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10.ふたりめのたね

-この作品にあらすじはありません-

 とた、とた、という軽くてたどたどしい足音で目が覚める。

 カーテンの向こうは薄暗いが、時計を見れば普段の起床時刻とそう変わらなかった。足音を忍ばせ、階下へ向かう途中に振り仰げば、妻と息子の寝室のドアはぴっちり閉じていた。

 朝の時間の流れに急かされて顔を洗い、髭を剃り、トーストとバナナと珈琲だけの朝食を済ます。しとしとと泣くような雨垂れの音がずっと耳にまとわりつく。今日は早めに出なくては。雨の日は道が混む。

 そこでとんとんと階段を下りてくる音がして、リビングに済まなそうな表情の妻が現れた。

「ごめんなさい。ご飯も作れないで……」

「いや、大丈夫。奏太はずっと寝てた?」

「うん。寝付くのに少し時間がかかったけど、その後はぐっすり。今もよく寝てる」

「それなら良かった」笑いかけると、妻の奏恵の顔にようやく淡い笑みが浮かんだ。

 慌ただしく朝食を腹に収め、「行ってきます」「行ってらっしゃい」と妻に見送られてまだ身に馴染まない我が家を出る。案の定最寄り駅に向かう道もバスの車内も混んでいて、朝六時台からへとへとになった。ただ、バスから電車に乗り換えた先は、在来線も新幹線も指定席がある。その時間は自由時間だ。

 息子の小児喘息の発症をきっかけに一念発起し、綺麗な空気を求めて今年の四月に東京からR郡O町へ越して来て以来、がらりと生活リズムが変わった。二ヶ月経ち、少しずつ慣れてきたところだ。

 自然豊かな静かな町――はっきり言えば田舎――に引っ越して、息子と過ごす時間が激減したのは正直辛い。一緒に風呂に入れたのもまだ数回だし、タイミングが合わなくて寝顔しか見られない日もある。我が子の何かができるようになる瞬間に立ち会えないのも切ないし、時々親切にしてくれるおじさんと思われているんじゃ?と想像するのもしんどい。ただ、引っ越してからは一度も喘息の発作は出ていない。子供の健やかな日々以上に望むものなどなかった。

 在来線の終点から当駅始発の新幹線に乗り換える。慣れ親しんだ都会の景色が見えてくると、身体も仕事モードに切り替わっていく。

 防音壁ばかりの車窓を何とはなしに眺めているうち、ふと疑問が湧き上がってきた。

 ――奏太はずっと寝てた?

 その問いに妻は是と答えた。じゃあ、起き抜けに聞いたあれは、誰の足音だったのか。

 ふるふると頭を振る。大したことではない。寝ぼけていて、夢の中の音を現実のものと思い込んだのだ。そう己を納得させる。

 東京に着くと頭上には青空が広がっていて、些細な違和感など綺麗さっぱり忘れていた。


 ◇ ◇ ◇


 夫の耕太を見送って寝室に取って返し、安らかな奏太の寝顔をぼんやりと見る。

 今日はお隣の外川さんが訪ねてくる。彼女は六十過ぎの元栄養士で、たまに来ては家の片付けの手伝いや皿洗いや保存食作りをしていってくれる。何の縁もない土地に越してきた私たちにはありがたい存在だ。でも。

 ――会いたくない。

 ヘドロほどに醜く淀んだ感情が、胃の底を重たくする。彼女だけではない。本当はこの町の人全員と、顔を合わせたくなんかないのだ。

 最初に違和感を抱いた日のことが思い出される。

 東京に住んでいた頃に奏太の喘息が発症して、空気が綺麗なところに幼児期だけでも引っ越すことを勧められた。そんな結核療養みたいな、と驚いたが、夜間に発作が出てこの子はこのまま死んでしまうのでは、と恐怖して病院に飛び込むことも確かにしばしばあった。私たちを案じていた夫も転居に賛成してくれ、引っ越し先探しが始まった。

 私も夫も東京生まれで、身を寄せられそうな親類は地方にいない。移住先を探す自分はほとんど死物狂いだった。文字通り息子の命が懸かっているのだ。

 そうして見つけたのが、ここO町HPの募集だった。家族での移住者を募っており、格安で一軒家に住める。転居に伴う費用の最大七割が補助で賄え、山に囲まれた町は自然豊かで、夫の通勤も新幹線を使えばぎりぎり可能。期限つきの転居でなく終の住み処になる予感がしたし、自分の職は手離さねばならない条件だったが、奏太の健康には代えられない。

