表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

一度だけ、もう一度だけ

作者: ジャスミンティーは黄金色

 ずっと、ずぅーっと昔の話だ。


 当時の都は未曾有の好景気。西に南に行商人がひっきりなし。だから貸金をしていた我が家も、それはもう大忙しだった。

 だから子どもに構う暇なんてない。跡継ぎたる息子なら隣で勉強させたりなんかもするけど、算盤(そろばん)も書道も大嫌いなお転婆娘と遊んでやる義理なんてなかった。

 まぁ、寂しかったわけじゃない。都の商売通りで親の手伝いをする友達を冷やかしたりだとか、売れない水盆占術師をからかったりとか、遊べるところはいっぱいあった(だから、放っておかれたわけなんだけれど)。

 それで、彼と出会ったのもそんな感じでちょこまかしていた時だった。


『誰かいるの?』


 裏路地の、ちょっと四角く区切られた間隙だった。大通りからそこまで深くは無いけれど、知っている人じゃないと気付かない、だから貝独楽(べいごま)遊びなんかには絶好な、そんな場所だった。

 その日は特にそこへ寄るつもりじゃなかったのだけれど、通りがかったらふと、誰かの泣き声がしたのだ。

 なんとなしに、そちらを見に行く。誰かが怪我していたら大変! とかそんな殊勝な理由じゃない。気になったから覗く。ただの好奇心。我ながら呆れた糞餓鬼だと思うけど、その時のわたしはどう言い繕っても興味本位だった。

 見つけたのは、一人の男の子だった。


 髪は黒くてツンツンしてて、俯いているから二つある旋毛が薄ら見えた。着ている物は黄色い砂の模様で、腰紐の先には綺麗な数珠がついていた。

 その子はわたしに気付いた時、泣きべそかきながら膝からおそるおそる顔を上げたっけ。その涙をいっぱいに浮かべた淡紅の瞳が柘榴石(ガーネット)みたいで、思わずきょとんと見惚れてしまった。


 まぁ、突然現われた子が何も言わなかったら、例え泣いていても気にならずにはいられないわけで。


『ひっぐ、誰ぇ……?』


 なんて、しゃっくりを上げながら聞いてきたのさ。

 わたしは、そこでハッと我に返って。


『わたしは、藍曜(らんよう)!』


 聞いてもいない名前を名乗って自己紹介。ホント、自分のことながら天然にも程があるよね。


『あなたは?』

『ぇぐ……ボクは……』


 でもそれで言い淀んじゃって。そんで当時のわたしはちょっとの間も待てない短気さんだったから捲し立てたのさ。


『ねぇねぇ。ここで何してたの?』

『ひぐ……今日、お父さまもお母さまもいなかったから……』

『んー?』

『……寂しくて、ずっと行ってみたかった街にいってみたくて……』

『帰れなくなっちゃった?』


 男の子はこくんと頷いて。幼い頃のわたしはそれで何もかも充分だったから。


『じゃあ、探してあげる!』


 だから、そんな風に男の子の手を取った。


 そこからは大はしゃぎ。

 子どもも大人も、誰かを助けてるって思った時は気分(てんしょん)が上がって仕方がない。

 都中をあっちへ行ったりこっちへ行ったり。馴染みの店に顔出しては肉団子をねだって、見世物小屋に象が来てると聞いてはすっ飛んでって。水を撒いた軒先をパタパタ走り回っては二人揃ってどろんこになったりもした。手を引かれて連れ回される男の子はいい迷惑さ。

