08.病める時も健やかなる時も、どう考えてもバッドエンドな時も!
-この作品にあらすじはありません-
一歳の誕生日を祝われている妹の栞里は、疑いようもなく、世界で一番かわいいお姫様だった。
灯りを落としたリビングで、蝋燭の火に照らされた家族と共にハッピーバースデートゥーユーを歌う。
私と一緒にテーブルについているのは、パパとママとお兄ちゃん。無邪気な笑顔でケーキを見つめる妹が、対面で嬉しそうにテーブルを叩いている。
「誕生日おめでとう、栞里」
一際明るく歌い終わったママが、とびきりに優しい声で妹に囁いた。
背中にちっちゃな羽がついたふわふわのワンピースを着る妹は、本当に、天使みたいに可愛い。
小さな手をぺたぺたと打ち鳴らしている妹の前で蝋燭の火が消えて、すぐにお兄ちゃんが部屋の明かりをつけた。
一瞬、目が慣れなくて視界がちかちかする。
「じゃあ、切り分けよっか」
ママは笑って立ち上がると、ナイフを片手にケーキを見下ろして、少し迷うように何度か位置を確かめて、そうして──顔面からそこに倒れ込んだ。
人の頭というのは、とても重たい。華やかなショートケーキは容易く押し潰されて、卓上に歪に広がった。
手を離れたナイフがテーブルに当たって、硬く震えた音を立てる。
徐々に細くなっていく音と、段々とずり落ちていくママの身体。
力なく膝をついた形で止まったママを見て、私たちはほんの少しの間黙り込む。
待ってみたけれど、やっぱりママは動かないままだった。
「あーあ、さいきんは無かったのにね」
お兄ちゃんが呆れたような声で呟く。
そうだなあ、とパパも少し困ったように続いて、それから、いつものようにママの頭の後ろを叩いた。
ばん、ばん、ばん。
治らなかったので、もう三回。
妹は何が起こっているのか分からない顔できょとんとして、それから、遊びだと思ったのかパパの真似をしてママの頭を叩いて、にこにこしていた。
良いことだ。せっかくのお祝いの日なのだから、楽しく笑っているべきである。
「栞里は全然泣かないから偉いなあ」
パパは心底感心したように言って、しばらくして起き上がって謝るママに、優しく、「シャワーを浴びておいで」と告げた。
普通のママと言うのは、突然動きが止まったりはしないらしい。
それに気づいたのは小学校二年生の時だった。妹の栞里が産まれるよりも、一年半ほど前の話だ。
私が小学校に上がってからというもの、ママは殊更に止まることが多くなってしまった。
パパはいつものことだから何も心配いらないというし、実際そうだとも感じるけれど、どうせなら止まらない方が嬉しい。
他のお家ではどうしているんだろう。対処法が聞けたら良いなと思って、隣に住んでいる美弥ちゃんに相談したことがある。
「ママが止まっちゃった時って、美弥ちゃんはどうしてる?」
「止まるって?」
「だから、動かなくなっちゃった時」
あるでしょ? 動かなくなる時。
うちのママは、よく台所で止まってしまう。もしくは、料理に類する行為をしている時にはよく止まる。どうしてかは分からないけれど、水道が流れっぱなしになる音が10分も聞こえたら、大抵は止まっている。
パパはそういう時は少し難儀そうな顔をして、ママの頭の後ろの辺りを叩いて動かす。ようするに古いテレビと一緒なんだって、パパがぼやいているのを聞いた。
丁寧に説明した私に、美弥ちゃんはしばらく瞬きを繰り返してから、きゅっと眉根を寄せた。
その時に美弥ちゃんが何を言ったのか。
私はわざと忘れることにした。
記憶から追い出す程度にはショックな出来事で、それでいて、生々しい怒りだけは覚えていた。あとは、ずたずたに引っ掻いてやった美弥ちゃんの顔の感触も。
美弥ちゃんとの一件以来、私はママの話を家の外でしたことはない。
ママは病気ではないし、おかしくもないし、気持ち悪くも無いし、綺麗で優しい、私の自慢なのだ。同級生のママの中で、誰よりも美人だと思う。