 応募の旨をO町役場に伝えると、「一度見学にいらして下さい。交通費は支給します」との連絡を貰った。それが普通なのか分からないが、住宅の内見のようなものだろう。

 見学に赴いたのは私一人だった。なぜか、できれば奥様だけで、と言われたのだ。

 案内してくれた役場職員の女性はにこやかで親切だったし、住居は見た目こそ年季の入った日本家屋だが、中はリノベーション済みで小綺麗だった。家族三人で暮らすには充分すぎるほどだ。春先の冷たさを孕んだ風を浴びながら街並みを眺め、ここで暮らすんだ、と早くも実感を噛み締めた。

 最後に軽い面談があります、と女性に言われ、役場の会議室のような部屋に連れられる。二人で向き合うと面接のようで緊張した。

「お宅はいかがですか? 都会の家とはだいぶ違うと思いますが」

「そうですね。でも、暮らしやすそうで気に入りました」

 女性はにこりと笑み、ぱらぱらと何かの書類をめくる。そして、言った。

「お子さんは今はお一人ですね。妊娠されていますか? もしくは二人目のご予定はありますか?」

 さらりと訊かれて、一瞬頭の中が真っ白になった。思わず女性の目を見返す。監視カメラのレンズのように真っ黒な瞳が、無機質な光を放っていた。

 これは本当に面接なのだ、と直感した。返答如何ではこんな土地まで来て「この度は残念ですが……」などと言われかねない。

「……妊娠はしてませんが、二人目も計画しています」

 後半は口から出任せだ。だが、相手は私の言葉を信じたようだった。晴れて私たちは移住者となり、この町の住民に加わった。

 思えばあの質問が最初の違和感だった。飲み下さず向き合っていれば。無意味な仮定を、これまで何度繰り返しただろう。

「やっぱり一人は寂しいからねえ」

「二人目は女の子がいいかなあ」

「一人っ子は可哀想ですもんね」

 この町に越してきて分かったが、二言目には皆同じことを言う。まるで、子供が複数でなければ人間でないような勢いで。悪気はないのだろう、と思いたい。それさえ気にしなければ、移住前のイメージ通りの生活ができている。

 意識しない、と自分に言い聞かせ続ける。生活が落ち着けば、そのうち妊娠するかもしれないのだし。

 奏太の食事に手を焼き(最近は何か気に入らないと「ない!」「ない!」と癇癪を起こす)、ほとんど準備できないまま外川さんを迎えた。彼女は何もしなくていいのよ、と言うけれど、さすがにお茶も出さないわけにもいかない。

 外川さんはお手玉を持参して、器用に四つ同時に操ってみせた。奏太は物珍しそうに見入っていて、その間に居間とキッチンの片付けをさせてもらう。しばらくすると奏太は眠くなったらしく、お昼寝をさせてあげる。奏恵さんは休んでてと言われ、冷蔵庫の中身で手際よく料理を作る外川さんの背中をぼんやり見る。休めと言われても、家に他人がいる状況で眠るのは難しい。奏太の様子を見たり、ごみをまとめたりしているうちに、外川さんは使った器具を洗い終えていた。しばしお茶を飲みながら雑談に応じる。早く帰ってくれと念じているのは内緒だ。

「奏太くん、だいぶ手がかからなくなったでしょ」

「そうですね。赤ちゃんの頃に比べたら。でも癇癪がすごくて」

「それはお母さんを信頼してる証よ。奏恵さん、いいお母さんしてるのね。二人目ができても安心だわね」

 またその話題か、と息が詰まる。外川さんの皺とシミだらけの手が伸ばされ、

「早い方がいいわよお」

 服越しに私のおなかへと触れた。穢らわしい。反射的にそう思ってしまった。

 それからのことはよく覚えていない。気づいたら外川さんは帰り、夕刻に近くなっていた。私は居間に一人蹲り、頭を掻きむしっている。心にダメージを受けるとこんな風になるのか、とどこか俯瞰している自分がいる。あれしきで取り乱すとは情けない。深呼吸して、と自分に言い聞かせる。

 ――不安に飲まれかけたときは大抵、呼吸が浅くなってる。落ち着くのよ。

 腹式呼吸を意識すると、強烈な不快感と不安感は徐々に薄れていった。

 ふと思う。自身のキャリアも東京での暮らしも捨てて、私は一体何をしているのかと。いつまで自分以外のことばかり考え続けるのだろうと。

 もちろん思いやりのある夫を愛しているし、奏太だって可愛い。でも、これから先のことを考えると、奈落を前にするような途方もない気持ちにもなる。子がいると私はどこへ行こうが「ママ」「お母さん」だ。見ず知らずの人にそう呼ばれると、妊娠以前の自分の人生がすうっと立ち消え、〝母親〟という画一的な記号に貶められたように感じてしまう。

 ――私は生命工学を修士まで修めたの! そこらの母親と一緒にしないで!

