第一章 芝の夜
春の雨が上がったばかりの夕方だった。
濡れたアスファルトは薄い鉛色の空を映し、車が通るたびに細かな水が跳ねた。通勤客の波はまだ途切れず、駅からあふれた人の流れが、オフィス街の谷間をそれぞれの帰る先へ向かって散っていく。ネクタイを緩めながら歩く男、スマートフォンをのぞき込んだまま足を進める女、コンビニの袋を提げた若者。東京の夕方は、いつも同じようでいて、毎日少しだけ違う顔をしている。
桐山悠人は、その流れから半歩外れるように歩いていた。
年は二十八。都内の不動産開発会社に勤めている。肩書としては都市再生事業部の主任補佐だが、やっていることは要するに、古い街区を調べ、まとめ、壊し、新しい計画図に置き換える仕事だった。
大学では建築を学んだ。最初は本気で、街をつくる側の人間になりたいと思っていた。人が暮らしやすい都市、機能的で美しい空間、歴史を受け継ぎながら新しい時代に応える設計。口にすればいくらでも立派なことは言えたし、実際、新卒で今の会社に入ったころは、それを疑いもしなかった。
けれど三年、四年と仕事を続けていくうちに、図面の線の下にあるものが気になるようになった。
そこに、どんな路地があったのか。
どんな店があり、誰が住み、どんな匂いがしていたのか。
再開発の会議では、そうしたことは数字にならない。容積率、採算性、回遊導線、防災性能、商業価値。街はそうした言葉に置き換えられていく。そして、その置き換えの早さに慣れてしまえば、たいていのものは平気で壊せるようになる。
悠人は、まだそこまで慣れきれずにいた。
その日も、社内では芝周辺の再整備案について打ち合わせがあった。表向きは歩行者空間の改善と観光導線の再設計だが、要は古い建物を整理し、土地の価値を上げる話である。会議室の大きな画面に映された完成予想図は、明るく、洗練され、誰にとっても便利そうに見えた。
だが悠人には、その図の中に“時間”がごっそり抜け落ちているように思えた。
会議を終えたあと、まっすぐ帰る気にはなれなかった。
気がつけば、彼は芝のほうへ歩いていた。
夕方の湿った風が、ビルの谷間を抜けてくる。海が近いせいか、東京の中心部にしては空気にやわらかさがある。ふと視線を上げると、ガラス張りの高層ビルの隙間から、赤く染まりかけた東京タワーが見えた。
子どものころは、あの塔を見ると東京へ来た気がした。
いまは逆に、東京という都市が必死に自分の輪郭を示しているように見える。
やがて、増上寺の山門が見えてきた。
都心の真ん中にあって、この寺だけは時間の流れが少し違う。観光客は多いし、周囲にはマンションもオフィスもある。だが境内へ足を踏み入れると、街の音が一枚薄い膜の向こうへ遠のく気がするのだ。
悠人は石畳をゆっくり歩いた。
雨上がりの砂利はしっとりと湿り、若葉の匂いが立っていた。空はまだ完全には暗くなっていない。本堂の屋根の向こうに東京タワーが立ち、古い寺と近代の塔が一枚の景色の中に並んでいる。
この光景を初めて見たとき、悠人は奇妙な感覚を覚えたものだった。
江戸と東京が、争うこともなく、同じ場所に立っている。
本来、時代はこうして並ぶものではない。
古いものが壊れ、その跡に新しいものができる。
そう信じて仕事をしてきたはずなのに、この場所だけは、過去が消えていないように見えた。
やがて悠人は、三解脱門の前で足を止めた。
大きな門だった。
知識としては知っている。江戸初期の建立で、現存する増上寺最古級の建物。戦災も震災もくぐり抜け、四百年近くこの場所に立ち続けてきた門である。
だが、夕暮れのなかで見上げると、その門は単なる文化財ではなかった。
時間そのものが、巨大なかたちを取って立っているように見えた。
この門を、どれだけの人がくぐったのだろう。
僧、武士、町人、旅人、女、子ども、将軍家に仕える者。
病を祈る人、死者を弔う人、明日の暮らしを願う人。
どれほどの足音が、この下を通り過ぎていったのか。
悠人は見上げたまま、しばらく動かなかった。
そのとき、風が吹いた。
雨の匂いを含んだ風だった。
門の向こうへ、若葉の影がかすかに揺れた。
悠人は、ほとんど無意識に一歩踏み出した。
門をくぐる。
その瞬間、耳の奥で細い音が鳴った。
