初午の神楽 幕前
神楽の儀式が始まる直前、控えの間にいた朱鷺を哉朱仁が訪ねた。
「装束の具合はどうですか?神祇官の装束は青色の狩衣で男用なので、それではおもって急いで女用を作らせたのですが…」
朱鷺専用に用意された神祇官装束は、目の冴えるような緋色の短い袿と濃い紅色の袴だった。上着には白兎の家紋が白抜きで柄として入っている。
「良さそうですね。着心地はどうですか?」
「動きやすいです」
「だからといって動き回られると困りますがね。昨日も言いましたが、氏神が出てきてもし声をかけてきたとしても、返事はしないでください。あちらとのやりとりはすべて僕がします」
哉朱仁の視線が朱鷺の手元にいく。
「もう一本、朱刀をこしらえたと聞いていましたが…いつもそれ一本だけ持ち歩いているようですね」
「ああ、あれは侠客さまにさしあげましたので」
おどろいたように目をみはる哉朱仁。
「あげた!?人間に自分の朱刀を…!?なぜです!?」
「恩を受けたお礼です。帝にはちゃんとお許しをいただきました」
「そうだとしても、人間ごときにあなたの朱刀をあげるなんてことはダメだ!」
朱鷺はすこしおどろいた。
それまでどんなことを話しても様子を変えなかった哉朱仁が、声を荒げて憤るような感情をみせたのだ。
「今日こそそれをもっていて欲しかったのですが…取りに行くような時間はもうないですね」
「……どうして、今日、もう一本朱刀がいるのですか?」
「…ここの氏神は元神使の狐です。昔教えましたが、神使の狐は他の神使とちがう。知恵もあっていろんな術を使う。もしもの場合、というのがあります」
「もしも……?」
「まぁそうなれば、むしろこちらとしても都合がいいかもしれませんけどね。神祇官の使命と役割をしやすくなる」
哉朱仁には朱鷺の知らない考えがあるようだった。
「とにかく、儀式が始まったら僕の指示に従ってください。いいですね?」
彼とこれ以上の対話を朱鷺はあきらめた。
朱鷺はこの場での『仲直り』はあきらめ、神祇官の仕事に集中することにした。
もうひとりの神祇官である蘇芳が儀式の始まりを告げにきた。
「時間だ。哉朱仁、行くぞ。そこの醜女は、あとから入られる宮さまの後ろにしっかりとついてこいよ」
彼の言葉はすでに朱鷺の耳に入っていない。
雅楽が鳴り、神楽の奉納祭が始まった。