07.怨み孕み
妊娠を機に一軒家を購入し、新しい街での生活を始めた門真友希。
気分が悪くなったところに声を掛けてくれた落合樹里と知り合いになり、彼女の家を訪れる。
アンティークドールを集めるのが趣味だと言う彼女の家には、いたるところに人形が置かれていた。
ベビーベッドに大切に寝かされた、新生児サイズの人形。
「可愛いですね」
「そうでしょう」
そんな会話をした日から友希の周囲でおかしなことが起き始める。
落合との関係を清算し、安心した友希だったが、もう、遅かった。
芽吹いた種、張り巡らされた根。開花し、実を付けるまで、もう少し。
────私はいったい、なにを産んだの?
「ああああぁぁああぁあぁああ……ッ!!」
分娩台の上に横たわり、絶えず訪れる痛みに叫ぶ。手すりを握る手は痺れるほどで、私の肩を労わるように撫でる夫の表情すら見る余裕がなかった。
痛い、痛い、痛い。
足を開いた私の周りで、看護師たちがざわめいた。「先生呼んで! 早く!」そう叫んでいるのが聞こえて、痛みに喘ぐ中でもなんとなく察する。
胎内の子に、何かがあったのだと。
「大丈夫だからね、いきむのは我慢してね。声出してる方が力抜けるから、今は声出していいよ」
そんなことを言われても、何をどう我慢すればいいのか分からなかった。呼吸器を付けられて、息を吸って吐いてと指示される。言われるがままに必死で呼吸を繰り返し、我が子の無事を願った。
数日前の健診では、何も問題はないと言っていた。エコーでも可愛い顔を見せてくれて、小さな手と足が元気に動いていて、だから。
いつも私と一緒にエコーを見て、元気ですねと話していた先生が分娩室に入ってくる。安心させるように私に向かってニコッと笑い、しかしその顔は私の下半身を見てすぐに曇った。
どうして、何が、私の子に何が起きているの。
聞きたくても、言葉が出ない。私の口から漏れるのは、ただ痛みを発散させるための叫びだけ。
ぼこぼこと胎内が内側から押されるのが分かる。今まで感じていた胎動とは比べ物にならないくらい大きな、まるでお腹の中で赤ちゃんが暴れているような、そんな動きで。
「これ何?」
「分かりません、どこにも映らないし、数値上でも何も。それに、触れないんです」
「だけどこのままじゃ彼女の子が危ない。引っ張り出さないと」
「でも触れないんですよ?!」
「待って、これ、出てきてる」
何の話をしているのだろう。私の子が危ないというのは察していたけれど、他に何か、別のものが私の中にいるみたいな。
ぐぐ……と、何かが出てくるのが分かった。いきんでいないのに、私の身体とは無関係に、中から道をこじ開けて出てくるみたいに、何かが。
「いや、いやーッ!」
この何かが外に出なければ、私の子は危ないのかもしれない。けれど、何かが外に出てしまう方が、我が子が死んでしまうことよりも遥かに恐ろしいことだと思えて仕方なかった。
だから、出すまいと。留めておこうとするのに、何かはどんどんと、ずるずると、私の中から、這い出てしまって、そして。
『オギャア』
ぺたり、ぺたり。
入院着の裾を、小さな手が握る。その手には指が何本も生えていて、腕にも指が生えていて。
ずるり、ずるり。
私の股から、お腹の上に這い上がってくるそれは、潰れた豚のような、人のような、髪もまばらで、崩れていて、なのにニタリと笑った口の中には色んな方向から何本も歯が生えていて、それは。
私を見て。
『ごくろうさま』
そう、言ったのだ。
←←←
「ちょっと散歩に行ってくる」
「はーい、気を付けて」
初夏の日差しの中、日焼けしないよう帽子を被り、少し大きくなってきたお腹を撫でながら散歩に出た。
妊娠を機に一戸建てを購入し、引っ越してきたばかりの街である。産婦人科や小児科、近くの保育園の位置は確認しているが、スーパーやコンビニ、公園なんかはまだで。これからの生活で必要になってきそうな施設の場所を把握しておく為の散歩でもあった。
一番近くの小学校まで来ると、校庭を走り回る子どもたちの姿が見える。今お腹の中にいる子も、何年かしたらあの中に混じるのかと感慨深くなった。
同時に、不安で胸が塗りつぶされそうになる。
産まれてくる子どもに障害がないかどうか、行える検査は全部した。現時点で我が子に障害があるという結果は出ていないし、定期的に行う健診でも問題はないと言われている。それでも。万が一を考えてしまう。万が一、目視で分かるレベルの身体的な障害を持って産まれてしまったら。
『どうして』
『どうして』
『お前のせいだろう』
『どっかで作ってきた子なんじゃないか』
『だってほら』
