そのためだけに
しかしそんな私の気持ちなんてお構いなしに、その日の夜にまた来客があった。きっとヴァイカート公爵家の使用人が昼に出した手紙の返事を持ってきたのだろうと思った私は、適当に髪を整えて自室を出る。
さて、シリル様はどんな返事を用意したのだろう。
後ろ向きな内容に失望した?
信じてもらえないと困っている?
精霊のいたずらでキスをすることになった私への罪滅ぼしという線も捨てきれない。
──それとも、本当に心から私が良いって、思ってくれている?
「──変な期待をするのは止めておいた方がいいの」
お父様に呼ばれた私は、応接間に向かいながら独りごちる。階段を下りて、廊下を歩き、目的地の扉を軽く叩いた。
内側から使用人の手によって扉が開かれ、私はそこで一礼する。
「お待たせいたしました。クラリスでございます」
定型文の挨拶をして顔を上げた私は、そこにいた人物を見て目を疑った。
「クラリス嬢。夜分に失礼している」
艶やかな銀髪に、群青の瞳。
整った顔と、鍛えられた身体。
昨日も一昨日も見たその姿を、そう簡単に忘れることなどできる筈がない。
「──シ、シリル様!?」
そこにいたのは、シリル・ヴァイカート本人だった。
仕事が終わってすぐにやってきたのか、騎士服姿のままだ。
椅子から立ち上がったシリル様はまっすぐ私の元に歩いてきて、適切な距離を取って立ち止まる。
「手紙の返事を届けに来た。仕事も終わったから、私が直接来た方が早いと思って」
まっすぐに差し出された手にあるのは、昼に届けられたものと同じ封筒だ。仕事を終えて、手紙を書いて、ここまで届けに来てくれたらしい。
ラブレー子爵家は王都の貴族街の中でも王城と商業区のちょうど間にある。ヴァイカート公爵邸は王城に近い場所にあるとはいえ、方向は正反対だ。
「そのためだけに……!?」
「だけ、とはなんだ」
「だって──」
手紙なんて使用人に頼めば良い。
仕事が終わって疲れているのだから、ここまで来ることはない。
私の口から飛び出すはずだった言葉は、シリル様の照れくさそうな笑顔によって遮られた。
「そうだ。あと一つ」
シリル様が一歩、私に近付いた。
微かに香る汗の匂いに、どきりと鼓動が大きく鳴る。
シリル様が頬を染めて、私を見下ろしている。
「クラリス嬢の顔が見たかった」
「なっ!?」
私は真っ赤に染まる顔を隠す余裕もないままに、シリル様を見上げることしかできなかった。
恥ずかしくて僅かに潤んでいく私の瞳に驚いたのか、シリル様がふいと横を向く。
「だから、クラリス嬢が気にするようなことはない」
「そ……そうですか……!!」
そろそろ心臓が壊れてしまいそうだ。
しかしシリル様は更に畳み掛けてくる。
「次の週末は予定はあるか?」
次の週末は三日後だ。
その日は、特に誰とも約束はしていない。
「ないです、けど……」
「それなら、私と外出してくれ。共に街でも歩こう。私達はまだお互いのことをよく知らない。このまま答えを出されるのは、私も悲しい」
シリル様の視線が、また私に向けられた。
これはデートの誘いだ。その言葉選びは確実に私の罪悪感を刺激した。狙ってやっているのならたちが悪い。
向き合いたいとは思っていたが、完全にシリル様のペースに乗せられている。
しかし断る理由も余裕もなく、私はこくこくと何度も頷いた。
「わ、分かりました」
「ありがとう、クラリス嬢」
まっすぐに行って口角を上げたシリル様は、その場でくるりと振り返って、座ったままのお父様に頭を下げた。
「──ということで、お嬢様をお借りさせていただきます」
「こっ、こちらこそ、娘をよろしくお願いいたします!」
「お父様!!」
これでは、まるで嫁にでも出すのではないかという挨拶だ。
「ん? ヴァイカート子爵は誠実で良い男だよ。彼にならクラリスも任せられる」
「お父様……!?」
昼間とは別人かというほど意見が翻されている。
私はそのあまりの変わりように衝撃を受け、息を呑んだ。一体私がここに来るまでの間に、シリル様はお父様に何を吹き込んだのだろう。
突然訪れたこれまでの人生に無い種類の出来事に困惑していると、シリル様ははっきりと笑った。
「そういうわけで、クラリス嬢。三日後を楽しみにしている。子爵、お邪魔しました」
私にそれ以上の問いを許さず、シリル様は使用人に案内させて応接間を出て行った。唖然としているうちに、玄関の扉が閉まって馬が駆けていく音がする。
そうか、シリル様は馬車ではなく馬で来たのか。
少しでも早く、ここにやってくるために。
残された私は手の中の手紙をぎゅっと胸に抱えて、そんなことを考えた。






