02.仄闇の仔
ねぇ、知ってる?
そんな無邪気な言葉の応酬から始まる、密やかな噂話。絶望の末に招かれたもの、偶然足を踏み入れたもの──訪れる供物たちを糧に仔らは胎動し、やがて産声をあげる。
高校生の倉田由唯は、望まぬ妊娠を知って途方に暮れていたとき、山の中にあるトンネルの噂話を聞く。曰く、そこは何でも食べるという噂で……。
ねぇ、知ってる?
この近くの山にある古いトンネルなんだけど……
知ってる知ってる!
あそこって、“なんでも食べちゃう”トンネルなんだよね?
なんでもって?
“なんでも”はなんでもだよ。
人も食べるし、車も食べちゃうんだって!
じゃあさ……。
身体の中にあるものも、食べられるのかな。
* * * * * * *
梅雨の時期には珍しく、この頃は全国的に数日間雨が降っていなかった。もちろん、蒸し暑さは他の時期の比ではなかったが、それでも雨続きで気の滅入っていた人々は挙って街へ繰り出したために、まるで雨に妨げられていた分を取り返そうとでもいうように屋外で過ごす人で混雑する地域が続出した。
「ん……っ、はぁ、」
梅雨時であることを差し引いても人気のない山中で軽自動車を停め、衣服をはだけながら恋人と唇を貪り合っている武藤咲希も、そのひとりだった。
この春に大学へ進学してすぐに、ゼミのOBと名乗る山田舜と付き合い始めた。それまで恋愛や夜遊びとは無縁だった咲希も、今ではすっかり舜のアパートに入り浸り、学業そっちのけで舜との交わりに溺れていた。彼の「プロデュース」を経て容姿もかなり垢抜けて、いわゆる大学デビューを果たした咲希にとっては大学の単位が絶望的である現実もどこか他人事で。しかし時折胸に迫る何かから逃げるように、舜と求め合う頻度が高まっていた。
「……はぁっ、」
舜の細身の指が、慣れた手付きで咲希の身体を弄ぶ。繊細に、しかし荒々しく愛撫されるうち、咲希の奥底から甘やかでねっとりとした熱が広がっていく。吐息の熱が増し、身体の内奥からじんわりと広がる疼きが脳を濡らし、麻痺させていく。
ゆるやかに腰をくねらせ、舜の指を奥まで誘おうとするのは意識的か無意識か。負けじと咲希の指も舜の感じやすいところを縦横無尽に這い回り、いよいよお互いのボルテージが最高潮になって互いの身体を繋げようと体勢をずらしたとき。
あ。
あ。
近いところで、声が聞こえた。
「なに、この声?」
「俺らみたいのが近くにいるんじゃないの?」
戸惑ったように身を縮こませる咲希に、軽薄な笑みで返す舜。その次の瞬間、舜は「いいこと」を思い付いて咲希を車外に連れ出した。
「え、なに!? 待ってよ、いま外に出れる状態じゃないから!」
「別にいいじゃん、こんな山のなかに人なんていやしないし、いるのもこんな風に外でおっ始めるような変態なんだからさ!」
「でも、やっぱり見つかっちゃったらやだよ……!」
裸同然の姿で連れ出された咲希の抗議の声に、舜はからかうような笑みを返す。何せ舜の思い付いた「いいこと」というのはまさにそれ──咲希の痴態を周囲にいるであろう「変態」に見せつけて、手を出させること。
世間知らずそうだからと目を付けたが、このところ彼女面が酷くなってきた。そろそろ痛い目でも見せて、どうにもならない廃人にでもして売っ払おう──舜の頭には、咲希を手離したあと誰に手を出すか皮算用が進んでいた。
あ。
あ。
あ。
あ。
声は、どんどん近付いていた。
舜の手で溶かされていく咲希の頭の片隅で、ずっと声が聞こえている。間違いなく近付いてきている──舜に集中していたいのにどうにも気になって、思わず声のする方へ視線を向けたとき。
「……え、」
そう声を漏らすのが、精一杯だった。
遅れて舜も、咲希と同じ方を見てしまう。
静寂を破るような悲鳴は、誰の耳にも届くことはなかった。
* * * * * * *
妊娠に気付いたとき、倉田由唯は目の前が真っ暗になるのを感じた。まだ高校生だし、母とふたり暮らししている家計は火の車、それに、そんなことよりも。