 ま、その男の子が親の特徴も家の場所も言わないもんだから、あっちもあっちで悪いんだけどね。


 そんなこんなで、結局日が暮れた頃。

 にわかに衛兵さんらが慌ただしくなってね。

 わたしが不思議に思って首を傾げていると、その男の子が急に言い出したのさ。


『ボク……家の場所、思い出せたから、帰るよ』


 なんて、如何にも急な話。

 でも当時のわたしはホント、お転婆の割に知恵が働かなくて。それを聞いては。


『そっか、よかった!』


 ってすっかり信じちゃって。

 だから、笑顔で両手を握ってブンブン振りながらお別れしたのさ。


『今日すっごい楽しかったね! 象ってあんなに大っきいんだね! すごかった!』

『うん……ボクも。たぶん、人生で一番楽しかった』

『もー、大袈裟なんだから!』


 いや動けりゃ楽しいわたしにとって人生一番の日は毎日更新されるものだったから。


『じゃあじゃあ、またいつか遊ぼうよ!』

『え……でも、また会えるかわかんない……』

『そうなの?』

『うん……』


 それで、男の子が悲しそうな顔になって。

 折角楽しかったんだから、曇らせたくなくて、わたしは。


『えへ、ぎゅーっ!』

『へ、わぷっ』


 お母さまの見よう見まねで抱きついたんだ。男の子にむぎゅっと、痛いくらいに。まぁ多分、実際痛かっただろう。


『えへへ。元気出た?』

『……うん』


 パッと離れた時には、男の子は顔を赤くしていた。

 いや、しょうがないじゃん。小さかったんだから、異性だのなんだの知らないよ。

 照れてるなんて思わなかったし、顔が赤いのも気にならなかったから。


『また会おう!』


 なんて、自分の言いたいことばっか言って。


『え、でも……会えるか……』

『わかんないなら、会えるかもわかんないじゃん!』

『それは……そうかも……でも』

『だったら、約束しよう?』


 もう一度握った手には、乾いた泥が二人揃ってくっついていた。


『約束は、絶対だからさ!』

『……でもお母さまが、約束は守れる物じゃないと駄目だって』

『だからだよ!』


 男の子は戸惑っていた。わたしは多分、笑っていた。


『だから守ろうって、がんばれるでしょ? だからまた会えるって、思えるでしょ?』

『……!』


 黄昏時の、夕日が射し込んで。

 見開かれた男の子の瞳は、真っ赤に煌めいていた。


『……うん。分かった、約束しよう。絶対、また会うって』

『うん! 約束!』


 何が嬉しいのか、わたしは弾んだ声で頷いて。男の子も笑顔になってくれたから。

 泥だらけの手に淡い誓いを立てた。






 そんな、八歳の頃の話。

 それを、十年間忘れていたのは悪いけど――






「酷いな、藍曜。約束は守らないと、だろ?」

「確かに酷いけどっ! 酷いのはわたしだけどー!」


 だからって、借金の形で身を攫いますか!?

 しかもイケメンになって! イケメンになって!!






 ◇ ◇ ◇






 十年前のあの日以来、わたしの家は急速に落ちぶれていった。

 その原因はお父さまの不正発覚。まぁ大したことじゃなかったから縛り首は勘弁されたけど、罰金に好景気の終了が重なったからさぁ大変。

 貸金は金の切れ目が稼業の切れ目。都の地代も払えなくなったわたしたちは一家揃って辺境の地へ――。


 それから一度も、都に寄りつくことすら出来ず。


「だから仕方なかったんだよー! 許してってばー!」

「いーや許さないね。俺がどんだけ必死になって都中を駆けずり回ったか」


 今わたしは、馬車に揺られている。

 しかも、両腕を縛られて。


 きっかけはまたも父の悪事だった。辺境で再起を狙った父は、またも不正に手を出しお縄についた。そんでまたまた家財没収で済んだのはよかったのだけど、よくなかったのは借金が残っていたこと。

 しかも借りた先がすーっと上っていくとお国に通じるってんだから、みんな仰天した。

 貸金が借金で身の破滅って、他人事だったら拍手喝采の笑い話なんだけど。


「ふやーん! それで昔一日会っただけの知り合いが借金チャラの代わりに身柄を寄越せって、あんまりじゃーん!」

「うるせぇ! 忘れてたこと反省してんのか!」

「してるしてる超してるから揺らさないでってばー!」


 両手を縛った縄、その向こう側は此奴の手の中だ。それを上下にぐわんぐわんと引っ張られ、わたしも釣られてぺったんぺったん。


「はぁ……ふぅ……でもホント、十年前に一度会っただけなのによく覚えてたね」


 そんなじゃれあいが一旦落ち着いて、息を整えたわたしは改めて十年経った彼の姿を見た。

 髪は硬質で、見覚えがある。でも顔の輪郭は前よりハッキリとしていて、特にすっと通った鼻梁は西洋彫刻めいて華やかだ。一番印象に残っている淡紅の瞳は前よりずっと強い意志を秘めていて、目が合うと少し違う形で吸い込まれそうだった。

