠すように手を後ろに回す。それを化野は、
「大丈夫じゃないって!」
言って、追う。そして、化野が香取の手に触れた瞬間、思わず彼は鋭く叫んでしまった。
「触るなっ!」
余りの剣幕に驚いた化野は、すぐに手を離す。その顔には、不可解と困惑と……僅かな、恐れが見えた。
「あ…… その、悪い」
香取はすかさず謝った。さすがに過剰に反応し過ぎてしまったと反省する。
「う、うん。ちょっとびっくりしたけど……でも、保健室には行こう? 消毒くらいはしたほうがいいと思うの」
化野は、まだ香取の手を気にしながら言った。言葉こそ疑問の形をとっているが、連れていくぞ、と今にも手を引きそうである。
「うん、わかった。さすがにそれくらいはするよ」
確かこの棟の一階にあったはずだよね、と言って去る香取に化野は少しだけ、違和感を覚えた。
何かがほんの少しだけ、けれど致命的にずれているような、そんな違和感。
けれど、彼女は内心で首を横に振った。
(このズレも、きっと埋まるよね? これからずっと、近くに居られるんだから……)
想う。思うではなく、この字だ。
十年越しに再会できた恩人で初恋の人なら、それが正しい。はず。
ふと気付くと、先に校舎に入った香取が戸を手で押さえて開けたまま、どうしたの、といいたげに彼女を見ていた。どうやら物思いは彼女が彼と居る時間をかなり減らしたらしい。
もったいない、と思いながら、化野は香取に駆け寄った。