ちょっと止まってしまうことくらい、欠点にもならない。だって、他の家のママだって疲れて何もせずに眠ってしまうこともあるでしょう? それと一緒。
だから何もおかしくはない。
私が中学二年生になった年の夏。
四つ上の兄は、荷物を抱えた格好でリビングにやってきて、アイスを齧る私に『出ていく』と告げた。
大学生というのは一人暮らしをするものだと何となく思っていたし、お父さんとお母さんに相談して、それでいいとなったなら、別にわざわざ私に言うことでもないと思った。
そうなんだ、と相槌を打った私に、兄は何も言わずに背を向けた。もしかしたら何かを言いかけたかもしれないけれど、私の記憶には残らなかった。
兄はそれから十年戻っていない。
きっとこの先も、顔を出すことはないだろう。
◆
「────っていうのが、私の実家の話なんだけどね」
午後七時の、真っ暗で閑静な住宅街。
僕の前を歩いていた真里さんは、ごく平凡な作りの一戸建ての前で笑った。
大学の先輩だった西木真里と、僕こと箕面一晴が付き合ってから早五年。
実家に挨拶に来てよ、と言われて連れてこられたのが此方の一軒家である。
真里さん側の家族とはこれまで全く交流がなかったので大層緊張していたのだが、ここに来て緊張の種別が変わってきてしまった。
今から二十分前。最寄の地下鉄の駅から歩き始めた真里さんは、人も通らない静まり返った路地を進みながら、唐突に思い出話を始めた。
心の底から懐かしむように語られる話の内容が、かなり奇怪なものであることにはすぐに気づいた。
けれども結局、口を挟むことも出来ずに此処まで来たという訳だ。
「……僕が、ご家族に紹介するに値しない男だと思っているなら、無理に挨拶しなくてもいいんですよ」
「え? いや、お母さんは割と乗り気だったよ。そりゃあ、お父さんはちょっと、気が乗らなくてもほら、仕方ないけど。心配しないで、一晴くんは良い人だから、きっと受け入れてもらえるだろうし」
柔らかい明かりの灯る一軒家の門前で、真里さんはなんてことのない声で言った。
「……………………」
元々妙な悪ふざけが好きな人ではあったが、こんな作り話をしてまで遠ざける必要はないのに。
何処か頭の痛くなる思いで、どうにか彼女を諌めようかと悩んでいる僕に、真里さんが問いかける。
「一晴くん、私のこと好きだよね?」
「な、なんですか急に。好きですよ、もちろん」
彼女の卒業の際、告白をしたのは僕の方からだった。
登山サークルで出会った、一つ上の先輩である真里さんは、その美貌はもちろん、明るくて悪戯好きで、目が離せなくなるような魅力を持った女性だった。
美貌を褒められる度に、『美人に産んでくれたお母さんに感謝しないとね』と冗談めかして、それでいて敬愛を含んだ照れ笑いを浮かべるところが、たまらなく可愛かったのを覚えている。
真里さんは記憶の中と同じ、僕が一番に愛しいと思う笑みと少しも変わらない顔ではにかんで、確信を持って尋ねた。
「じゃあ、私の家族のことも好きになってくれるよね?」
美しい笑みだった。
僕が真里さんを裏切るはずがない、と信じ切った、愛情と信頼を込めた微笑みだった。
悟られない程度に、そっと息を吸う。
重くなり始めた胃を無意識に摩りつつ、僕はゆっくりと言葉を吐いた。
「……お母さんは、今はどうなんですか」
「どうって?」
「…………動くんですか?」
「やだなあ、一晴くん。動かない訳ないじゃん。たまに止まっちゃうだけだよ」
真里さんは面白い冗談でも聞いたようにころころと笑って、僕に肩を軽く叩いた。
いつもと何一つ変わらない仕草で、だからこそ妙に現実味がなかった。焦燥に煽られるままに、僕は何処か上滑りする言葉を重ねる。
「もし、もしもその話が真実だとするなら、僕は真里さんのご家族がお母さんを一度も病院に連れて行っていないことに対して、多少、その、軽蔑の想いを抱かざるを得ないんですが」