 すっかり様変わりしていた彼は苦々しげにこっちを覗き込んで。


「その栗毛も、名前もよーく覚えていたからな。お前と違って」

「あ、でもわたし名前は聞いてないよ。教えてくんなかったから」

「え、マジで」


 罰が悪そうに顔を歪める彼。一点攻勢の気配を感じ取ったわたしは意地の悪い笑みを浮かべ、縛られてない脚で彼をからかうように突っつく。狭い幌馬車の中、二人きりで地べたに座ってるから可能な芸当だ。

 わたしの足先を鬱陶しそうに払って、


「……張炎(ちょうえん)だ」


 顔逸らした彼は、ようやくそう名乗った。


「ふぅん、張炎ね。かっこいい名前なんだから素直に名乗ればいいのに」

「……お前どんだけ田舎にいたんだよ」

「へ?」

「ま、いい。で、忘れていた意外に感想は無いわけ?」


 そう言って胡座をかいて頬杖する張炎を改めて見つめる……うん、まぁ。


「かっこよくなったよね。ていうか、昔と性格違くない?」

「色々あったからな。十年も経てば波に揉まれて尖る。……そういうお前は、昔と変わらないな」


 それは、自覚ある。

 一族が落ちぶれている中でもお転婆と言われたわたしの性格は変わることがなかった。と、いうより悲観的になったり卑屈になったりする男共の尻を蹴っ飛ばすのに忙しくて変える暇が無かったというべきか。


「嫋やかになってなくて幻滅した?」

「……いいや? むしろよかったと思うよ」

「そう?」

「ああ。おかげで巻き込んでもへこたれなさそうで助かる」


 は? 巻き込む?

 何のことだと聞く前に、馬車が停まった。


「殿下。つきました」


 御者が慇懃に声を掛けてくる。え、殿下だって?


「そうか、ご苦労。じゃあ縄解いてやるから、逃げるなよ、藍曜」


 張炎は言った通りわたしの縄を解き、その代わり手を繋いで馬車を降ろしてくれる。降りたその先には、懐かしい都の空気が流れていた。

 だが、景色は同じじゃない。

 綺麗に整った庭園。ゴミ一つ落ちてない石畳。朱塗りの柱と漆喰の高い塀は優美さすら兼ね備えている。

 ここは多分……お城だ。都の中心にある、民草は簡単には入れないあの。


「えっと、これって……?」

「あー、つまりだな」

「待って、あれでしょ? ここのホラ、宮仕えの文官とか……あ、待って、武官の可能性もあるのか! 鍛えてそうだもんね! 近衛とか、そんな偉い感じだから城の中に入れたりとかそんなんななんなん」

「目を逸らすな。現実を受け入れろ」


 だって城から出てきた人が頭を下げてるし衛兵さんは敬礼してるしよく見れば張炎の着ている服高そうだししし。


「見ての通り、俺は王子だ。一応な」

「じゃあなんでわたしなんかを攫ったのさ!」


 えー! と驚きつつ、当然の疑問を発す。

 王子さまが、なんで辺境のやらかし一族の娘を借金の形で連れてきたの!? ってなるのは当たり前だろう。

 そう、もうこれ以上の驚きは無いだろうと言うぐらい驚きつつ。


「決まってる。嫁に迎える為だ」

「  」


 あっさりとそれ以上を出されて、わたしは魂消た。







「ハッ!」


 我に返ったのは、如何にも貴人の私室といった場所だった。高そうな家具や難しそうな巻物が所狭しとあって、なおかつ充分に広い。天蓋付きの寝所っぽい場所も向こうに見える。窓の外にある景色から、まだ城の中だと推測出来てしまう。

 そしてここへ連れてきた張本人の張炎はわたしを円机(てーぶる)につかせ、その反対側で優雅にお茶を飲んでいた。


「お、意識が戻ったか」

「いやまだ戻ってないね。一度会っただけの男の子が実は王子さまでしかも借金の身代わりに嫁にするなんて、白昼夢を見ているに違いない」

「現実だ。残念ながらな」


 張炎は茶菓子らしき点心をつまみつつスッパリと切って捨てた。それがおいしそうだったので思わず「ちょーだい」とねだって、「ん」と手渡ししてもらって、焼き目が香ばしくて良きって。


