000.プロローグ
囁き声がしたので、彼は重い瞳を開けた。
彼は目覚めた。最初は遠くに、それから声は大きくなってきた。大勢の言葉がわめき合っていた。その言葉は聞き取れなかった。彼は大きく空気を吐き、呼吸を整えた。吐く息に生気は感じられない。
騎士の亡霊がスーと先を横切った。亡霊であっても騎士なので鎧を着ているのが、同時に得体の知れない不気味さを覚えた。
彼は記憶を思い出そうと懸命に努力をした。しかし廃墟のようなこの城壁には良き思い出などまるで存在していない。それは自分が何者か分からないことでもある。彼は霊的な何かに吸い寄せられるみたいに亡霊に付いていくことにした。
「ここから先は闇の世界に通じている」
頭に木霊するのは亡霊の声だ。それと同時に城壁に蜘蛛の糸が絡まっていた。蜘蛛の糸が体に当たる度に肉体が「希望」という2文字を求めた。しかし寂しげな城壁に古き良き面影は残っていない。 城壁に影が付き纏い、城壁を歩く度に恐ろしい何かが待ち受けていた。
「お前はこの城で無残にも敗れたのだ」
頭に木霊する声が亡霊のあとを付いて行く度に聞えた。亡霊はおびき寄せるように案内するように彼の前を通る。前を歩いた先に剣が捨てられていた。その剣はどこか異国の言葉が刻まれていた。あるいは英雄が装備していた切れ味の良い上等な剣なのかもしれない。
そして思いが深まった。
「―お前の名前はロジャー・フレイ―」
俺の名前はロジャー・フレイ。少しづつ思い出した。最後の戦いで命を落とした剣士だ。しかし名前を聞く度に身も心も傷つけられた。確か仲間たちはこの城壁で敗れ、唯一生き残った俺もここで死んだ。両手に握った剣を見る度に申し訳ない気持ちに襲われた。
「あの方が待っておられる」
「さあ、扉を開けろ」
そう言うと亡霊がどこかへと消え去った。
鉄の扉が直ぐ目の前に立ち塞がっていた。俺は扉を開けた。瀟洒な中世風の椅子に黒いローブを着たハンサムな男が座っていた。その両脇には巨大な体格をした2体の悪魔が立っていた。牛の尾にねじれた二本の角、顎には髭を蓄えていて、こっちを睨んでいた。椅子に座っている男が支配者に違いない。彼にはとてつもない威圧感と超人的な魔力が感じられた。
「お前は戦いに敗れたのだ。ここにおられるノスフェアリス様に永遠の誓いを立てろ」
2体の悪魔がほぼ同時に恐ろしい声を出した。
「早くこっちにこい。どうやらお前には素質がある。私の忠実なる部下として雇ってやってもいい」
ノスフェアリスはあたかも洗脳する暗示のような言葉で俺の魂に直接訴えかけた。
俺は何も言えなかった。拒否する言葉すらでなかった。精神と肉体はほぼ同時に洗脳された。そして自然と彼らに従わざるを得ない。まるで人生の岐路に立たされたみたいだ。
「この世界では1度敗れた者に2度目は訪れない。約束通りお前の魂をいただくことにする。お前の悪の感情が溜まった魂だ。お前は異の国の民を支配するのだ。そしてこれから異の国の暗黒の騎士となれ!」
ノスフェアリスは手招きすると微かに残っていた善の魂を吸い寄せた。この世界で1度でも敗れた者は悪に染まるしかない。俺の全ての感情が徐々に悪に染まっていった。
異様な雄叫びとともに姿形が歪に変わった。魂は水晶玉に吸い込まれ俺は完全に気を失った。