第三章 日本橋の町
巫女の言葉のあと、しばらくのあいだ悠人は何も言えなかった。
遠くの空は赤くなり始めていた。煙が風に流れ、江戸の町の上をゆっくりと這うように広がっていく。火の見櫓の太鼓はまだ鳴り続けていた。ドン、ドン、と低い音が、町の奥から奥へと伝わっていく。
人の流れはすでに変わっていた。
日本橋の通りには、逃げる人と、火のほうへ向かう人が混じっている。桶を抱えて走る者、荷を担いで急ぐ者、子どもの手を引いて橋を渡る女。だが、その中を、半纏を着た男たちが逆向きに走っていった。
火消しだった。
肩に梯子を担ぎ、鳶口を握りしめている。顔は煤で汚れているが、足取りは迷いがない。
「道をあけろ!」
男のひとりが叫ぶ。
人々は自然に左右へ分かれた。
火消しの列は橋を渡り、芝の方角へ消えていく。江戸の町人たちは、その背中を見送ることにも慣れているようだった。
悠人は、しばらくその光景を見つめていた。
歴史の本では知っている。
江戸は火事の町だ。
木造の家が密集し、風が吹けば火は町を越えて広がる。だからこそ火消しという職があり、町ごとに組が作られていた。
だが、目の前で見る火消しの姿は、知識とはまるで違っていた。
彼らは町の一部だった。
町を守る筋肉のようなものだった。
「怖いですか」
巫女の声がした。
悠人は振り向いた。
巫女は、日本橋の欄干に手を置き、炎の方角を静かに見つめていた。風に乗って、かすかな灰が舞ってくる。
「怖いというより……」
悠人は言葉を探した。
「現実じゃないみたいです」
巫女は微笑んだ。
「あなたの世界では、火事は珍しいのでしょう」
「ここまで大きいのは……」
悠人は空を見上げた。
煙の向こうで火が揺れている。
「江戸では、町が丸ごと燃えることもあります」
巫女は静かに言った。
「それでも、人は逃げて、また建てます」
悠人は思わず聞いた。
「どうしてですか」
巫女は答えなかった。
その代わり、日本橋の町を見渡した。
店の灯りが揺れている。
人が走っている。
遠くでは三味線の音もまだ聞こえる。
「町は」
巫女は言った。
「人がいるかぎり、消えません」
その言葉を聞いたとき、悠人の胸の奥に何かが触れた。
自分は再開発の仕事をしている。
古い町を壊し、新しい建物を建てる。
それが都市を前に進めることだと信じてきた。
だが、この江戸の町を見ていると、別の考えが浮かぶ。
町は、建物ではないのではないか。
人の流れ。
仕事。
祈り。
生活。
それらすべてが集まって町になる。
建物が壊れても、人がいれば町は続く。
その考えを、悠人は初めて自分の身体で理解し始めていた。
そのときだった。
遠くで、大きな音がした。
ドン。
地面がわずかに震える。
誰かが叫んだ。
「家が崩れた!」
火の勢いが増していた。
煙が濃くなり、空の赤さも強くなっている。
巫女は炎を見ながら言った。
「これは、ただの火事ではありません」
悠人はその言葉に、背中が冷たくなった。
「……知っているんです」
巫女は悠人を見た。
その目は、町の夜よりも深かった。
「あなたは、この火を知っています」
悠人はゆっくりうなずいた。
歴史の中で。
学校で習った名前。
江戸を焼き尽くした火。
「明暦の大火」
悠人は小さく言った。
巫女は驚かなかった。
「その名前で呼ばれるのですね」
彼女はそう言って、炎の空を見上げた。
江戸の町は、いま歴史の中に入っている。
悠人は、その真ん中に立っていた。