「って! ホントにホントなの!? 王子さまって!!」

「なんか調子(ぺーす)が独特だよな。藍曜は」


 さながら面白い生態の生き物を見るかのような半目でわたしを眺めつつ、張炎は頷いた。


「そうだよ。まぁ第六王子だから、位は全然低いけど」


 そう言いつつ、張炎は窓の外へ視線を滑らせた。瞳の色がつまらなそうに消沈する。


「でもそんな俺でも貴族共は利用価値があると思ってるらしくてな。担ぎ上げようと必死こいてる輩が多くて多くて」


 心底うんざりしているといった風に溜息を吐いて。


「特に結婚に関して五月蠅くてな。やれ有力貴族とくっつけだの、隣国の縁談だの……ひっきりなしに言われるんだ。そんでもう勘弁してくれって思ったから、結婚することにした」

「えええええ」


 そんな感じで!? 人生の一大事じゃないの!? いや王子の話なんだから、国の一大事だよ!?


「だ、大丈夫なのそれ? なんかどっかに怒られたりしない?」

「別に。末端王子の結婚なんて親父も気にしないしな」


 その瞳が一瞬だけ、寂しそうに陰る。だがすぐに持ち直して、わたしのことを悪戯げに見つめた。


「そしてそんなおり、遂に探していた女の子が見つかったって知らせがもたらされるじゃないか」

「わたし? わたしか。そりゃそうか」

「そうだよ。これぞ神の思し召しって思ってな。じゃあ結婚しようかと」

「なるかぁ? そう、なるかぁ?」


 折れる寸前まで首を傾げる。ならないと思う。普通は。というか普通は一度会っただけの女の子なんて血眼になって探さないよ。

 んー、だけど。


「張炎は、それでいいの?」


 わたしは張炎のことが気に掛かった。


「……何がだ?」

「だって、それじゃ張炎が好きな人と結婚できないじゃない」


 ピシ……と張炎が固まった気がする。でも気がする程度だったので、わたしはそのまま自分の言葉を続けた。


「わたしは……まぁ、これこの通りだし? 結婚の話なんて食卓にも上がらなかったし、こんなわたしを好きになる人なんていなかったし……別に、わたしはいいよ」


 悲観的になる一族の輩たちを元気づけるのにちょっとやり過ぎたわたしは、辺境では名が知られたお転婆娘になってしまった。みんな貞淑で従順な嫁が欲しいのに、そんなのを嫁に取るようなことなんてしない。だからわたしはどこにも嫁に行けずに売れ残るだろうと、他ならぬわたしでさえ思っていた。

 それにわたしは一応、借金の肩代わりに売られた身だ。ならこの身柄がどうされようと文句は言えない。むしろ予想の数百倍上をいく好待遇に面食らっているのだから、誰かの家庭に入る程度……まぁ、それが王族相手なのはちょっと気後れするけど。

