今度は眼鏡も一緒に
◇ ◇ ◇
クラリス嬢がいなくなった部屋で、私は深く溜息を吐いた。
力を抜いて倒れ込むと、嫌に質の良い寝台が身体を受け止めてくれた。右手で、そっと自分の唇に触れる。
乙女のような行動だと思うが、許してほしい。
「お前達……いくらなんでもこれは力業が過ぎるだろう」
私は、クラリス嬢と入れ替わりに現れた小さな光達に話しかけた。
精霊の見え方、言葉の聞こえ方は人それぞれだ。
私には光の玉のように見え、声はしっかりと聞こえる。中には小さな人間のような姿を明瞭に見ることができる者や、動物のように見える者、声が聞こえない者もいるらしい。
小さな光──精霊達は、私を責めるようにぶんぶんと周囲を飛び回る。
『シリルがいけないんだぜ』
『そうよ。いつまでも見てるだけだから、力を貸してあげたのよ。私達に感謝するべきだわ』
私はクラリス嬢を知っていた。
いや、クラリス嬢こそが私の初恋だった。
聖騎士団で同期のクロード・ラブレーが、クラリス嬢の兄なのだ。クロードが忘れた弁当を持ってきたクラリス嬢は、周囲の聖騎士達には見向きもせずに笑顔でクロードを労っていた。
聖騎士団に出入りする令嬢は、用事があって来ても訓練や職務中の聖騎士に見蕩れたり、話しかけてきたりすることがほとんどだ。しかしそのときのクラリス嬢は、まっすぐクロードだけを見て、弁当を渡して挨拶を済ませると、手を振って帰っていった。
その姿を見て、クロードに向けられた野に咲く蒲公英のようにぱっと心が晴れるような笑顔が自分に向けられたらと、愚かしくも考えてしまったのは仕方が無いことだろう。
まして当時の私は、言い寄ってくる女性達のあしらい方も分からず、その存在自体に辟易していたのだから。
紹介してほしいと言ったら、絶対に嫌だと言われた。
令嬢達に苛められると言われ、形だけだが婚約者もいると言われれば、私から話しかけることもできない。好きな人が傷付けられる姿など、見たくない。
だから、それからずっと、姿を見るだけで満足していたというのに。
まさかクロードからクラリス嬢が婚約破棄されたと聞いたその日に、『精霊のいたずら』で閉じ込められて、キスをすることになるなど思わなかった。
「でも、もっとやりようが──」
『まだ言ってんのかよ。求婚の手紙も読んでもらえなかったのに良く言うよな』
「煩い」
それはクロードが邪魔をしてきたからで、私だけのせいではない。
クラリス嬢と婚約者のジェラルド侯爵子息に交友が無いと聞いてからは、自分にも勝ち目があると思い、求婚の手紙を何度も書いた。
きちんと口説くならば文句は言えないと思ってのことだったのだが、握りつぶされ、クラリス嬢本人に伝わらなかったのだから、意味はない。
『まあまあ、二人とも。……シリルも、キスまでしたんだから直接求婚するに決まってるわ』
「……今後は、眼鏡も一緒に飛ばしてくれ」
看板の文字は精霊の力で書かれていたから読めたが、そうでなければ読むこともできなかっただろう。
もう限界だった。
私は、クラリス嬢を手に入れる。
あの柔らかくて私よりも少しだけ冷たい唇をもう一度味わうためならば、どんな手段も使おう。
直接言葉を交わして、触れてしまったならば、我慢などできる筈がない。
願わくば、照れた表情も見たかった。
今回ばかりは『精霊のいたずら』にも感謝するべきかもしれない。
ようやく全ての覚悟を決めることができたのだから。
◇ ◇ ◇
寝不足でできた隈を化粧で隠してもらった私は、用意されたドレスを見て後悔した。
柔らかな水色のドレスには、胸元に群青色のガラス細工の薔薇の花の飾りがついている。シリル様に憧れていた昨日までの私は、どうせジェラルド様とは踊らないのだからと、こっそりシリル様の瞳の色に近いものを選んでいたのだ。
今はこの飾りを見るだけで、昨夜を思い出して胸が痛い。
それでも今更別のドレスにするわけにもいかない。
どうにか支度を終えて両親とアレットと共に馬車に乗り込んだ私は、夜会開始の少し前に王宮に辿り着いた。
今日の夜会は王都にいる貴族のほとんどが参加する大規模なものだ。だから、シリル様もきっとここにいるだろう。この飾りを見て、何か思われたらどうしよう。
でも、話しかけないようにとは確かに言った。
大丈夫だとは思うが、逃げるように帰ってきてしまったから、怒っていたらどうしよう。
「お姉様、やっぱり心配なの?」
「あら本当。クラリス、貴女昨日はあまり眠れなかったのでしょう?」
妹と母が顔色が悪い私を心配して声を掛けてくる。
私は無理矢理気持ちを切り替えて笑顔を作った。
心配させたいわけではない。寝不足ではあるが、体調が悪いのでも、ジェラルド様との婚約破棄を引きずっているわけでもないのだ。
これはシリル様のせいだ。
「なんでもないです。ちょっと緊張しちゃっただけ」
「そう? なにあったら言いなさいね」
「そうだぞ、クラリス」
「はい。お母様、お父様」
私が姿勢を正したところで、大広間の扉が開かれた。