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アイは、そんな私とは正反対で、学年・男女関係なくよくモテる。
それは、この一ヶ月間にアイが告白されたという噂を耳にしていれば、よく分かった。
でも、アイはどの人からの告白も「ごめんなさい」の一言ですべて断っているようだ。
最初はみんな、転校早々告白されまくるアイの気持ちを慮って「アイって大変だね」と同情していた。でも、告白を断る回数が三回、四回、五回と増えていくうちに、次第にクラスメイトたちのアイを見る視線が、冷たくなっていくのに気づいた。
ある日の放課後、いつも私のことを“空っぽ”だと揶揄していた美雪や蘭、その取り巻きたちが、鞄を肩にかけて教室から出ようとするアイを取り囲んだ。同じように、教室から出ようとした私は、反射的にまずい、と察知する。
アイを囲んでいる彼らは、アイが転校してきてからしばらく、アイを持ち上げて仲良くしようとしていた人たちだ。でも、彼らの一つ一つの目が、意地悪く吊り上がっている。見たことがある。私も、いつも同じ視線を向けられているから。
「アイさぁ〜、ちょっと調子乗りすぎじゃない?」
善良な人間のなめらかな心に、尖った刃を突き立てるみたいに、美雪が牙を向いた。
「……」
アイは何も答えない。突如降りかかってきたはっきりとした悪意に、戸惑っているように見えた。
「ちょっと、聞いてる? 吉井も、赤坂も、和田も、みんなあんたに告白して振られたって、泣きついてきたんだけど。『ごめんなさい』って一言だけ言って去って行ったって、あんまりだって言ってたわよ。なんで? そんなふうに済ました顔してのうのうと学校に来られるの? あんたはたくさんの人を、傷つけてる」
ねっとりとした声色に、当事者ではない私の方が、吐き気を覚えた。
私のいる位置からは、アイの横顔しか見えない。でも、普段はみんなと朗らかに会話をしているアイの頬がこわばっていることはよく分かった。
「そんなこと、言われても」
美雪だけじゃない。蘭や、他の取り巻きたちの圧を感じたアイが、ふっとそれだけ吐き出して黙り込む。いつものアイなら、もっと上手く立ち回れそうなのに。この時ばかりは、心が萎えているようだった。
「ちょっと、みんなを傷つけたのに、謝罪は何もなし? ちょっとモテるからって、調子乗ってんじゃないよ。最初は綺麗な顔して喋りやすいからって思ってたのに、最低だね」
ただ、他人を傷つけるためだけに生まれた言葉が、アイを通り越して、私の胸を突き刺した。
違う。アイはそんなんじゃないのに。
アイは誰かを傷つけようと思って、告白を断っているわけではない。
アイと話したことはないけれど、アイが悪人ではないことだけは分かる。
私は、この場で何もできない自分に歯痒さを覚えて、奥歯をギリギリと噛み締める。もう、言ってやろうか。アイはそんな人間じゃないって。自分のことなら反撃なんかできそうにないのに、どうしてか、アイの尊厳を守るためならば美雪たちに言い返せそうな気がしたのだ。
「あの——」
私は拳を握り締め、自分では精一杯の大きな声を出して彼らの会話に割り込もうとした。けれど、私が意味のある言葉を発するよりも先に、アイの口が開いた。
「自分は、告白とは関係のない人たちに謝らなきゃいけないようなことはしてないはずだよ」
自分、という聞き慣れない一人称を使うアイが、透明な声でそう告げた。とてもはっきりとした口調で、美雪たちに有無を言わさない強さがあった。私は、喉元まで出かけていた抗議の声を唾と一緒に飲み込む。生ぬるい感触が、気持ち悪い。
アイの抗議の言葉に、美雪や蘭たちが一歩後ずさる。彼女たちにとっても、予想外の展開だったのだろう。たぶん美雪たちは、私のようにアイが口ごたえできないことを狙って、意地悪なことを言ったのだ。でもアイは違った。アイは、私なんかとは違う。自分の意思を強く持って、毅然とした態度で彼女たちに刃向かった。
「……もういいっ」
返す言葉がなくなった美雪が、そっぽを向いて教室から出ていく。
美雪の後を追って、蘭と取り巻きたちもぞろぞろと教室を後にした。
