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雪の日の合言葉は「無理しない」

作者: 星渡リン
掲載日:2026/02/08

 目が覚めて、カーテンを少しだけ開けた瞬間。

 胸の奥が、きゅっと縮んだ。


 外が、真っ白だった。


 音が薄い。

 いつもの朝のざわざわが、雪に吸い込まれていくみたいに静かで。


「……やだな」


 声に出すと、余計に現実になる。


 遅れたら迷惑。

 休んだら穴があく。

 雪のせいにしたら、甘えてるみたいで。


 そんな言葉が、寝起きの頭の中に勝手に並ぶ。

 私は急いで着替えて、いつもより厚い靴下を選び、マフラーを巻いた。


 玄関を出た瞬間、空気が冷たい。

 息が白くて、頬が痛い。


 道はいつもの道なのに、違う場所みたいだった。

 アスファルトの黒が隠れて、白い面が続いている。

 足を置く場所が、分かりにくい。


 それでも私は、いつもの速度で歩こうとしてしまう。


 早足。

 少し前かがみ。

 「遅れたくない」が、背中の真ん中に張り付いて離れない。


 角を曲がったところで、貼り紙が目に入った。


 コンビニのドアに、手書きの文字。

 雪で少し濡れているのに、丁寧にテープで留められている。


 「本日の合言葉:無理しない」


 ……合言葉。


 私は一瞬立ち止まりかけて、すぐに視線を足元へ戻した。

 そんなの、言っていられない。

 そう思って歩き出す。


 駅前は、いつもより人が少ない。

 そのぶん、足音がよく聞こえる。

 みんな歩幅が小さい。急がない。急げない。


 改札の上の電光掲示板が、遅延を知らせていた。

 胸の中の焦りが、さらに膨らむ。


 私はスマホを取り出して、会社のチャットを開きかけて、手が止まった。

 今、連絡する?