赤ん坊の泣き声がこだまする。ああ、ダメ、ダメだよ、その子は。やめて、どうして。
『あっちに行ってなさい』
『お前は心配ないよ』
『ほら、鏡を見ておいで』
『可愛い子』
『可愛い子』
赤ん坊の泣き声が激しさを増して、鼓膜を揺らして、私まで泣いて、溢れた涙がお気に入りの薄桃色のワンピースを濡らして、嫌だと叫ぶのにたくさんのおもちゃに囲まれた部屋の中で、祖母と二人。
祖母が、私の耳を、塞いだ。
ああ、声が遠くなっていく。体育の授業を楽しそうに受ける子どもたちの声が、遠く。
「大丈夫ですか?」
「えっ」
気が付くと、ガードレールにもたれ込むような体勢になっていた。倒れそうに見えたのだろうか、女性が心配そうに私の顔を覗き込んでいる。彼女のさした日傘の影が私を覆い、ハンディファンから出る風が前髪を揺らした。
「あ……すみません、ありがとうございます。大丈夫です、その……少し、ぼうっとしてしまっただけで」
「あの、妊娠してらっしゃいますよね? よかったら少し休んでいきませんか、すぐそこに公園があるので」
「……そうですね、そうします」
ショルダーバックに付けたマタニティマークを見て提案してくれたのだろう。熱中症になったとか、そういうことではないのだけれど、気分が悪いことに変わりはなくて。心を落ち着かせるためにも、私は彼女の案内に付き従って近くの公園までやってきた。
砂場と、小さな鉄棒があるだけのこじんまりとした公園は、しかし中央にある大きな木が周りに置かれたベンチを守るように影を作っていた。いくつかのベンチには親子連れや、サラリーマンが座っていて、空いているベンチに二人で腰を下ろす。
「うち、一歳半の子がいるんです。ちょっと前まで妊娠してたし、他人事に思えなくて。お節介だったらホントにごめんなさい」
少し困ったように笑った彼女に、とんでもないと首を振る。
「お節介だなんて。引っ越してきたばかりで、この辺りに詳しくないので助かりました。この公園も、教えてもらえてありがたいです」
私たちはお互いに頭を下げ合い、自己紹介をした。と言ってもお互いの家庭の詳しい事情までは聞かなかったし、単純に名前を名乗りあい、私は妊娠六ヶ月なのだと話したくらいだったが。
「落合さんはこの辺りにお住まいなんですか?」
「えぇ、子どもを預けている保育園が少し遠くて、預けるついでに少し買い物をして、家に帰る途中だったんです」
「お邪魔してしまってすみません」
「いえいえ、よかったら今度遊びに来てください。もう使っていないベビーグッズとかまだ整理できてなくて、もし使えそうなものがあればお譲りしますよ」
「え、そんな……」
「リサイクルショップに持って行くのも面倒だし、販売サイトに登録したりするのも億劫で、このままだと捨てちゃうだけですから、もらっていただけた方がありがたいです」
確かに、私も引っ越しを機に断捨離をしようと思い立ったはいいが、売れるかもしれないものを発掘しても色々と面倒で、結局捨ててしまうことがほとんどだった。
連絡先を交換すると、彼女の名前の横には可愛い子どもの写真が表示される。私のアイコンは結婚式の前撮り写真を自分の部分だけ切り抜いたもので、きっと子どもが産まれれば世界の中心が変わっていくのだろうなとぼんやり思った。
「それじゃあ、私、そろそろ……。門真さんはもう少し休んでいかれます?」
「あ、はい、もう少し涼んでから帰ります。本当にありがとうございました。ご連絡しますね」
「えぇ、いつでもどうぞ」
手を振って、公園を後にする落合さんを見送った。すぐに何かメッセージを送った方がいいのかとスマホを立ち上げ、メッセージアプリを開いてふと、落合さんのアイコンに違和感を覚えた。
小さな丸の中、こちらに向かって満面の笑みを浮かべる小さな女の子。
女の子の顔は右下の方に寄っていて、だから丸の左上の方には少しの空白があって、そこに背景が写り込んでいるのだけれど、そこに、何か。
落合さんのアイコンをタップして、個人ページに飛ぶ。
丸いアイコンは少し大きく表示されるけれど、それでもまだ背景はよく見えなくて、違和感の原因は分からないまま。もっと大きく見たいとアイコンに触れると、丸が四角に変わり、元々の写真の状態で拡大された。
「え?」
そこには、ベビーベッドがあった。丸いアイコンの時には柵の足元部分しか見えず、それが違和感の原因だったのだ。
それはいい。それはいいのだ。
問題は、そのベビーベッドの上に、赤ん坊の姿が見えることだった。だって、落合さんにはお子さんがいて、それは一歳半の娘で、一人しか子どもはいないみたいな口振りで、今だって家に旦那さんがいるとかそういう話もなくて。
どうして?
