三題噺 馬 池 未来
涙が出るくらい美しい青空の日だった。
東京の一等地にあるビル街、その屋上にある喫煙所に彼はいた。忙しい中、上司の目を盗んで席を外し、凛はいつもそこを訪れる。曇天だろうが、晴天だろうが、雨が降っていようが、彼は常に煙草を咥えて上を向く。
人生の意味という問いを煙に乗せて、世界へ問いかける。答えは返ってこない。「あの日」から凛の人生は泡沫となった。
青空の中に一筋たなびく白雲を見つけると、凛の心は軋りと痛む。決まってそんな時は、スーツのズボンに入ったライターを握る。
かつて、空を見上げるとき握っていたのはライターではなく、柔らかい彼女の手のひらだった。場所は喫煙所ではなく草原だった。口に当たっていたのは煙草のフィルターではなくて、優美の唇だった。
あの温もりが、未だに凛は、忘れられない。
「っ」
彼は空から視線を逸らした。過去の残像が、脳裏に焼き付いていた。
苛立ち交じりに煙草の火を消し、握りつぶした。まだ熱かった。
「ずいぶん気が立ってますねぇ」
凛は慌てて声がした方を向く。二つ下の後輩の誠が、ドアを半開きにしてこちらを覗いていた。
誠はそのまま凛のいる喫煙所に歩いてくる。
「まぁ、あの案件、先輩にはちょっと荷が重いっすよね。分かります。少なくとも責任は部長に取ってもらわないと、筋通んないですよね」
彼は苦笑しながら近づいてきて、煙草に火をつけた。
「あ、あぁ」
気のない返事をしながら、凛はもう一本煙草を取り出す。
「ところで凜さん、今度ゴルフ行きません? 実は俺からっきしで。先方と7日に行くんですけど不安なんですよね。ちょっと打ちっぱなし付き合ってもらえません?」
「は? なんで俺が」
ふいに出た話題に彼は思わず嫌な顔をした。
誠はそれを見て、盛大に笑う。
「ははは、素直っすね。でも聞いてますよ。ゴルフ、お好きなんですよね? お上手だって聞きましたよ」
「誰から聞いたんだ?」
「部長です。人事も言ってましたよ。彼女さんとよく行ってたって」
「…………」
「あ、いま余計な事言いやがってって思ってます? 凛さんって結構素直ですよね」
「悪かったな」
「いえ、僕は凜さんの事好きですよ」
「なんだそれ。気色悪い」
「そういう意味じゃないですよ。ゴルフが得意な理由も素敵ですし」
喫煙所のよどんだ空気が固まった。凛の煙草を吸う手が宙に止まる。誠の目は閉じていて、表情をうかがい知る事は出来ない。
ただ、たなびく煙だけが時を与えられている。
「誰に聞いたんだ?」
凛が口を開いた。重苦しい口調だった。
「別に、誰ってわけじゃないですよ」
吐き捨てるように誠が答える。
「有名なんですよ。凜さんの彼女の話。大学生から続いて、会社まで一緒で、そのあと、事故で亡くなられたんですよね」
「そうだ。よく知ってるな」
彼はそう言って、笑った。
大学1年生の時、一つ年上の優美と出会った。
「ねぇあの雲、馬のしっぽに見えない?」
新歓の時、友人と暇つぶしに訪れたゴルフサークルで、彼女は開口一番そう言った。友人は怪訝な顔をしていたけれど、凛はその姿に魅せられた。
「ほらほら」
ポニーテールをぴょこぴょこ跳ねさせて、大きな瞳をくるくる回して、優美はいつも動き回っていた。
「そうだね」
凛は彼女にそう言った。
「でしょでしょ」
優美はちょっと変わった所があった。不思議な事に意味を見出すたちで、好奇心旺盛だった。
それが彼は好きだった。
それから凛はゴルフサークルに入り、ゴルフへ打ち込んだ。好きだった訳じゃない。彼女とコミュニケーションを取る方法を知らなかった。結果として、ゴルフが下手だった優美へ教えるという形で二人で出かけ、回数を重ねて交際へ至った。
彼女はバンカーや池のない簡単なコースで適当に打ちながら、芝生に寝ころぶのを好んだ。
凜もそんな優美とのんびりコースを巡るのが楽しかった。
けど彼女は死んだ。
冬の池に落ちて。
きっと優美のことだから、何か気になった事でもあったのだと思う。
それなら言ってくれればよかったのにと、どうしようもない事なのに未だに思ってしまう。
それから、ゴルフクラブは、握っていない。
「やめてください。俺が悪かったです。ゴルフはまたにしましょう」
黙りこくった彼の心情を察し、誠は大きな声でそう言った。
「悪いな」
どこか上の空で凛が答える。
「こちらこそ、申し訳ございませんでした」
彼が深く頭を下げた。
「いいよ、いいよ。むしろ……ありがとな」
肩を叩き、喫煙所を後にする。
ドアのノブに手をかけ、軽くひねり、
「そういえば―—」
誠の方を見た。彼はちょうど煙草を咥えた所だった。
「打つときは7割の力で打つといいぞ」
凛がそう言うと、彼は笑った。
「また誘いますね」
「ありがとう」
ドアを開け、その場を後にする。革靴が階段を打つ音が響く。転び落ちないように足元をしっかりと見て、早歩きで降りていく。
優美のように道を踏み外さぬように、彼は仕事へ戻っていった。