第五章 巫女
日本橋の上に、風が吹き抜けた。
川の水面がかすかに揺れ、灯籠の光が細かく散った。煙の匂いは、さきほどよりもはっきりしている。火は確実に広がっていた。
町の人々の動きも、さっきまでとは違っていた。
荷物を抱えて橋を渡る者が増えている。桶を抱えた男たちが走り、女たちは子どもを連れて急ぎ足で通り過ぎる。江戸の人々は火事に慣れている。だが、それでも空の赤さを見れば、ただ事ではないことが分かるのだろう。
悠人は橋の欄干に手を置いたまま、煙の向こうを見ていた。
「あなたは」
巫女が言った。
「町を壊す仕事をしている人ですね」
悠人は振り向いた。
「どうして分かるんです」
巫女は少し考えるように目を細めた。
「町を見る目が違います」
それだけ言った。
悠人は苦笑した。
「壊す、という言い方は少し違います」
「新しい町を作る仕事です」
巫女はうなずいた。
「同じことです」
その言葉に、悠人は返す言葉を失った。
確かに同じだ。
再開発の図面の上では、古い建物はただの区画番号に変わる。そこにどんな人が住んでいたのか、どんな生活があったのか、そんなものは計算に入らない。
巫女は言った。
「江戸も、何度も壊れます」
炎の方角を見ながら。
「火事で」
「地震で」
「洪水で」
悠人は聞いた。
「それでも続くんですね」
巫女はうなずいた。
「町は」
静かに言う。
「人が作ります」
そして少し笑った。
「人が忘れないかぎり、町は消えません」
悠人は、その言葉を胸の奥で繰り返した。
人が忘れないかぎり、町は消えない。
再開発の仕事をしている自分にとって、その言葉は妙に重かった。
そのときだった。
遠くで、太鼓の音が急に強くなった。
ドン、ドン、ドン。
火の見櫓の太鼓だ。
橋の向こうから、また火消しの一団が走ってきた。半纏の背には大きな紋が染め抜かれている。梯子を担ぎ、鳶口を握り、まっすぐ芝の方へ向かっていく。
その背中を見ながら、巫女は言った。
「江戸には、町を守る人がいます」
「火消しですね」
「それだけではありません」
巫女は、ゆっくりと悠人を見た。
「町には、目に見えない守りもあります」
悠人は首をかしげた。
「神様ですか」
巫女は微笑んだ。
「そうかもしれません」
「違うかもしれません」
その曖昧な答えに、悠人は少し戸惑った。
巫女は続けた。
「町が大きくなると」
「町の魂も大きくなります」
悠人は言葉の意味をすぐには理解できなかった。
だが巫女の目を見ていると、それがただの比喩ではないように思えてくる。
「江戸は」
巫女は言った。
「特別な町です」
煙の向こうで、炎がさらに大きくなった。
赤い光が夜空を覆っていく。
「この町は」
「やがて名前を変えます」
悠人は思わず言った。
「東京」
巫女はその言葉をゆっくり繰り返した。
「とうきょう」
不思議そうに。
そして微笑んだ。
「きれいな響きですね」
悠人は空を見上げた。
煙の向こうに星がある。
江戸の人々も見ている星だ。
そして、未来の東京でも見える星だ。
巫女は静かに言った。
「町は続きます」
「名前が変わっても」
そのとき、地面が震えた。
大きな音がした。
遠くで建物が崩れたのだ。
炎が一気に空を染める。
火は、いまや町を越え始めていた。
巫女は炎の方角を見ながら言った。
「始まりました」
悠人は息を呑んだ。
「明暦の大火……」
巫女はうなずいた。
江戸の町が、歴史の中で最も大きく揺れる夜だった。