金属がきしむような、あるいは遠くで鐘が揺れたような、奇妙な音だった。
足が止まる。
空気が違う。
そう思ったときには、もう遅かった。
振り返る。
東京タワーが見えなかった。
代わりに、夜の空があった。
深く、驚くほど暗い空だった。
そこには、都心ではあり得ないほど多くの星が浮かんでいた。
悠人は息を呑んだ。
本堂の灯りも違っていた。電灯の白さではない。もっと黄に寄った、揺れる光だ。境内のそこかしこに石灯籠が置かれ、その火が静かに明滅している。
その明かりの中を、人が歩いていた。
着物姿の男。
頭を剃った僧。
手拭いを巻いた人足らしい者。
女たちの衣の色も、髪の結い方も、見慣れたものではない。
草履の音がした。
読経が風に乗って流れてきた。
悠人は門柱に手をついた。
木は冷たく、ざらりとしていた。
夢ではない。そう思うほかなかった。
「門の下に長く立つものではありませぬ」
低い声がした。
振り向くと、ひとりの僧が立っていた。
年は四十前後に見える。法衣は質素だが、佇まいに妙な落ち着きがある。悠人のスーツ姿を見ても、さほど驚いた様子がない。
悠人は口を開いたが、何も言えなかった。
僧は悠人の顔を静かに見てから、門の奥へ視線を移した。
「風が変わった夜は、ときおりこういうことがある」
「……こういうこと、って」
ようやくそれだけ言うと、僧は小さく肩をすくめた。
「見れば分かる」
言われて、悠人はもう一度境内を見た。
広い。
現代の増上寺より、はるかに広く感じられた。堂宇がいくつも並び、その間を人が行き交っている。寺というより、一つの町のようだった。
「ここは……」
「芝の増上寺だ」
僧は静かに言った。
「徳川家の菩提寺。江戸で知らぬ者はおらぬ」
悠人の胸が大きく打った。
江戸。
その言葉が、知識ではなく、現実の重さをもって降りてきた。
僧は続けた。
「迷い人なら、まずは町を見ることだ」
「町を?」
「そうだ。人の暮らしを見る。何を食い、何を売り、何を恐れて生きているか。それが分かれば、その土地のことも分かる」
そう言って僧は、芝の町へ下る坂を顎で示した。
悠人はためらった。
だがそのためらいより、胸の奥でふくらむもののほうが強かった。
恐れではない。
好奇心だった。
彼はゆっくり坂を下りた。
下るにつれて、町の音が大きくなっていく。
鍋の音、笑い声、怒鳴り声、どこかで鳴る三味線。
やがて、道の両側に低い家並みが現れた。格子戸から灯りが漏れ、人の影が揺れている。
江戸の町だった。
悠人は夢の中を歩くように、その通りへ足を踏み入れた。
「兄さん、見ねえ顔だな」
声をかけられた。
団子屋だった。
炭火の前に立つ男が、串を返しながらこちらを見ている。日に焼けた顔に人懐こい笑みがあった。
「旅の人かい」
悠人はとっさに答えられず、少し間をおいてうなずいた。
男は笑った。
「なら、江戸の団子を食わなきゃ始まらねえ」
そう言って一本差し出した。
受け取ると、団子はまだ温かかった。
一口かじる。
香ばしさと甘辛さが口に広がる。
驚くほど素朴で、驚くほど旨かった。
男は満足そうにうなずいた。
「だろう。江戸のもんは、うまくなきゃ売れねえ」
「……ここは、芝ですよね」
悠人が聞くと、男は不思議そうに言った。
「そうさ。芝だ」
そして、道の先を串の先で示した。
「まっすぐ行きゃ、日本橋だ」
日本橋。
その名を聞いた瞬間、悠人はくらりとした。
歴史の中の地名が、目の前の道の延長として存在している。
その感覚が、妙に現実を帯びていた。
「江戸へ来て日本橋を見ねえのは、もったいねえ」
男はそう言ってから、ふと思い出したように付け加えた。
「俺ァ桐山ってんだ。あんたは?」
悠人の喉が乾いた。
「……桐山です」
男が目を丸くした。
それから、くくっと笑った。
「そりゃ妙だ。同じか」
悠人も無理に笑ったが、その瞬間、背中に微かな震えが走った。
偶然だろうか。
ただの偶然にすぎないのだろうか。
団子屋の男――桐山は、そんなことには頓着せず、炭火の上の団子を返した。
「江戸は広いぜ、兄さん」
そして、空を見上げた。
「だがまあ、今夜は風がある。火さえ出なきゃいいがな」
悠人もつられて空を見た。
星があった。
だが、その星の下で、どこかの空がわずかに赤い気がした。




