キスをしないと出られない部屋
そして夜中、なんとなく目が覚めたら、見知らぬ場所にいた。
それも、床に寝ていた。
私はゆっくりと上体を起こして、周囲の状況を確認する。
シンプルな寝台とサイドテーブル。その上に水差しとコップ。それしかない部屋だった。
「まさか、攫われたりしてないよね。一応子爵家だけど、誘拐されるような家じゃないと思うんだけど」
この王都で貴族令嬢を攫うなら、もっと高位貴族か目立つ美人を狙うだろう。
というか、婚約破棄が決まった日の夜に誘拐されるなんて、どれだけ運が悪いのか。流石にそこまでではないと信じたい。
ならばとても現実的な夢だろうか。
「服は夜着のまま……ということは、私が記憶喪失になっているというわけでも──……って」
きょろきょろと室内を見渡して、目立つ扉の上に掲げられた看板に目が止まる。
「『キスをしないと出られない部屋(口限定)』って。こ、これ、精霊のいたずら!?」
思わず困惑の声を上げて、天を仰いだ。
精霊が身近なこの国では、『精霊のいたずら』と呼ばれる非科学的な現象も珍しいことではない。条件付きの部屋に閉じ込められたり、誰かと身体が離れなくなったり、突然誰かの上にだけ雨が降り出したり。
そういう不思議な話は、私も聞いたことがあった。まさか自分の身に降りかかるとはこれっぽっちも思っていなかったけれど。
それにしても、婚約破棄された途端に誰かとキスをしろというのはどんな嫌がらせだ。
「えっと……とにかく、考えないと。相手がどこかにいるはずよね」
しかし周囲を見渡しても、私以外に動いている人物なんていない。確認していないのは、寝台くらいだ。というよりも、なんとなく怖くて確認できずにいた。
既婚者だったり、生理的に無理な相手だったらどうしよう。
それでも相手を確認しなければ始まらない。
私は物音を立てないように近付いた。
そして、寝台をひょいと覗いて──今度こそ目を見開いて固まった。
「──……シリル・ヴァイカート様?」
そこで安らかな寝顔を晒していたのは、貴族令嬢達に大人気の高嶺の花、聖騎士シリル・ヴァイカート様だった。
艶やかな銀髪は私の髪よりもさらさらで、無防備な顔でさえも美しく整っている。いつもかけている眼鏡は眠っているためか外しているが、目を開くと、空のように綺麗な群青色の瞳がそこにあることは皆が知っていることだ。
ヴァイカート公爵家の次男で、本人は親が持つ多くの爵位の中から子爵を選んで名乗っている。しかしその功績と精霊との相性の良さからくる能力の高さから、近いうちに伯爵になり、ゆくゆくは侯爵くらいまでは出世するだろうと言われていた。
これで性格が悪ければまだ良かったのだが、超が付くほどの善人なのだ。
つまり、容姿端麗かつ将来有望、性格にも問題がない、あまりに全てが揃いすぎている男性だ。
お兄様の同僚ということ以外に接点は無いが、密かに憧れていた人物だった。
「え、私……シリル様とキスするの? 口と口で?」
咄嗟に自分の口を両手で隠してしまったのは、あの薄く綺麗な唇に自分のそれが触れる妄想をしてしまったからだ。
顔は赤いし、心臓の音も煩い。
確かに私は、既婚者も、生理的に無理な相手も嫌だった。ただでさえ傷心中なのだから、抵抗なくキスできる相手が良かった。
だからといって、ここまで極上の男性を連れてきてほしいとも思っていなかったのに。
こんなことが知られたら、貴族令嬢達から更に疎まれ苛められるに違いない。令息達からシリル様と関係を持ったと誤解されてしまえば、縁談も更に遠ざかってしまうだろう。
その場にへたり込んでしばらく動けずにいた私は、規則的な寝息の音に助けられ、少しずつ正気を取り戻してきた。
「つまり……シリル様にも気付かれずに、さっさと扉を開けてしまえばいいのよ」
キスをすれば扉は開く。
これが『精霊のいたずら』ならば、扉を出ればそれぞれが元いた場所に戻るはずだ。
こっそり憧れていたからといって、どうこうなりたいなんて思ってもいなかった。遠くから見るくらいで充分だ。ならば──
「起きる前に済ませた方が都合が良いわ」
雑念を払ってしまえば、することは決まっている。
さっさとキスして、シリル様が起きる前に帰ってしまおう。熟睡しているみたいだし、一瞬ならばきっと目覚めることもない。
これは事故だ。初めてのキスだが、こんなもの数に入れることもない。
私は思いきって、寝台によじ登った。
ぎいと鳴った音にどきりとする。
それでもどうにかすぐ側までにじり寄り、綺麗な顔の両脇に手をつく。
これで、あとは腕を曲げて唇を合わせるだけだ。
息を潜めて、間違えないように。
「──……ん?」
睫毛の震えが、私に作戦の失敗を教える。
あと少しというところで、至近距離にいたシリル様の綺麗な目と目が合った。
本日はあと1話、今夜8時に予約投稿をしております。
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