 なんて、ものすごく嫌な言葉が喉元まで出かかったことさえある。

 きっとまだ、母親という役割に慣れていないのだ。些細なモヤモヤさえ我慢していれば、私も〝普通の〟母親になれるはず。妊娠出産という人生観を激変させる出来事の経験から、今は立ち直れておらず、混乱の中にいるだけに違いない。

 きゃはは、と高い笑い声に肩がびくりと震える。隣の床の間からだ。寝ていた奏太が起きて、積み木でお城のようなものを作っていた。楽しげな奏太の前に、もうひとつ立派な積み木の建物がある。まるで、もう一人誰かが遊んでいたような。

「これ、そうくんが全部作ったの?」

 いつもなら、うん! と明るい顔で答えてくれるのだが。

「トリワ、シイネ!」

 最愛の息子はこちらに一瞥もくれず、満面の笑みで手元を動かしている。

「とり……何、そうくん?」

「トリワ、シイネ! トリワ、シイネ!」

 意味不明な言葉を繰り返す奏太の前で、私は言葉を失い、呆然と立ち尽くした。何かが変だ。絶対に、変だ。



 夫から帰りが遅くなるという連絡があり、その日もご飯や入浴や寝かしつけを一人でばたばたとこなした。気疲れが激しく、奏太の入眠を確認した直後に、私の意識もほとんど落ちるように眠りに溶けていく。

 深更、ふと目が覚めた。ジー、とかすかに耳鳴りに似た通奏低音が聞こえる。

 誰かが傍らに立っているのに気づいて全身が跳ねた。奏太の背格好に似ているが、彼ではない。なぜなら顔が巨大な穴になっているからだ。太い木の杭で穿たれたような大穴が、顔面を深く陥没させている。ひ、と喉から死にかけの動物みたいなかすれ声が漏れた。

 ソレは、出し抜けにぬうっと手を伸ばした。見ると、私の腹は大きく切り開かれていて、脂肪や肉や内臓があらわになっているのだった。塗り込めた闇の中なのに、自分の内部がてらてらと滑った光を放つのが見える。ソレは、頭から私の胎内に入ってこようとしていた。

 冷や水を浴びたようにゾッとした。

 ――やめて! 入ってこないで! 

 心の中で絶叫するも、体は凍りついたように動かない。人間を模した生温いソレの体が、のたのたとおぞましい動きで肚に入ってきて――。

 そこで本当に目が覚めた。びっしょりとかいた冷や汗もそのままに、急いで腹部を確認する。寝間着の下の肌はつるりと綺麗なものだ。ふう、と深く息を吐く。

 そばで奏太がすやすやと寝入っている。時刻は深夜の二時近い。私はのそりと立ち上がり、そっと部屋を出た。向かうは、夫の寝室だ。

 仰向けで熟睡している夫に、あなた、と呼びかけると薄目が開く。

「カナ……? 何かあった?」

「遅くにごめんね。今すぐ、したいの。ううん、するから」

 夫ににじり寄る。耕太は狼狽したように目を丸くした。

「ど、どうしたの。いきなり……」

 夫の反応など構っていられない。私の中には、ついさっき、何かが宿った。夢から覚めてすぐに理解したのだ。生命工学を専攻していた自分が、こんな非科学的な確信を得るなんて、皮肉もいいところだ。

 だったらせめて、最低限の辻褄をここで合わせてやる。腹の子が何者であれ、私たちの子だ。私と、夫の子供。

 絶対にそうでなきゃいけない。それ以外は、あり得ないのだ。

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[一言] 人の心に巣食う闇、どろどろとした後ろめたいような感情の闇がリアルで、驚くほど共感できました。母親の役割、田舎の閉塞感。誰が悪いわけじゃないけれど、自分が求めるものはそこにはなくて焦ってしまう…
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