01.『私は見られている』
「――私はずっと見られていました」
二〇二四年某日。
私はSNSで知り合った女性から、十二年前に彼女の身に起きた事件について話を聞くことになった。
彼女は長いこと、周囲の人から妙な視線を向けられていたのだという。
同じ会社に務める者、同じアパートに住んでいる者、道ですれ違う者、コンビニの店員、など。皆一様に、ぐいと首を曲げ、不自然なほどジロジロと彼女を凝視するのだとか。
「……あんなことになるとは思わなかったので」
その顔に滲むのは、悲しみと、苦悩と、絶望と……そして怒り。彼女の口から紡がれる言葉には、果たしてどのような真実が隠されているのか。それを、私は探り当てたいと思っている。
私はずっと見られていました。
会社の同僚から、アパートの隣室の男から、道ですれ違う者から――理由もなく、不自然なほど凝視される。そんな生活が、長く続いていたんです。
あぁ、もちろん今では何の問題もなくなりましたよ。結婚と同時に退職し、娘も生まれ、今は子育てに大忙しです。当時のことを夢に見たり、思い出して悩んだりすることも減っていました。
そんな折、SNSで貴女の投稿を偶然お見かけし、もしかすると私の話が参考になるかと思い、声をかけさせていただいたのです。まさか、こうして対面することになるとは思いもしませんでしたが。
それでは改めて、時系列に沿って、私の経験をお話ししますね。
私がK県のH市で暮らし始めたのは、二〇一二年。今から十二年前の夏のことだったと記憶しています。
もともとは都内の本社勤務でしたが、転勤を命じられ、当時は独身で身軽でしたので了承しました。あぁ、本社は時代遅れの「男社会」でしたから、女の私にとって少々居心地が悪かったのもあります。
地方とはいえ、H駅の近くにはショッピングモールがあり、生活に困らない程度には栄えていました。私はもともと田舎の出身なので、都内よりむしろ落ち着くなという感覚でした。
しかし、駅前のアパートに入居した時には、少しだけ後悔したのを覚えています。
「あ……隣に越してきました、A沢です」
ちょうど引越の荷解きが終わったので、買い物にいこうと部屋を出たところでした。
たまたま隣人に出くわしたので挨拶をしたのですが……その中年男は私のことをジーッと見つめながら「B村です。よろしく」と挨拶を返してきました。しかし、男は挨拶が終わっても、ずっと私の顔を凝視したままで。
その視線がなんだか妙に気になってしまい……初対面で失礼なことですが、少し気持ちが悪いなと思いつつ、私はその場を去りました。選ぶアパートを間違えたかも、なんて思いながら。
あの日は、嫌な雨が降っていました。傘を差すか迷う程度の小雨。歩道から立ちのぼる湿った空気が肌に張り付いて、不快だったのを覚えています。
部屋の戸締まりには気をつけないと。そんなことを考えながら、ショッピングモールでいくつかの防犯グッズを購入しました。幸いなことに、危惧していたようなことは何も起きませんでしたが。
「――本社から異動してきました、A沢です」
休み明け。
私は新しい職場に拍手と共に迎え入れられました。予想外に上司がフランクだったため、安堵したのを覚えています。何せ右も左も分かりませんからね、私は自覚している以上に緊張していたようです。
「A沢さんの教育係はC本さんに頼もうと思う。女性同士の方が何かと話しやすいこともあるだろう。もちろん、他の社員にも何でも相談してくれて良い」
そうして上司に紹介されたC本さん。
彼女は……初対面から私の顔をジロジロと見つめ、視線を一切逸らすことなく挨拶をしてきました。例の、アパートの隣人の男と同じ雰囲気です。
「よろしく、A沢さん。何でも気軽に相談してね。まずは少しずつ仕事に慣れてもらうから」
「はい、よろしくお願いします。C本さん」
「本社では優秀だったって聞いてるよぉ。バリバリやって私の負担を軽くしてくれると助かるんだけど」
彼女はすごく気安い雰囲気で、周囲の人たちと会話をするのを聞いていても、好かれているんだなということがよく分かりました。ただ、視線が……彼女がずっと私を凝視してくるのだけが気になって。なんだか落ち着かない気持ちのまま、初日の仕事を終えました。
おそらく彼女は、来たばかりの私が何か困ったことにならないか、見守ってくれているんだろう。
私は少し無理矢理な理屈で自分を納得させながら、帰路につきました。なんだかおかしい、とは思っていたのですが。周囲はそういったことを一切指摘してこなかったため、おかしいのは自分の方だと思うことにしたのです。蒸し暑いのに妙に背筋が寒くて、私は震えながらタオルケットを被って寝ました。
隣人の中年男と、教育係の先輩社員。
二人の視線が気になる日々が、一ヶ月ほど続いたでしょうか。凝視されるのは相変わらずでしたが、それ以外には実害を被るようなこともなかったため、私は努めて気にしていないように振る舞っていました。
大学時代の友人D子にそのことをポロッと漏らしてしまったのは、今でも後悔しています。まさか、後にあんなことになるとは思わなくて。
