雪の日の合言葉は「無理しない」
目が覚めて、カーテンを少しだけ開けた瞬間。
胸の奥が、きゅっと縮んだ。
外が、真っ白だった。
音が薄い。
いつもの朝のざわざわが、雪に吸い込まれていくみたいに静かで。
「……やだな」
声に出すと、余計に現実になる。
遅れたら迷惑。
休んだら穴があく。
雪のせいにしたら、甘えてるみたいで。
そんな言葉が、寝起きの頭の中に勝手に並ぶ。
私は急いで着替えて、いつもより厚い靴下を選び、マフラーを巻いた。
玄関を出た瞬間、空気が冷たい。
息が白くて、頬が痛い。
道はいつもの道なのに、違う場所みたいだった。
アスファルトの黒が隠れて、白い面が続いている。
足を置く場所が、分かりにくい。
それでも私は、いつもの速度で歩こうとしてしまう。
早足。
少し前かがみ。
「遅れたくない」が、背中の真ん中に張り付いて離れない。
角を曲がったところで、貼り紙が目に入った。
コンビニのドアに、手書きの文字。
雪で少し濡れているのに、丁寧にテープで留められている。
「本日の合言葉:無理しない」
……合言葉。
私は一瞬立ち止まりかけて、すぐに視線を足元へ戻した。
そんなの、言っていられない。
そう思って歩き出す。
駅前は、いつもより人が少ない。
そのぶん、足音がよく聞こえる。
みんな歩幅が小さい。急がない。急げない。
改札の上の電光掲示板が、遅延を知らせていた。
胸の中の焦りが、さらに膨らむ。
私はスマホを取り出して、会社のチャットを開きかけて、手が止まった。
今、連絡する?
でも、まだ駅に着いてない。
でも、遅れるのは確実で。
迷っているうちに、人の流れに飲まれそうになる。
そのとき、足元の白が、少しだけ光って見えた。
雪の上の白線。境目が見えない。
私は踏んだ瞬間、つるりと滑った。
「……っ」
声にならない声が漏れる。体が傾く。
とっさに腕を振ってバランスを取った。
転ばなかった。
でも、心臓が大きく跳ねた。
恥ずかしい。
怖い。
そして、悔しい。
転ばなかった安堵より先に、「こんなところで時間を使ってる場合じゃない」と頭が言う。
私は息を詰めたまま、駅へ向かった。
⸻
会社の入っているビルは、駅から少し歩く。
いつもなら何でもない距離が、今日は遠い。
歩道の端に寄せられた雪が、靴の側面を白くする。
足裏が冷たくて、力が入る。
力が入ると、余計に滑りやすい気がして、さらに肩が上がる。
ビルの前に差しかかったとき、また貼り紙があった。
入口のガラスに、同じ文字。
「本日の合言葉:無理しない」
その下に、小さく追記がある。
「転ばない速度で」
私はそこで、ようやく顔を上げた。
入口の前で、雪かきをしている人がいた。
反射テープの付いた帽子。厚い手袋。
スコップの動きが、静かで、一定で、乱れない。
年上の清掃員の女性。
私は毎朝見かけるのに、挨拶をしたことがない。
私は足を速めた。
速めた瞬間、また滑った。
今度はさっきより大きく、つるりといった。
肩が跳ねて、体が傾く。
転ぶ。
そう思った瞬間、女性の声が飛んできた。
「急がない。歩幅、小さく」
近づいてくるんじゃない。
声で止める。
叱る感じじゃないのに、まっすぐ入ってくる声だった。
私は反射で足を止めた。
止めると、転ばない。
当たり前のことなのに、焦っていると忘れる。
私はその場で一度、深く息を吐いた。
白い息が、ふわっと広がって消える。
女性はスコップを置き、少しだけこちらへ向き直った。
「大丈夫?」
「……大丈夫です。すみません」
「謝らなくていいよ。雪の日は、足元がずるいから」
ずるい。
その言い方が、妙にやさしくて、胸が少し緩む。
足元のせいにしてもいい。そう言われた気がした。
女性は貼り紙を見て、私に視線を戻す。
「合言葉、見た?」
「見ました。でも……」
言いかけて、言葉が詰まった。
仕事が。遅れたら。迷惑が。
女性は私の続きを待たずに、少しだけ笑った。
「無理しないってのはね、止まるって意味じゃないよ」
「……」
「転ばない速さで行くってこと」
私は貼り紙の追記を思い出した。
転ばない速度で。
女性は、手順みたいに淡々と言う。
「歩幅を小さく。つま先、ほんの少し外。白線は避ける。マンホールもね」
私は頷く。
聞いているだけで、肩の力が少し抜ける。
「それと、息。止めない」
女性は自分で一度、深呼吸して見せた。
その呼吸が、私の胸にも移ってくる気がした。
「焦ると体が固くなる。固いと滑る。滑るともっと焦る。雪の日は、それが一番危ない」
私はスマホを握りしめていた手を、少し緩めた。
「会社に……連絡した方がいいですよね」
「した方がいい。早めに、短く。安全優先って言えばいい」
安全優先。
仕事の言葉のはずなのに、今日は生活の言葉に聞こえた。
私はその場でチャットを開いた。
指先が冷たくて、文字が打ちにくい。
それでも短く、打つ。
『遅れます。雪で足元が危ないため、安全優先で向かいます』
送信。