「何あれ、美雪に逆らうなんてやばいやつ」
と、廊下から蘭の下品な声が聞こえてくる。きっと、アイの耳にも届いているはずだ。でもアイは、顔色ひとつ変えることなく、美雪たちが去っていったあと、たっぷり間を置いてから教室を出ようとした。
私は、慌ててアイの元へと駆け寄る。どうしてだろう。今、話しかけなければ、もう二度とアイと視線を交わすことができないような気がした。
「あの! 私、織部、彩葉、です。さっきの会話、聞いちゃって……」
初めてだった。アイに面と向かって声をかけるのは。アイが教室の扉が出られないようにして、アイの正面に立ちはだかる。アイはとても驚いた顔をして私を二度見した。
「知ってる、けど」
「え?」
「だから、織部彩葉って名前。クラスメイトなんだから、知ってて当たり前だよ」
「そっか……そうだよね」
アイのきっぱりとした物言いに、先ほどの美雪たちではないが、私も少したじろいでしまう。アイの瞳は水晶玉みたいにキラキラ光ってて、その目に見つめられると、私の心臓は不自然なほど大きく脈打ち始める。
「彩葉って名前、とっても綺麗だと思って。だから話したことなくても覚えてた。物覚えは悪い方なんだけどね」
ふっと目を細めて笑うアイ。
私は、アイの柔らかな声に包まれるような心地がして、ひどく安堵していた。
「綺麗だなんて、言ってもらったの、初めて。私って、“空っぽ”だって言われるから」
「空っぽ? どうして?」
アイの瞳が純粋な疑問の色を帯びている。
私はアイに、クラスメイトから受けている仕打ちを話そうか迷った。きっと話さなくても、薄々は気づいているだろうけれど。アイになら、素直な自分を曝け出してもいいような気がする。
「最近さ、推し活って流行ってるでしょう? そういうの、私にはよく分からなくて。推しと呼べるものが、自分にはないの。SNSも、特に面白いって感じないからやってなくて。私は、それでいいと思ってた。でもそんな私を、美雪たちは疎ましく思ってるみたい。推しの話も、クラスの女子みんなでSNSにアップする動画を撮ろうって話も、ついていけないから。彩葉って名前なのに、空っぽで、灰色の人生だって言われるんだ」
口にすると、自分が思ったより傷ついていることに気がつく。
ああ、私は。みんなから“普通の女子高生”とは違うように見られていることが、つらいんだ。
大丈夫だと思っていても、心には少しずつ切り傷みたいなものが刻まれていく。痛みに気づかないように鈍感なふりをしていたけれど、私はたぶん、痛みを我慢できなくなっている。
アイは突然の私の告白を聞いて、どう思っただろう。
重たい女だと感じたかもしれない。
ちっぽけな悩みだって、笑われるかもしれない。
怖くて、ぎゅっと両目を瞑った。
「……これは自分の勝手な見解だけど」
アイの声が、閉じた瞼の向こうから降ってくる。
私はごくりと生唾を飲み込んだ。
「彩葉が、好きなものだけを好きだと思えばいいんじゃないかな。周りの人からどう思われようと、自分が好きなものを好きって言えばいい。だからさ、誰かに嫌われても、素直な自分でいようよ」
「素直な自分……? でもそうしたら、友達がいなくなっちゃうよ。私は、友達がほしい。なんでも話せる友達。心を許せる友達が」
「それなら、自分と友達になろう」
「え?」
アイからの提案に、私はどきりとした。それと同時に、湧き上がってくる言いようもないほどの喜び。迸る柔らかな希望の光が、目の前にいるアイの瞳の中に宿っている。そこに映る私の表情が、鏡で見る暗い顔をした自分とは違って見えた。
「友達になるの、嫌?」
戸惑う私に、アイの透明な声がもう一度問いかける。
「ううん、なりたい。私、アイと友達になりたいっ」
感情のままに、私はそう口にしていた。途端、アイの綺麗な形をした目が、にゅっと細くなって、漫画の主人公みたいに笑う。
「よかった。それじゃあ、今日から友達だよ。あ、さっき言い忘れてたけど、話しかけてくれてありがとう。すごく嬉しかった」
アイの笑顔が、大輪のひまわりのようだと思う。
嬉しかったというその言葉だけで、私の胸はすっと軽くなった。
孤独だった高校生活に、ほのかな光が差した瞬間だった。