また、赤ん坊の泣き声がする。休んで良くなったはずの気分がまた悪くなる。血の気が引いて、世界が揺れる。
話したつもりになっていたのかもしれない。使わなくなったベビーグッズの整理ができていないというのも、今使っている最中なのだとしたら当然だし、私の予定日までは四ヶ月もある。こちらに産まれる頃にはもう使わなくなっているから譲れるという話で。
そうに違いない。絶対にそうだ。
もしかしたら、私がぼんやりしていて聞き逃した可能性だってある。
表示していた拡大画面を閉じようとした瞬間、落合さんからのメッセージが届きましたと通知が表示される。驚いた拍子にその通知を触ってしまい、ページが飛んだ。
可愛らしいウサギのスタンプがぺこりとお辞儀をし、『よろしくおねがいします!』の文字が表示される。既読マークを付けてしまった私は手早く似たようなスタンプで挨拶を済ませ、ドキドキとうるさい心臓を鎮めるために深呼吸を繰り返した。
←←
「ただいまぁ」
少し休んで平静を取り戻した私は、家に帰って夫へ落合さんの話をした。テレワークの合間で私の話を聞いた夫は、私の頭をぽんと叩いて優しく笑う。
「心配しすぎだって。ベビーベッドもさ、もしかしたら飼ってるペットがタイミングよくそこで寝ちゃってたとかかもしれないよ。荷物置きになってるって先輩の話も聞くし、赤ちゃんみたいに見えるだけで別の物かもしれないし」
「そっか……そうかも」
夫の言うことも納得できた。ベビーベッドが写っていたからといって、そこに赤ん坊以外が乗っていることも確かに考えられるのに、絶対に小さな赤ん坊なのだと決めつけて、怖がって。
妊娠だけではなく、いろいろなことが重なって、全てを悪い方向に受け止めてしまうようになっているなと反省した。
「まぁ、変な人ではないっぽいんでしょ? 気にはしておいて、もう一回あれって思ったらお付き合い控えればいいんじゃない? もう一人子どもがいたとしても学年違うだろうし、しばらくすれば別のお友達もできるさ」
「うん、ありがと」
リビングのソファに深く腰掛け、自分の好きなものに囲まれる。
この家の中にあるものは、私を傷付けない。愛する夫と、二人で選んだ調度品の数々。
彼の両親は北海道に住んでいて滅多なことではここに来ないし、私の両親は、ここを、知らない。
ようやく掴んだ幸福なのだ。ようやく手に入れた平穏な生活なのだ。
不安に思うことはない。私を脅かすものはここにはない。
引っ越しをして、心機一転。新たな地で、新たな一歩を踏み出したのだから。
ブブッとスマホが震え、真っ黒な画面に通知が浮かぶ。
『来週の火曜日のお昼、お暇だったりしますか? よかったらウチにお昼ご飯食べにきませんか?』
画面を覗き込んでいた夫が微笑む。
「行ってきたら? この日なら俺も行けそうだけど」
「とりあえず大丈夫。何かあったら連絡するから、急に迎えにきてとか言っちゃうかもしれないけど」
「分かった。俺もこの辺のこと知っときたいし、落合さんの家の近くを散策してるよ」
「ありがとう。きっと、私の考えすぎだと思う。見ず知らずの私を心配してくれた人だし……宗教とかマルチだったらすぐ逃げるわ」
「いい人だといいね」
「うん」
私は落合さんに、ぜひ伺いたいですと返事をした。
←
手土産にと買った焼き菓子を持って、キレイめのワンピースにストレッチジーンズで家を出た。
落合さんの家の住所は夫に送信済みで、近くまで一緒に歩く。夫と別れて落合と表札のかかった玄関前に立ち、インターホンを押した。
『いらっしゃい』
ザリザリとしたノイズの向こう、落合さんの声が歪んで、聞こえた。
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