遅れる宣言は、いつも怖い。
心臓がまた跳ねる。
でも、すぐに返事が来た。
『了解。焦らなくていい。気をつけて』
画面の文字が、思った以上にあたたかく見えた。
胸の奥の固い塊が、少しだけほぐれる。
女性はそれを見ていないのに、私の顔を見て頷いた。
「ね。言ってみると、案外大丈夫」
「……はい」
女性は帽子のつばを軽く押さえて言う。
「私、高橋ね。毎朝ここにいるから、困ったら声かけな」
「……ミナです。ありがとうございます」
「行きな。転ばない速さで」
私はもう一度、深呼吸した。
そして、歩幅を小さくして歩き出した。
同じ道なのに、足裏の感覚が違う。
急がないと、周りの音が戻ってくる。
雪を踏む、きゅっ、という音。
遠くの車が雪を噛む音。
街全体が、ゆっくり動いている。
私だけが速くなろうとしていたのだと、ようやく分かった。
⸻
駅の階段の前で、杖をついた男性が立ち止まっていた。
足元を確かめるように、一段一段を見ている。
私は少し迷ってから、声をかけた。
「手すり、空いてます。ゆっくりで大丈夫ですよ」
男性は驚いた顔をしたあと、ゆっくり頷いた。
「ありがとう。雪の日は怖いね」
「はい。大丈夫です。ゆっくりで」
自分で言ったその言葉が、不思議なくらい自然だった。
さっきまでの私なら、急いでいた。
きっと、声もかけられなかった。
階段を上りきったとき、息が切れていないことに気づく。
速くない。だから、息が続く。
会社に着いたのは、いつもより少し遅い時間だった。
でも、転んでいない。
焦っていない。
何より、胸の奥が変に痛くない。
席に座ると、同僚が小声で言った。
「雪、すごいですね。大丈夫でした?」
「うん。歩幅、小さくしたら大丈夫だった」
それだけの会話が、今日はちゃんと会話に聞こえた。
体温が乗っている。
午前中は忙しかった。
いつも通りの業務。いつも通りの修正。
でも、ふとした瞬間に窓の外を見る余裕があった。
雪はまだ降っている。
白が静かに増えていく。
今日の世界は、いつもより遅い。
それが悪いことじゃない気がした。
⸻
夕方。
仕事を終えて外に出ると、雪はやんでいた。
空気は冷たいまま。
でも、朝のような緊張はない。
街灯がつき始めて、歩道の雪が淡く光る。
白は眩しいはずなのに、やさしい色に見えた。
私はいつもの道を歩く。
歩幅を小さく。息を止めない。白線を避ける。
ビル前に近づくと、高橋さんがまだいた。
朝より雪は少ない。
でも入口の前には、きれいに道ができている。
貼り紙も、まだそこにあった。
少し濡れていて、透明テープで補強されている。
「本日の合言葉:無理しない」
私は足を止めて、高橋さんに会釈した。
「お疲れさまです」
高橋さんは顔を上げ、目を細くして笑った。
「おかえり。転ばなかった?」
「……はい。教えてもらった通りにしたら」
「でしょ」
短い返事なのに、褒められたみたいで胸があたたかくなる。
私は貼り紙を見て、言った。
「合言葉、最初は……どうしていいか分からなかったです」
「うん」
「でも、今日は……助かりました」
高橋さんはスコップを持った手を止めずに言う。
「無理しないってのはね、甘える言葉じゃないよ」
私は朝の自分を思い出した。
遅れるのが怖くて、息を止めて、滑りかけた自分。
「自分と、周りを守る言葉」
その言葉が、静かに落ちた。
私は頷いた。
今日、私は誰かに「ゆっくりで大丈夫です」と言えた。
自分にも、同じことを言えた。
高橋さんはもう一度だけ私を見て、言う。
「明日も雪かもしれない。明日も合言葉、使いな」
「はい」
「焦らない。息、止めない」
「……はい」
私は笑った。小さく。でも確かに。
帰り道、街灯の下の雪がきれいだった。
白が、静かに光っている。
家に着いて、玄関で靴を脱ぐ。
靴底についた雪が溶けて、小さな水滴になった。
私は深く息を吐いた。
息が、ちゃんと部屋に届く。
「無理しない」
声に出すと、今日が今日の形で終わる感じがした。
雪の日は大変だ。
でも、私は転んでいない。
息を止めなかった。
合言葉を、受け取れた。
明日も、無理しない。
それは弱さじゃない。
冬の夜の静けさの中で、私はそう思えた。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。
雪の日は、普段の「いつも通り」がそのまま通用しません。けれど、その不便さは、ときどき大事なことを思い出させてくれます。
この物語で描きたかったのは、「無理しない」という言葉が、ただ休むための合図ではなく、転ばないための手順であり、自分と周りを守る判断になる、ということです。
真面目な人ほど、遅れることや止まることに罪悪感を抱えがちです。
歩幅を小さくする。息を止めない。安全優先でいいと言ってみる。たったそれだけでも、世界の見え方が少し変わります。
もし今日、あなたの足元が不安定なら。
合言葉は、きっとこれです。
「無理しない」。




