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ワイルドハントと太陽  作者: 木桶 晴
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2. 生花

 崩れた家というものは、先の戦争の舞台を練り歩いていれば案外すぐに見つかる。戦争の舞台とは言ったものの、主戦場だった場所に雨風の防げる場所が残っているわけもなく、その地域の外れに、どこかの誰かが手放した家がポツンと残っている。


「昨日は助かった」


「なんです?」


 昨晩雨に濡れた衣服は、部屋の湿気のせいか未だに乾かない。まだ午前中。火が必要なほどの寒さは午後まで続きそうに思える。


「いや、あそこまで視界が悪くなるとは思わなくてな」


「ああ。決まっていたことをやっただけです。だいぶ前に決めたでしょう」


 ここは、どこかの誰かが物置にしていたのだろう。簡素な造りで屋根もトタン。バラバラと石でも降らせたかのような音が、ひと月ぶりの雨に代わり降ってくる。二人とも、仕事に関わらない限りは特段雨が好きなわけではなく、シャーロットに至っては髪が傷む、と少々文句をたれるくらいの印象である。


「いや、まあそうなんだがな。当たり前のことに感謝していかんと、俺達は何かがあった時に生きる活力を失う羽目になる。

当たり前にある自分を認めることは大事だぞ、嬢ちゃん」


 彼女は言っている意味はわかるがその真意は汲み取りかねるというの顔をして、うん、と一つ頷いて一旦自分を納得させた。

 昨日雨やら体液やらで濡れてしまった長ナイフを、ゆらゆらと揺らす。月夜の晩よりも暗い小屋に、僅かな光を受けて金属の凶器が白黒と色を変えてみせた。


「老人の知恵、ということにしておきましょう。ま、昨日のような動きならば造作もありませんわ。いつでも頼ってくださいまし」


 言い終わるやいなや、彼女はためらう様子もなく下着姿を晒す。習慣的に行っている鍛錬のためだろうか。

 ガサガサとして僅かに赤茶けた、いかにも肌に障りそうな布地が一枚ずつ、上下に別れその素肌を覆っていた。


「……おまえさん、ちっとは恥じらいとかないのかい」


「今更です。もしかして、今になって若い女が近くにいると意識して緊張してしまいましたか?」


 彼は特に動じる様子はない。表情ではわからない分、少し目を逸らしてため息まじりに弁解し始める。


「今更さ。それにこの年になると、一丁前に欲情するにも随分体力を使う。たとえお綺麗なご令嬢相手でも、もうそんな元気は残っていないさ」


「ご令嬢?」


 なにか可笑しかったのか、彼女は返事の代わりに憎々しげにフッ、と鼻で笑った。カタンと音がして、コンクリートが剥き出しの床にナイフが置かれる。鼠色の床は雨に打たれてもいないのに、湿っているかのように冷たくじっとりと肌に張り付いた。


「なんだ、ご令嬢じゃなかったか」


 前に聞いた話と違う、とこちらは言葉で返す。シャーロットは脚を大きく広げて片方のつま先を両手でガッシリと掴んで、固まった筋肉をゆっくりと伸ばした。


「一代限りの小物政治家の娘は、ご令嬢なんてタマじゃありません。この前にも話したでしょう」


「いやすまんな。森にこもった世捨て人なんぞには、そういう話は覚えにくくてな」


 シャーロット、もといイザベラ・オーツは、はぁ、と一つため息をついて見せた。捨てた名前の話をするのは意外と覚悟がいるもので、それが人生を変えてしまった出来事ともなればなおのことだ。


「まず戦前に、ギャレット・オーツという名前の政治家がいたのはご存知かしら?」


 男は少しの間天井を見つめていたが、その思考を遮るかのようにシャーロットが言葉を発する。


「いえ、いいです。もう全部一度に話します。その政治家は、隣国との戦争に反対していました。それこそ国会の度にその話をするほどに」


 記憶をなぞる彼女は、憐れむような、懐かしむような表情を浮かべる。肩に掛かっていた髪がいくらかパラリと零れ、いつの間にか片胡座(あぐら)に戻っていた足をくすぐったが、彼女はそれを鬱陶しがる様子もなかった。