「え? もちろん、連れて行ったよ! あまりに当然の行為すぎるし、話の上では省略しただけ。そんなまさか、家族が倒れたのに病院に連れて行かないなんてことある?」
真里さんは驚愕のままに目を瞬かせ、特に後ろめたい点もなさそうに身振りを交えて言った。
「何だったら、最近私のお金で人間ドックにも行ってもらったくらいなのに」
その話は聞いた覚えがあった。
お母さん、自分では病院に行こうとはしないから、とぼやき半分に予約を取っている姿を見かけた記憶すらあった。
長生きして欲しいしね、と呟く真里さんの声には間違いなく愛情というものを感じられたし、僕は確かに彼女のそういう面を好きになったのだ。
「一晴くん、私のこと好きだよね?」
真里さんは、僕の顔を覗き込んで、もう一度さっきと同じ問いを繰り返した。
答えるより先に、口を挟む暇もなく言葉が続く。
「いつかは話そうって思ってたんだけど、言おう言おうって思ってる内に逆に言い出せなくなっちゃって。一応ね、変だってのは分かってるの。でも、私にとっては大事な家族なんだよ。それで……一晴くんにも、そういう大事な人の一人になってほしいって思ってるんだ」
真摯な響きだった。自分の中の一等大事な思いを丁寧に包んで、壊れないように差し出すような声音だった。
何処か胸の詰まる思いで、真里さんの言葉を受け止める。
突然、奇妙な思い出話をされたせいで混乱してしまったが、これが真里さんにとって限りなく大切な話であることは、その声音だけで理解できた。
結婚を前にして、流石にタチの悪い冗談なんて言っていられないだろう。そもそもが、結婚というのは女性の方が重きを置くものである。
彼女は本当に分かって欲しいと思って、どうにも飲み込んでしまいそうになる秘密をやっと打ち明けてくれたのだ。
それに応えないでいるのは、あまりに不誠実な行いだろう。
僕はそっと、真里さんの手を取った。その選択を後悔すると分かり切っていたくせに。
対面したご両親は、僕の想像の何倍も『まとも』な人だった。
お母さんは真里さんの言う通り、とても五十過ぎとは思えない程の美貌の持ち主だったし、恰幅がよく温厚そうなお父さんは、穏やかで柔らかい物言いをする立派な人に思えた。
ただ、僕の意識は、リビングの一角に縛り付けられるようにして引っ張られていた。
部屋の隅に置かれた一人がけのソファに、真っ白なドレスを着た女の子が座っている。
精巧なビスクドールを思わせる顔立ちの、七歳程度に見える女の子だ。
天使のように美しい女の子は、白いレースのリボンでソファに縫い止められることで、かろうじて腰掛けているような形を保っていた。
どうしたって視界に入れてしまい、ぎこちなくなる僕に、真里さんはぱっと花やぐような笑みを浮かべて立ち上がる。
「あっ、紹介するね! 妹の栞里だよ」
手を引かれて連れられた僕は、無言で栞里ちゃんを見下ろしていた。
少女の濁りのない澄んだ瞳が、瞬きもなく虚空へと視線を向けている。色白の頬は健康的すぎるほどに赤く熱っているが、僕はすぐに、それが化粧品によって乗せられた色だと気づいた。
「栞里はね、ママより早く動かなくなっちゃったんだ。叩いても治らなくて。あんなに可愛い、天使みたいな子だったのに……」
真里さんはほんの少し寂しそうに呟いて、栞里ちゃんの髪を丁寧に、至極愛おしげな手つきで撫でてから、笑顔で僕を振り返った。
「一晴くんも撫でてあげて。栞里もきっと喜ぶから」
いや、と言うより、うわ、に近い声が微かに唇の隙間から漏れかけたが、なんとか押し殺した。
「やめなさいよ、真里。一晴くんが困ってるじゃない」
お母さんが笑い混じりに嗜める。お父さんも笑っている。
僕もまた、合わせるように笑みを浮かべる。
どうやってこの家から穏便に逃げて帰るか。既に頭の中はそれだけで一杯だった。
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