2.隠された過去①
「…さま、奥様。どうかなさいましたか?」
扉の前で立ち尽くしている私に気づき通りがかった侍女が怪訝そうな声で話しかけてくる。ゆっくりと振り返ると侍女は私の顔を見て目を見開いた。
「奥様、顔色が真っ青ではないですか!目眩はしますか、吐き気は?とにかく部屋に戻って横になってくださいませ」
「……」
どうして立ち尽くしていたのか事情を知らない侍女は、私の顔色が優れないのを見て具合が悪いのだと思い込んだようだ。
まさか伯爵夫人である私が立ち聞きしたうえ、その衝撃的な会話に動けなくなっているなんて分かるはずもない。
でもその勘違いは有り難かった、まさか事情を話すことなんて出来ない。だから私は侍女に言われるがまま、扉を開けることなくその場から立ち去った。
いいえ、逃げたのだ。どんな顔で彼らに会えばいいのか分からないから…。
混乱していたし、なにより怖かった。
夫が昔の恋人にどんな目を向けているのかを知るのが。そして私の尊敬する叔母が私の夫をどんな風に見つめているのかを突き付けられるのが…。
私はただ臆病だった。逃げても何も変わらないというのに、その場しのぎの選択しか出来なかった。
結婚して伯爵夫人になり大人になった気でいたけれども、結局はまだ中身は…未熟なままだったのだろう。
この場に相応しい貴族女性の大人の対応すら出来ないのだから。
侍女に付き添われながら部屋に戻った私に侍女は心配そうな表情を浮かべ話し始める。
「奥様、すぐにお医者様をお呼びします。まずは横になっていてくださいませ」
「いいえ、お医者様は必要ないわ。ただの立ちくらみだから暫く横になっていればすぐに良くなるわ。ただ応接室で待っている二人に謝っておいてちょうだい。そしてこれを叔母様に渡しておいて」
そう言って私はベッドに横になる。暫く侍女は『ですが…』と渋っていたが、『大丈夫だから。…お願いね』とだけ言って私は背を向け目を閉じてしまう。
「…分かりました。ですが何かあればすぐにベルでお知らせください」
侍女は小さな声でそう告げると静かに部屋を出ていった。
私は一人になると、声を押し殺して泣いた。それでも声が漏れそうになり必死で口を手で覆って嗚咽する。
知ってしまった以上、今までと同じでなんかいられない。
心に落ちた黒い染みは胸の奥深くまで染み付いてしまっているのだから。
夫であるオズワルドのことは愛している。
離縁などしたくない。
では彼が叔母を愛人にしたとしたら私はそれを受け入れられるのだろうか。
貴族ならば夫の愛人に寛容であるべきだが…。
私にそれが出来るのか。それも相手は私と血の繋がった実の叔母だ。
無理だわ、そんなの…。
受け入れられないわ。
想像しただけで吐きそうになる。愛する夫の過去を知った。そして叔母がまだ彼に気持ちを残していることも…間違いではない。
でも彼の気持ちはどうだろうか。
扉越しに聞こえててきた声音からは、考えたくないものを感じ取ってしまった。
でも…、でもそれは私の思い違いかもしれない。
そう信じたい私がいる。
きっかけは確かに昔の恋人に似た容姿だったのかもしれないが、今は私のことを愛してくれていると思いたい。もしかしたら私に、この後『実は…』と話してくれるかもしれない。『過去のことだよニーナ。心配しないで』と笑い飛ばしてくれるかもしれない。
誰にだって過去はある。
私だって淡い初恋は彼ではなかった。今だってその時の気持ちは記憶にある、大切な思い出の一つとして。
だからといって夫を愛する今の気持ちに嘘はない。
過去はただの過去でしかなく、それ以上でもそれ以下でもないのだから。