問題は、目の前の母だった。
由唯の妊娠を知った母は、青ざめた顔で相手が誰なのか、このことを知っているのかと尋ねてきたが、母にはどうしても言えなかった。
──父親は、あんたの彼氏だよ。
言えばどうなるか、わかっていたから。
由唯の父親は、覚えているだけでも5人いた。
いつの間にかいなくなっていたり、大喧嘩の末に出ていったり。それでも懲りずに再婚を繰り返しては、また離婚して大声で泣き喚く母の姿を、由唯は幼い頃からたびたび見ていた。
『由唯はいいよね、ただ突っ立ってればいいんだから!』
泣き喚く母の姿に戸惑えば、悲憤の矛先が向いて。
『そんなに私惨め!? あんたに憐れまれる筋合いない!!』
泣き止んでほしくて頭を撫でれば、腕が千切れそうなくらい乱暴に振りほどかれて。
『子どもが何口挟んでんの! わかんないでしょ、大人同士のこと!? いいからそこで遊んでなよ、さっきまで無神経に遊んでたんだから!』
喧嘩のときに母を庇えば、そう足蹴にされて。
そんな扱いを受け続けても、由唯は母を愛していた。「父親」さえ絡まなければ母は誰よりも由唯に優しかったし、いつだって由唯のことを考えて動いてくれていた。そんな母のことが、由唯は大好きだったのだ。
そんなある日、当時の「父親」──今のふたり前だったか──と留守番していた由唯は、まだ中学校に上がったばかりの少女に欲情する大人がいるということを、その身で思い知らされた。
抵抗しようとしても身体が萎縮して動かず、助けを呼ぼうにも喉から声が出ず。全身刺されたような激痛と、身体の奥に滞留する異物感で吐き気がして、それが何であったかを認識してからはたまらなく恐ろしくなって、母に打ち明けた。
そんなことされたの!?
そんな酷いことするなんて!
怖かったよね、もう心配ないからね。
母の反応は、由唯の想像していたどれとも違っていた。
『は?』
第一声からして、それまでと比べ物にならないほど不機嫌であることが窺えた。それから由唯を自分の前に立たせ、『そっか……』と冷めたような、それでいてドロドロとしたものが煮えたぎっているような憎悪すら感じる声と眼差しで見つめて。
『またかよ』
そう呟いて、母は由唯を思い切り蹴飛ばしたのだ。更に、突然のことに驚きながら仰向けに倒れた由唯の上で馬乗りになり、何度も拳を振り下ろして喚いた。
『またか! また由唯は私から幸せを奪うんだ!! 妊娠したって言ったら逃げられて、子ども連れってバレたら逃げられて、育てるお金が要るからってお金を出せずにいたら逃げられて!』
顔を庇う腕が痛くて、怒号を受ける耳が痛くて、無慈悲な言葉を浴びせられる心が痛かった。
『やっとそういうの気にしないって男と会えたのに! なんで、なんでなんでなんで!? なんで由唯は、お母さんの幸せを邪魔するの!? もういいじゃない、さんざんお母さんをひとりにしてきたじゃない! なに、今度は男を寝取ることまで覚えたわけ!?』
捲し立てられる言葉の半分も理解できなかったけれど、それでも。
『あのとき、もう少しでもお金があったら……! もう少し早くお金を用意できてたら!! そうしたらお前なんか産まなかったのに……!!』
その後どれだけ優しく接されても、どれほど愛情を注がれていると感じる瞬間があっても、この言葉が由唯の心の底に重く横たわることになる。
そういう経緯もあって、お腹の子の父親がわかってしまえば母からどんな詰られ方をするか、想像することすら厭わしかった。どんなにこちらが抵抗したことを伝えても、自分の意思では断じてなかったと伝えても、彼を拒むために部屋に施錠していたことまで伝えても、きっと無駄だから。
「大丈夫だよお母さん、なんとかする……なんとかするから」
「本当? ねぇ由唯、こういうことはちゃんと相談してよ。お母さんも力になるから」
それが決して叶わないものであることを悟っているからこそ、由唯は母の言葉に「ありがとう」と返すしかなかった。
