第二章 火の匂い
日本橋へ向かう道すがら、悠人は何度も振り返った。
芝の町は、夜だというのに静かではなかった。いや、むしろ夜になってから生き始める部分すらあるように見えた。店先の灯り、行き交う人、荷を担いで急ぐ人足、格子戸の奥の笑い声。現代の東京にも夜の賑わいはある。だがここには、もっと生の気配がむき出しであった。
人が、町を直接つくっている。
そのことが肌で分かる。
やがて道は広くなり、灯りも増えた。
日本橋が近いのだろう。
悠人が橋の中央に立ったとき、江戸という都市の大きさが、はじめて身体に入ってきた。
川の両岸に町が広がり、その先へさらに道が延びている。無数の人の往来が、この橋を起点に脈打っている。
そのとき、橋の向こうがざわめいた。
「道をあけろ」
低い声が飛ぶ。
人々が自然に左右へ寄る。
松明の列が現れた。
大名行列だった。
槍持ち、供回り、そして黒塗りの駕籠。
橋の上の空気が、一瞬にして張りつめた。
悠人も周囲にならって頭を下げた。
だが、気配を感じて顔を上げる。
駕籠の簾が、ほんの少し上がっていた。
中の人物が、こちらを見ていた。
鋭い目だった。
人を見るというより、異物を見定めるような目である。
次の瞬間、簾は下りた。
行列はそのまま橋を渡り、城の方角へ消えていく。
悠人はしばらく動けなかった。
江戸城。
将軍。
大名。
町人の暮らし。
すべてが、一つの大きな都市の中でつながっている。
その構図を、彼は現代の都市計画の図面よりもはるかに鮮明に理解した。
そして同時に、風の匂いが変わったのに気づいた。
木の燃える匂いだった。
遠くで、太鼓が鳴った。
ドン。
ドン。
ドン。
火の見櫓の太鼓だ、と誰かが言った。
通りの向こうの空が、赤く染まり始めていた。
「火事だ!」
その声はすぐに別の声を呼び、町の空気を一変させた。
桶を抱えて走る者。
戸を閉める商人。
子どもの手を引いて駆ける女。
江戸の町は、炎に対して瞬時に反応した。
「芝が燃えてる!」
誰かの叫びで、悠人の心臓が大きく打った。
芝。
それは、増上寺のある方角だった。
火消しが梯子を担いで走っていく。
鳶口が火の光を受けてきらりと光る。
風が強まる。
火は、ただの火事ではなかった。
町をまたぐ火になる。
そのことが、歴史を知る悠人には分かっていた。
そのとき、背後で静かな声がした。
「あなたは、この町の人ではありませんね」
振り向く。
白い装束に緋袴の女が立っていた。
巫女だった。
夜の灯りの中で、その姿だけが妙にはっきりしていた。
「どうして分かるんです」
悠人が問うと、巫女は炎のほうを見たまま答えた。
「江戸の人は、火を見るとき、まず逃げ道を考えます」
それから、ゆっくりと悠人を見た。
「でも、あなたは違う」
風が吹く。
煙の匂いが強くなる。
巫女は、まっすぐに言った。
「あなたは、時の向こうから来た人ですね」
悠人は返す言葉を失った。
炎は夜空を赤く染め、江戸の町はゆっくりと、しかし確実に大きく動き始めていた。