 だからわたしは、結婚に否はない。でも、


「張炎が幸せになれないのは、嫌だなぁ」


 昔の、あの時のことを思い出す。

 泣いていた張炎。手を引かれて戸惑っていた張炎。夕日に照らされて、眩いばかりの笑顔を浮かべていた張炎。

 彼の笑顔は、とても素敵だった。見惚れるほどだった。だからそれが、曇るところは見たくない。


「だから張炎には好きな人に結婚して欲しいよ。その為なら、わたしなんだって手伝う……」

「……はぁ」


 だからわたしは協力を願い出たのだけれど、当の本人は呆れたように溜息をついていた。


「え、張炎?」

「あの頃のまんまなことは嬉しかったけどさ、女心や男心を察するところもまんまなんだな」


 そう言いながら張炎は椅子から立ち上がり、わたしの傍に近寄ってくる。わたしが座っていることもあるけれど、間近の張炎は見上げる程に大きかった。

 身を屈め、張炎はわたしと視線を合わせる。息づかいが伝わる程、顔の距離が近づく。

 伸ばされた張炎の手が、わたしの栗毛にそっと触れた。


「張、炎?」

「あのさ……」


 端正な唇が、低い声音を紡ぐ。

 その声がどうも、蛇のように背筋を這い寄っているみたいに感じて。


「――好きでもない相手に、こんなことしないだろ」


 もう逃がさないという執着が、赤い瞳の中に燃えているようで。

 それを見たわたしの鼓動は、勝手に高鳴った。


「それ、って」

「探し求めたのも、嫁に迎えるって言ったのも、全部、藍曜……お前が欲しいからだ」


 直球で言われて、かっと顔が熱を持つ。それにお構いなしに、張炎の硬い手がわたしの頬を撫でる。


「正直、他の貴族連中でさえも口実だ。そういう筋書きだったら、権力闘争を嫌った王子が市井の娘と結婚しても不思議じゃないだろう」

「あ、あっさり言うね……」

「お前相手に嘘はつきたくない。……本当のことを話さずに、ずっと後悔していたからな」


 それで、気付く。どうしてわたしは再会するまで彼の名前を知らなかったのか。彼があの時、何故言い淀んだのか。

 王族だって、知られたくなかったんだ。


「本当は、それを言うだけで良かったんだ。もう一度会えただけで、後はもう魑魅魍魎の蔓延る宮廷で息苦しく生きていくのでもいいと……でもさ」


 ついに、顔の距離が……無くなる。

 額と額が、コン、と触れ合う。


「口実を思いついてしまえば……欲が出て、抑えられなかった」

「え、いや、でもあのさ!」

「ん?」


 上目遣いで互いに目を合わせながら、わたしは問う。


「そもそも、どうしてわたしが……その」


 言葉が詰まってしまう。だって、そんなこと生涯で言われると思わなかったから。予想もしていなかったから。


「その、好きに、なったの?」


 誰かに好かれるなんて、想像もしなかった。

 だって正直、家族にだって疎まれていた。だからこうして、すんなり送り出された訳だし。不正だってわたしが厳しく見張ってなきゃ、もっと早くやっていたろうし。

 こんなじゃじゃ馬、誰も欲しくなんてならないって、もう諦めてたから。


「……お前が」


 淡紅の瞳が煌めく。大切な宝物を思い出すかのように、閃いて。


「お前が、こうしたからだ」


 そう、言って。

 わたしのことを、抱きしめる。


 ぎゅっと、痛いくらいだった。彼の逞しい両腕にはわたしを抱き潰せるだけの力が籠もっていて、それを本当に潰してしまわないよう加減して、それでもなお想いが溢れて止まらないことが、伝わってくる抱擁。


「あ……」


 思い出す、別れ際のことを。

 理解する、だから、誓いが絶対となったことを。

 熱いくらいの体温が。お香のような匂いが。伝播するわたしとは違う、でも早鐘を打っている鼓動が。何よりも雄弁に彼の気持ちを教えてくれる。


「……張、炎」

「好きだ、藍曜。俺はあの瞬間が、人生で一番幸せだった。父には忘れられ、母には政争の道具として育てられた……俺が唯一、本当の愛を教えてもらった一瞬。その時からずっと、俺はお前だけが好きだ」


 魂の熱を持って紡がれる言葉。

 それで、わたしも……わたしの気持ちに、気付いた。


「わたし、も」


 彼が先に教えてくれたから。

 わたしも、返す。


 どうして、あの時のことを忘れていたのか。

 忘れたかったんだ。だって都を離れてもう会えないって分かっているのに、憶えていたら……辛くなる、から。

 淡紅の瞳に、吸い込まれたあの瞬間。

 わたしもきっと、あの時から彼のことが。


「わたしも、好きだよ。……好きです、張炎。あなたのことが」


 わたしは、きっと。

 一番最初の抱擁で、とっくに返事をしていたんだ。


 一瞬だけ、二人の距離が離れる。

 でも瞬きの間には、また零になった。


 初めてのそれは、息苦しくて、温くて。

 でも、心が満たされて……嫌いじゃ、無かった。


「――ぷはっ」


 離れていく唇。潤んだ紅い瞳。名残惜しげな表情。

 あぁ、もう。しょうがないなぁ。


「もう、一度だけ」


 わたしはどうやら。

 幸せになれるらしい。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