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「ねえ、昨日の『Color』のライブ見た? ユンくん、まじで推し」
「本当それ! ずっとテレビ陣取ってたから、親が勉強しなさいってうるさかったけど、あのライブ映像を見ずに勉強なんてできるわけないっての」
シンナーの香りのする美術室で、後ろの女子たちの話し声が嫌に響いて聞こえる。
5分前に先生が「職員室に忘れ物をとりに行ってくる」と言って出て行ってから、ずっとみんな、ざわざわと近くの席の人たちと話している。自画像を描きなさいという課題は、彼彼女たちの頭の中からはとっくに忘れ去られていた。
きゃははっという女子の笑い声が、耳障りで顔を顰める。
ダメだ。集中、集中しよう。
色のない紙の上を、さらさらと鉛筆の線が走っていく。
鏡を見ながら指先で左の頬を撫で、自分の顔の形を確認する。
見たまま、感じたままに描いた自画像は、どこか不格好で、それでいてちっとも特徴がないように見えた。
ちょうどその時、後ろの席の子の肘が私の右腕に当たり紙の上を滑らせていた鉛筆の線が、びいんと机の方まではみ出した。
「うわ〜ごめん。てか織部、なに真面目に自画像なんて描いてんの?」
小山内美雪。このクラスのボスである彼女は、先ほど韓国系アイドルグループの『Color』の話をしていた人物だ。
「本当だよ。せんせーいないのに。織部もあたしらの話混ざる?」
美雪の隣から声をかけてきたのは、美雪の一番の仲良しである林蘭。
「……いや、私はちょっと。そういうの、興味ないし……」
早く課題を終わらせたいのに、どうして話しかけてくるんだろう。
そっけなく答えた私に、美雪と蘭は顔を見合わせて、ひどくつまらなそうに無表情になった。
「そっか。織部は推しとかいないんだよね。彩葉って名前も、全然似合ってないし。あんたの人生、灰色じゃん」
「まじでそれ! 推しがいないなんて、何のために生きてるの?」
きゃはは、という笑い声がもう一度耳に響いて、私は瞬時に両耳を塞ぎたい衝動に駆られた。
やめて、それ以上何も言わないで。
心の中では立派に抵抗できるのに、自分よりも発言力のある人を前にすると、なんにも言えなくなる。私は、自分のことを何一つ主張することができない。
控えめだとか大人しいとかよく言われるけれど、一番言われるのは、「織部さんって、自分がないよね」という言葉だ。
自分がない。
つまり、空っぽだということ。
そんなふうに言われるたび、私は惨めな気持ちに苛まれる。
「このクラスで推しがいないっていう女子、織部だけじゃん」
「うわ、それって孤高アピール? そういえば織部、SNS一個もしてないんだっけ。おかげでクラス会の連絡もできなかったんだよ」
はっきり言って迷惑、とでも言いたげな様子で蘭が私を睨みつける。
授業中なのに、躊躇なく人を見下せる彼女たちが、私には獣のように見えた。
二人の言う通り、私には“推し”がいない。
クラスのみんな、大抵一人は自分の中に“推し”が存在する。“推し”はアイドルグループだったり、漫画やアニメのキャラクターだったり、声優や俳優だったり、様々だ。推し活だから東京に行くって、学校を休む人までいる。だけど、私には何かを推すということが、どういうことなのかが分からない。恋をしているのとも違うというけれど、具体的にどんな気持ちなのか。分からないから、女子たちの会話にはうまく入れない。世間の“推しブーム”に、私は一人、大海原に取り残された気分だ。
元々の性格も相まって、私は完全にクラスメイトの女子から孤立していた。
さらに蘭の言うように、私はZ世代としては天然記念物レベルに珍しく、SNSを一つもしていない。だから、学校以外で誰かと連絡を取ることもない。先週、一年一組で三学期お疲れ様のクラス会があったという話だって、昨日まで知らなかった。
私にだって、好きなことはあるのに……。
歪んだ鉛筆の線が、白い紙の上で孤独な私を嘲笑うかのように滲んで見える。
なんでだろうって不思議に思っていると、自分の瞳の縁に涙が溜まっているのだと気づいた。
「はいはい、課題は終わりましたか?」
忘れ物を取りに行っていた先生が、美術室に戻ってきた。
さっきまでガヤガヤと話していたクラスのみんなが、途端に口を塞ぎ静まり返る。
「あれ、どうかしました? 自画像、描き終わったものは後ろの人から集めてください」
先生だって、クラスのみんなの雰囲気がきゅっとコンパクトに縮こまっていることに気づいたのだろう。でも、何も注意をすることはなく、淡々と課題を集め始めた。
私は、完成させられなかった不恰好な自画像を、一番後ろの席の人に集めてもらおうと振り返ったけれど、その人は私の席を通り過ぎて一つ前の席の子の課題を受け取った。
仕方なく、教室から出る間際に自分で先生の元へと持っていく。
線のはみ出した中途半端な絵を見られたくなくて、先生と目を合わせることなく、そそくさと教室を後にした。