「そういう派閥があったのは知ってる。…………ああ、あの議員のことか」


 しばらく天井を見つめていた目が、また元の場所に――――シャーロットの目に戻った。彼女の暗い瞳はどこか遠くをぼんやりと見つめているような、不思議な静けさをたたえている。


「思い出しました?」


「あの街頭演説はな。戦場よりうるさい」


 二人で薄く笑い合う。


「俺が前に聞いたのはここまでだ。そいつが嬢ちゃんの親父さんだってことは知ってる」


「わたくしもそう記憶しています。その父は反戦派の筆頭だったのですが、そこまでの立場になっても貴族中心の国会の中で成り上がりである劣等感は拭えなかったようで、娘や妻にも貴族としての立ち居振る舞いを求めました」


「なるほどな。だからその口調なわけだ」


 いつの時代も、栄光あるものの猿真似をする輩は世間に滑稽に捉えられるものだ。それはただ単に笑いの対象というだけでなく、侮蔑やそれに準ずる敵意の対象にもなる。見るものによって、その滑稽さを侮辱と捉えることが少なからずある。


「そんな態度が鼻についたのでしょうね。開戦時の混乱で神隠しに遭いましたわ。ま、軍に影響力のある政治家を相手にした以上当然ですわ。

 それからはもう、反戦派の下部団体からまともな団体かも怪しい大人どもの間をたらい回し。いつの間にか、わたくしが誰なのかも知らない下っ端に捨てられました」


 猿真似したうえ目立つと、まともな結末を迎えないのは知れたこと。そしてその代償を払うのは案外本人ばかりともいかないのが、現実の非情であった。

 雨の音が聞こえる。この短い時間の中、二人の間に流れる空気は少しづつ冷え、重たく停滞していった。


「そのやたら巧いナイフの扱いは、親父さんの貴族教育か?」


「……ああ、いえ――――」




「オーツの娘さん、これ持っとけ」


 あと幾年かすれば成年になろう少女(わたくし)は、刃を取った。それは、それしかやり方なかったからなどではなく、ただそれがそこにあったから。

 考える暇などなかった。躊躇できるほど余裕はなかった。今持っているもののほうが少なかった。


「使い方も教えてやる」


 そうすることで失われるかも知れない自分自信など、とうに分からなくなっていた。

 なんとなく。ああもう父は帰っては来ないのだと、心のどこかで確信した。とても好きとは言えない父だ。立場はあるが、そのせいで色々言われたことだってある。

 彼は娘に、自身と同様に貴族らしく政治家になることを約束させた。この暖かな監獄は平和そのものであると同時に、父の死後も少女を縛る鎖――――呪いそのものでもある。彼の娘である限り、権力者の目はこの生涯にいつか現れるかもしれない汚点を、敵を陥れる機会を血眼になって探し続けるだろう。

 どう頑張っても自分は彼の娘で、彼の庇護下にあり、人生に選択肢などなかった。逃げ出したって、貴族ごっこのための着せ替え人形が外で生きていく道など、用意されてなどいないのだから。


「こういうのは、切ろうとするんじゃなく突いて――――」


 ああ、元より自分などいないではないのか。どこまでも誰かが作った環境で、誰かの意思で道を進む。片や、穢れたプライドと権力に浸かる身。片や、追われていつかは刈り取られる身。

 結局、父が消えようが消えまいが人生に意思などなく、この生に心は必要ないのだろう。

 殺しも政治も、大して違いなどありはしない。

 それより他に選べるものがなく心も必要ないのであれば、この胸に溜まったどろどろと濁って腐りきった感情を、どこかにえぐり出して捨てられたならいいのに。




「逃亡中に。必要だったので」


 このナイフはシャーロット(イザベラ)にとって、運命づけられた不自由の象徴だった。それは癒着した何かのように、彼女の傍らから離れることはないのだろう。

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