こんなはずじゃなかったのに。
由唯の頭は、そんな言葉で埋め尽くされていた。
学校終わりにバイトをして、どうにか金を貯めて家を出ようと思っていた。母や、母のもとを訪れては由唯を穢らわしい目線でねめつけてくる「彼氏」から逃げるために。最近ようやくひとり暮らしをする目処が立って、もう少ししたらどこかの物件を借りようかと思っていたところだったのに。そんな折に毒牙にかかり、そのうえ妊娠までしたのだ。
当たり前だが、貯めていたのは由唯ひとりで暮らしていくための金だ。間違っても幼い子どもを抱えていけるような額ではない。
それなら実家に残る? それも、今となっては絶対に選びたくないことだった。とはいえ、中絶にも費用もかかる。ようやく家を出られると希望を見出だしたばかりだった由唯にとって、それが遠のくのは絶望以外の何物でもなかった。
自分の身体を、見知らぬものに侵されているような感覚。心が千々に乱れ、思考が混濁して、時折手術以外の方法で堕胎や流産をする方法を検索しようとしている自分に戦いた──かつて母が由唯に向けた、『お前なんか産まなかったのに』という言葉を思い出してしまったから。
「……やっぱり、わたしも同じなんだ」
身体の奥を氷柱で刺し貫かれたような寒気が全身を襲う。途方に暮れて、いっそのこと命を断ってしまおうかとも思った。
きっと自分はこの先も、たとえ腹を決めて子どもを産んだとしても、きっと母と同じことをしてしまう。そして、いま自分が母に抱いている感情を向けられる。そんな未来に、希望など見えるわけがなかった。
決めるなら早く決めなくては──早くしないと手遅れになる……焦燥感と、『手遅れ』と言った自分への嫌悪感とに背中を押され、発作的に家を飛び出した。
梅雨時の夕暮れは、心まで侵すように重苦しい。雲を伝播してのっぺりと広がる茜色が地平線までも燃やし尽くすようで、その業火に巻かれないようにと由唯はひたすら足を進めた。
日の当たるところにはいたくなかった、自分の濁っていく心のうちを無遠慮に晒されてしまうような気がしたから。
避けて、避けて、ひたすら避けて。
走った末に辿り着いた、川を跨ぐ鉄橋の下から、宵闇に焼き尽くされる世界を見つめていた。ぼんやりと、もはや抵抗する気力すらなくして。
「……ぁ、」
ふと目に入った、斜陽の光を映して毒々しく輝く川の流れが、ひどく優しいものに見えた。家庭に怯え、級友たちのことも信じきれず、更には自分のことすら嫌悪し続けている由唯には、もはや優しさの求め場所など思い付きようがなかった。
「もういいよね」
口を開く。
「疲れたよ。耐えるのも、傷付くのも、傷付いてないふりするのも、普通のふりするのも、お腹のこと考えるのも、全部。もう、いいよね」
どうせこの先、自分がこの苦しみから解放されることなんてない。生まれ変わったら何でもいいから一年草の花になりたい──そう思いながら一歩、また一歩と川へ向かっていたとき。
ふと、耳についた。
「ねぇ、知ってる? この近くの山にある古いトンネルなんだけど……」
「知ってる知ってる! あそこって、“なんでも食べちゃう”トンネルなんだよね?」
無邪気な声で語られる、ありがちな怪奇話。
しかし、どこか引き付けられるものがあって。
「なんでもって?」
気付けば、由唯は子どもたちの話に参加していた。子どもたちは少しだけ驚いた顔をしていたが、まるで由唯が来ることも予定のひとつだったかのようにふたりしてニッと笑い、意味ありげな言葉を吐く。
「“なんでも”はなんでもだよ」
「人も食べるし、車も食べちゃうんだって!」
特撮怪獣の話でもするように楽しげなふたり。
由唯はいつしか、縋るように尋ねていた。
「じゃあさ……。身体の中にあるものも、食べられるのかな」
由唯の問いに、子どもたちはふたり揃って深い笑みの形に顔を歪めながら「もちろん!」と答えた。
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