表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/8

第二章 火の匂い

日本橋へ向かう道すがら、悠人は何度も振り返った。


芝の町は、夜だというのに静かではなかった。いや、むしろ夜になってから生き始める部分すらあるように見えた。店先の灯り、行き交う人、荷を担いで急ぐ人足、格子戸の奥の笑い声。現代の東京にも夜の賑わいはある。だがここには、もっと生の気配がむき出しであった。


人が、町を直接つくっている。


そのことが肌で分かる。


やがて道は広くなり、灯りも増えた。

日本橋が近いのだろう。


悠人が橋の中央に立ったとき、江戸という都市の大きさが、はじめて身体に入ってきた。

川の両岸に町が広がり、その先へさらに道が延びている。無数の人の往来が、この橋を起点に脈打っている。


そのとき、橋の向こうがざわめいた。


「道をあけろ」


低い声が飛ぶ。

人々が自然に左右へ寄る。

松明の列が現れた。


大名行列だった。


槍持ち、供回り、そして黒塗りの駕籠。

橋の上の空気が、一瞬にして張りつめた。


悠人も周囲にならって頭を下げた。

だが、気配を感じて顔を上げる。


駕籠の簾が、ほんの少し上がっていた。


中の人物が、こちらを見ていた。


鋭い目だった。

人を見るというより、異物を見定めるような目である。


次の瞬間、簾は下りた。

行列はそのまま橋を渡り、城の方角へ消えていく。


悠人はしばらく動けなかった。


江戸城。

将軍。

大名。

町人の暮らし。

すべてが、一つの大きな都市の中でつながっている。


その構図を、彼は現代の都市計画の図面よりもはるかに鮮明に理解した。


そして同時に、風の匂いが変わったのに気づいた。


木の燃える匂いだった。


遠くで、太鼓が鳴った。


ドン。

ドン。

ドン。


火の見櫓の太鼓だ、と誰かが言った。


通りの向こうの空が、赤く染まり始めていた。


「火事だ!」


その声はすぐに別の声を呼び、町の空気を一変させた。


桶を抱えて走る者。

戸を閉める商人。

子どもの手を引いて駆ける女。


江戸の町は、炎に対して瞬時に反応した。


「芝が燃えてる!」


誰かの叫びで、悠人の心臓が大きく打った。

芝。

それは、増上寺のある方角だった。


火消しが梯子を担いで走っていく。

鳶口が火の光を受けてきらりと光る。

風が強まる。


火は、ただの火事ではなかった。

町をまたぐ火になる。

そのことが、歴史を知る悠人には分かっていた。


そのとき、背後で静かな声がした。


「あなたは、この町の人ではありませんね」


振り向く。


白い装束に緋袴の女が立っていた。

巫女だった。


夜の灯りの中で、その姿だけが妙にはっきりしていた。


「どうして分かるんです」


悠人が問うと、巫女は炎のほうを見たまま答えた。


「江戸の人は、火を見るとき、まず逃げ道を考えます」


それから、ゆっくりと悠人を見た。


「でも、あなたは違う」


風が吹く。

煙の匂いが強くなる。


巫女は、まっすぐに言った。


「あなたは、時の向こうから来た人ですね」


悠人は返す言葉を失った。


炎は夜空を赤く染め、江戸の町はゆっくりと、しかし確実に大きく動き始めていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