とある休日、少し遠出をした際に立ち寄ったカフェで、彼女にその話をしてしまったのです。
「病院に行ったほうがいいんじゃない? 統合失調症とか、社交不安症とか、私も詳しくないけどそういう病気があるって話だし」
「うーん……あんまり自分が精神疾患だと思いたくはないけど、一度相談してみようかな。でも視線が気になるのって、その二人だけなんだよね」
「そうなると、変なのはその二人なのかな」
「どうだろう。まぁ、あの二人はそういう人間なんだって割り切っちゃえば、我慢できないレベルじゃないしね。もうちょっとお金を溜めたら引っ越ししようかなとは思ってるけどさぁ」
そうして友人に相談することで、私の心は少しだけ軽くなりました。これでまた、明日から頑張れると。
そう思っていた帰り道、駅前の歩道で。
対面から歩いてくる会社員らしき男が、暗い瞳でジーッと私を凝視してきて、すれ違う時も首を捻じ曲げて私を見ていて、すれ違った後も背中に視線を感じて……それで私は、震えながら、いよいよ精神科にかかった方が良いかもしれないと思い直したのです。
そうして色々と調べていたのですが、大きな病院の精神科は予約を取るのがなかなか難しいらしく、駅近くにあるメンタルクリニックを予約できるまで一週間もかかってしまいました。
「ふむ……つまり、その三人の視線以外には、おかしいことは何もないんだね」
「そうなんです。でも、周囲の人がそれに反応している様子はないですし、おかしいのは自分なんじゃないかと。それで相談しにきたんです」
「……君は受け答えがハッキリしているし、仕事も問題なくこなせている。妙な妄想に囚われている様子もない……症状が出て一ヶ月と少しか。現状では、なんとも判断が難しいね」
今思えば、そのクリニックはハズレだったのでしょう。処方された気休めのビタミン剤はどうも服用する気になれず、私は医療機関に頼ること自体を諦めました。
その後も少しずつ、私を凝視する者が増えていきました。
アパートから最寄りのコンビニでは、女子大生らしい茶髪の店員が、入店から退店までずっと私のことを見ていました。仕方がないので、私は少し距離の離れたコンビニを利用するようになりました。
ヘアサロンでは、鏡の中の美容師がずっと私のことを凝視していたので、その時は目を瞑って寝ているフリをして、どうにかやり過ごしました。それ以降、自分の髪は自分でカットするようにしています。
選挙前、駅前で自分の名前を売ろうと声を張り上げていた政治家は、民衆には目もくれず、私のことだけを見て何かを語っていました。たしかあの人は落選したと記憶していますが、それが私のせいだったのかまでは分かりません。
カフェにも行けなくなりました。雑貨屋にも行けなくなりました。スポーツジムは見学に行った時点で引き返すことになりました。以前はよく通っていたフットマッサージの店にも行けなくなりました。
ショッピングモールでは特に何も起きていないのですが、さすがにこの状況で、あんなに人の大勢いる場所に行く気にはなれませんでした。
気がつけば、私の行動範囲は狭まっていく一方で、仕事以外の時間は自室で過ごすことが多くなっていったのです。
この現象が始まって、半年。
「A沢さん、大丈夫?」
「……C本さん」
「ずっと表情が沈んでるみたいだけど。私で良ければ相談に乗るよ? 私に言いにくい話なんだったら、他の人だって聞いてくれると思うし」
凝視してくることを除けば、C本さんが良い人だというのは疑いようのない事実でした。
「私……なんだか人の視線が気になっちゃって」
「そっかぁ。そういう時もあるよね。休日なんかは、ちゃんと気分転換できてるの? この辺りの遊ぶ場所とか、まだあんまり詳しくないでしょ」
「その……インドア趣味なので。自室が好きで」
本当は自室が好きなのではなく、他の人がいる場所に行けなくなってしまっただけなのですが。
C本さんは私の言葉を否定することなく、そっかそっかと頷きます。本当に彼女は優しい人で、気遣いもできて……だからこそ私は、彼女の視線をどう受け止めれば良いのか、分からなくなってしまうのです。
このままではC本さんにも失礼だ。
決意を新たにした私は、この事態を解決すべく行動を起こすことにしました。以前訪れたメンタルクリニックは、どういうわけかこの短期間のうちに潰れてしまっていたようで、私は改めて別のクリニックの予約を取りました。
そうして、動き始めた矢先。
私のスマホにとある連絡が届きました。
――大学時代の友人D子が、首を吊った。
私は驚き、悲しみました。少し前まではあんなに元気そうだったのに。聞けば、近頃急に部屋に引きこもり始めたらしいのです。
季節は冬。
暖かいものを飲んでも、私はずっと寒いままで。
そして……落ち着かない気持ちのまま友人とともに葬儀に参列すると、彼女が残した遺書を見せてもらうことになりました。そこには、たった一言、こう記されていたのです。
『私は見られている』
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