 でも、まだ駅に着いてない。

 でも、遅れるのは確実で。


 迷っているうちに、人の流れに飲まれそうになる。


 そのとき、足元の白が、少しだけ光って見えた。

 雪の上の白線。境目が見えない。


 私は踏んだ瞬間、つるりと滑った。


「……っ」


 声にならない声が漏れる。体が傾く。

 とっさに腕を振ってバランスを取った。


 転ばなかった。

 でも、心臓が大きく跳ねた。


 恥ずかしい。

 怖い。

 そして、悔しい。


 転ばなかった安堵より先に、「こんなところで時間を使ってる場合じゃない」と頭が言う。

 私は息を詰めたまま、駅へ向かった。



 会社の入っているビルは、駅から少し歩く。

 いつもなら何でもない距離が、今日は遠い。


 歩道の端に寄せられた雪が、靴の側面を白くする。

 足裏が冷たくて、力が入る。

 力が入ると、余計に滑りやすい気がして、さらに肩が上がる。


 ビルの前に差しかかったとき、また貼り紙があった。


 入口のガラスに、同じ文字。


 「本日の合言葉:無理しない」


 その下に、小さく追記がある。


 「転ばない速度で」


 私はそこで、ようやく顔を上げた。


 入口の前で、雪かきをしている人がいた。

 反射テープの付いた帽子。厚い手袋。

 スコップの動きが、静かで、一定で、乱れない。


 年上の清掃員の女性。

 私は毎朝見かけるのに、挨拶をしたことがない。


 私は足を速めた。

 速めた瞬間、また滑った。


 今度はさっきより大きく、つるりといった。

 肩が跳ねて、体が傾く。


 転ぶ。


 そう思った瞬間、女性の声が飛んできた。


「急がない。歩幅、小さく」


 近づいてくるんじゃない。

 声で止める。

 叱る感じじゃないのに、まっすぐ入ってくる声だった。


 私は反射で足を止めた。

 止めると、転ばない。


 当たり前のことなのに、焦っていると忘れる。


 私はその場で一度、深く息を吐いた。

 白い息が、ふわっと広がって消える。


 女性はスコップを置き、少しだけこちらへ向き直った。


「大丈夫?」


「……大丈夫です。すみません」


「謝らなくていいよ。雪の日は、足元がずるいから」


 ずるい。

 その言い方が、妙にやさしくて、胸が少し緩む。

 足元のせいにしてもいい。そう言われた気がした。


 女性は貼り紙を見て、私に視線を戻す。


「合言葉、見た?」


「見ました。でも……」


 言いかけて、言葉が詰まった。

 仕事が。遅れたら。迷惑が。


 女性は私の続きを待たずに、少しだけ笑った。


「無理しないってのはね、止まるって意味じゃないよ」


「……」


「転ばない速さで行くってこと」


 私は貼り紙の追記を思い出した。

 転ばない速度で。


 女性は、手順みたいに淡々と言う。


「歩幅を小さく。つま先、ほんの少し外。白線は避ける。マンホールもね」


 私は頷く。

 聞いているだけで、肩の力が少し抜ける。


「それと、息。止めない」


 女性は自分で一度、深呼吸して見せた。

 その呼吸が、私の胸にも移ってくる気がした。


「焦ると体が固くなる。固いと滑る。滑るともっと焦る。雪の日は、それが一番危ない」


 私はスマホを握りしめていた手を、少し緩めた。


「会社に……連絡した方がいいですよね」


「した方がいい。早めに、短く。安全優先って言えばいい」


 安全優先。

 仕事の言葉のはずなのに、今日は生活の言葉に聞こえた。


 私はその場でチャットを開いた。

 指先が冷たくて、文字が打ちにくい。


 それでも短く、打つ。


『遅れます。雪で足元が危ないため、安全優先で向かいます』


 送信。


 遅れる宣言は、いつも怖い。

 心臓がまた跳ねる。


 でも、すぐに返事が来た。


『了解。焦らなくていい。気をつけて』


 画面の文字が、思った以上にあたたかく見えた。

 胸の奥の固い塊が、少しだけほぐれる。


 女性はそれを見ていないのに、私の顔を見て頷いた。


「ね。言ってみると、案外大丈夫」


「……はい」


 女性は帽子のつばを軽く押さえて言う。


「私、高橋ね。毎朝ここにいるから、困ったら声かけな」


「……ミナです。ありがとうございます」


「行きな。転ばない速さで」


 私はもう一度、深呼吸した。

 そして、歩幅を小さくして歩き出した。


 同じ道なのに、足裏の感覚が違う。

 急がないと、周りの音が戻ってくる。


 雪を踏む、きゅっ、という音。

 遠くの車が雪を噛む音。


 街全体が、ゆっくり動いている。


 私だけが速くなろうとしていたのだと、ようやく分かった。



 駅の階段の前で、杖をついた男性が立ち止まっていた。

 足元を確かめるように、一段一段を見ている。


 私は少し迷ってから、声をかけた。


「手すり、空いてます。ゆっくりで大丈夫ですよ」


 男性は驚いた顔をしたあと、ゆっくり頷いた。


「ありがとう。雪の日は怖いね」


「はい。大丈夫です。ゆっくりで」


 自分で言ったその言葉が、不思議なくらい自然だった。

 さっきまでの私なら、急いでいた。

 きっと、声もかけられなかった。


 階段を上りきったとき、息が切れていないことに気づく。

 速くない。だから、息が続く。


 会社に着いたのは、いつもより少し遅い時間だった。

 でも、転んでいない。

 焦っていない。

 何より、胸の奥が変に痛くない。


 席に座ると、同僚が小声で言った。


「雪、すごいですね。大丈夫でした?」


「うん。歩幅、小さくしたら大丈夫だった」


 それだけの会話が、今日はちゃんと会話に聞こえた。

 体温が乗っている。


 午前中は忙しかった。

 いつも通りの業務。いつも通りの修正。


 でも、ふとした瞬間に窓の外を見る余裕があった。

 雪はまだ降っている。

 白が静かに増えていく。


 今日の世界は、いつもより遅い。

 それが悪いことじゃない気がした。



 夕方。

 仕事を終えて外に出ると、雪はやんでいた。


 空気は冷たいまま。

 でも、朝のような緊張はない。


 街灯がつき始めて、歩道の雪が淡く光る。

 白は眩しいはずなのに、やさしい色に見えた。


 私はいつもの道を歩く。

 歩幅を小さく。息を止めない。白線を避ける。


 ビル前に近づくと、高橋さんがまだいた。

 朝より雪は少ない。

 でも入口の前には、きれいに道ができている。


 貼り紙も、まだそこにあった。

 少し濡れていて、透明テープで補強されている。


 「本日の合言葉:無理しない」


 私は足を止めて、高橋さんに会釈した。


「お疲れさまです」


 高橋さんは顔を上げ、目を細くして笑った。


「おかえり。転ばなかった?」


「……はい。教えてもらった通りにしたら」


「でしょ」


 短い返事なのに、褒められたみたいで胸があたたかくなる。


 私は貼り紙を見て、言った。


「合言葉、最初は……どうしていいか分からなかったです」


「うん」


「でも、今日は……助かりました」


 高橋さんはスコップを持った手を止めずに言う。


「無理しないってのはね、甘える言葉じゃないよ」


 私は朝の自分を思い出した。

 遅れるのが怖くて、息を止めて、滑りかけた自分。


「自分と、周りを守る言葉」


 その言葉が、静かに落ちた。


 私は頷いた。


 今日、私は誰かに「ゆっくりで大丈夫です」と言えた。

 自分にも、同じことを言えた。


 高橋さんはもう一度だけ私を見て、言う。


「明日も雪かもしれない。明日も合言葉、使いな」


「はい」


「焦らない。息、止めない」


「……はい」


 私は笑った。小さく。でも確かに。


 帰り道、街灯の下の雪がきれいだった。

 白が、静かに光っている。


 家に着いて、玄関で靴を脱ぐ。

 靴底についた雪が溶けて、小さな水滴になった。


 私は深く息を吐いた。

 息が、ちゃんと部屋に届く。


「無理しない」


 声に出すと、今日が今日の形で終わる感じがした。


 雪の日は大変だ。

 でも、私は転んでいない。

 息を止めなかった。

 合言葉を、受け取れた。


 明日も、無理しない。

 それは弱さじゃない。


 冬の夜の静けさの中で、私はそう思えた。

最後まで読んでくださり、ありがとうございました。


雪の日は、普段の「いつも通り」がそのまま通用しません。けれど、その不便さは、ときどき大事なことを思い出させてくれます。

この物語で描きたかったのは、「無理しない」という言葉が、ただ休むための合図ではなく、転ばないための手順であり、自分と周りを守る判断になる、ということです。


真面目な人ほど、遅れることや止まることに罪悪感を抱えがちです。

歩幅を小さくする。息を止めない。安全優先でいいと言ってみる。たったそれだけでも、世界の見え方が少し変わります。


もし今日、あなたの足元が不安定なら。

合言葉は、きっとこれです。

「無理しない」。

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