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草原の幻術師

作者: ガブリエル

1.


よく訓練された兵士たちは、夜の暗闇の中でも整然と指示通りに準備を整えた。


人里離れた山奥にある二階建ての小さな屋敷を取り囲み、配置を終えたところで松明と火矢に火を点ける。


炎のゆらめきに照らされながら、寝静まっているかに見える屋敷の中に向かって、指揮官らしき男が大声で呼びかけた。


「幻術師、テセラ・フリージャ!いるのはわかっている。姿を見せよ!」


兵士たちの間に緊張が走る。


屋敷の二階の窓が開き、一人の少女が姿を現した。


濃い紫色の装束に身を包み、肩まで伸びた黒髪もまた紫がかって見える。背格好は十代後半の少女としては平均的であり、端正ではあるがまだ幼い可愛らしさも残るその顔を見て、兵士たちは恐怖に足をすくませた。彼女のここまでの戦歴は、彼らの脳にしっかりと刻まれている。


幻術師テセラは、屋敷を取り囲む兵士たちを見下ろして不敵にほほ笑んだ。


「あら、モルデル王子。美形のプリンス様がこんな夜中に何の御用でしょう。お友だちをたくさん連れてきてくだすったのは嬉しいけど、あいにくお皿もティーカップも5人分しか無くて。お茶のご用意はどうしようかしら」


「ムダ口をたたいてる余裕は無いぞ、幻術師。すぐに大人しく投降せよ。幻術を使うお前も、屋敷に火をつけられれば煙に巻かれて死ぬほかない」


この一隊の指揮官、モルデル王子は断固たる口調で告げた。


兵士たちは弓をきりきりと引き絞り、緊張にじっとりと汗ばみながら、斉射の号令をまつ。弓には火矢をつがえている。


幻術師テセラはため息をついて言葉を返した。


「こんなたかだか十六歳の女の子に、大の男が大勢で・・・百人はいるかしら?私がいったい何をしたとおっしゃるの?なぜあなたは幻術師が憎いの?チャール川を越えて攻め込んで来た五万の大軍を追い返したのは誰だったかしら」


「なればこそだ」


2年前、隣国との国境の川を越えて侵攻してきたアルメダ国の大軍に勝利できたのは、五人の幻術師の活躍によるところが大きい。そのうちの一人がこのテセラだった。


「その力こそが問題なのだ。幻術師は一人残らず捕獲して収容所に入れるか、歯向かうようなら殺す。これが国王陛下のご決断だ」


「ウワァァァ!」


引きつった叫び声が上がった。幻術師を間近に見て、恐怖に耐えかねた一人の兵士が、錯乱状態となってテセラに向けて矢を放った。


「しまった!」


モルデルはその暴発に舌打ちしつつ、こうなれば号令するしかない。


「矢を放て!テセラもろとも屋敷を焼き払え!」


火矢は木造の屋敷の壁に突き立ち、徐々に炎を広げていく。


しかし、テセラに向かって放たれた矢は、ことごとくテセラの体をすり抜けていった。


テセラはクスッと笑った。


「あなたたち、幻術師を殺しに来たんでしょう?なぜ目の前の私の姿が、本物だなんて思えるの?」


「おのれ、すでに術を・・・い、いつ術をかけたというのだ!」


幻影にすぎないテセラの姿は、炎のゆらめきにかき消されていった。


またたくまに炎に包まれた屋敷は、炎上を通り越して大爆発を起こした。モルデル王子をはじめ、兵士たちは轟音と爆風に飲み込まれて気を失った。もちろんこの爆発もテセラが見せた幻覚に過ぎず、かすり傷ひとつ負うことはないが、兵士たちの意識は翌朝まで戻ることはなかった。


2.


幻術師テセラは、兵士たちから奪った馬にまたがり、ひとり山道を進む。


馬上の姿には力が無く、ふらふらと揺らめいては大きなため息をついた。


モルデルたちの前では、不死身の魔女であるかのように悠然と振る舞ったテセラだが、本当は心の余裕など全くない。


数年は身を隠せると思っていた山奥の屋敷が、あっさりと見つけられてしまったことはショックだった。孤独ながらも安心して穏やかに過ごせる日々を手に入れたはずが、屋敷は焼き払われ、また逃亡生活だ。料理人として雇った男が賞金欲しさに密告したらしい。男の裏切りへの怒りよりも、その程度のことも見抜けず男を信頼して雇ってしまった自分の愚かさへの絶望感が重くのしかかる。


家族も仲間もいない彼女には、行くあてなど無い。


強力な幻術の力と、その力を使ってこれまでに稼いだ金はある。それらにものを言わせて、どこかの小さな村でも支配するか、山賊の親玉にでもなるか。


このあたりの地理はよくわからないが、山道はしっかりしている。歩いていればいずれ何か、人に会うなり、集落に行き着くなりするだろう。


そう思って漫然と歩き続けたが、夜が明け、昼になり、西の空が朱色に染まり始めても、人影ひとつ見当たらなかった。


都から遠く離れた辺境の地。テセラはその環境の厳しさも甘く見てしまっていたことを悟る。

それはやり場のないいら立ちと怒りにつながった。


「2年前には救国の英雄だとか王国に舞い降りた天使だとか言われてたわたしが・・・何なのよ!」


幻術師の仲間たちと共に敵国の大軍を退け英雄として祭り上げられた時のままのプライドの高さと、周囲の人々を泣かせてきた向こうっ気の強さが、今は貴重な心の支えとなっている。


山々はなだらかで、急な登り道や岩場などは無い。道を進むこと自体は困難ではなかったが、頭の中の混乱と、深夜に起こされて以来ずっと馬上に揺られている疲労が、全身に蓄積されてきた。


ふと馬を見ると、馬も疲れている様子であることに気づく。水も草も与えず、長く歩かせてしまった。


「ごめんね。もう少しがまんして」


以前から動物には優しい。テセラは馬を降り、くつわをとって、自分の足で歩き始めた。


暗くなっていくにつれ、疲労と不安といら立ちに、恐怖が加わっていく。真っ暗な山奥でどう一夜を過ごせばいいのか。泊る家もなく、都合よく洞穴や木のうろがあるわけでもなく、雨でも降ったらおしまいだ。


「助けて」


テセラは無意識につぶやいていた。


「誰か、助けて。・・・もうヤダ!誰か助けてよ!」


「は、ハイッ!」


「えっ」


驚いて目を見開いた。やけになって叫んだ言葉に返事が返って来た。


見開いた目に、一人の少年の姿が映った。


少年は山道のそばのゆるやかな斜面に立っていたが、すぐにテセラ目がけて駆け下りて来た。


テセラの目の前で立ち止まる。


「ぼ、僕が助けます!」


少年はテセラを正面から見すえてそう宣言した。テセラとの距離は1メートルもない。


幻術を操るテセラが、完全に混乱させられている。何度かまばたきして、ようやく言葉を発した。


「だれ?」


落ち着きを取り戻すのは、少年のほうが早かった。仕切り直しとばかりにニッコリほほ笑む。


「僕は、ウイード。ウイード・エストル。ここから馬で3日くらい行ったところにある、オルミンってところから来たんだ。うちは代々羊や馬をたくさん飼って生活してるんだけど、都の人たちの言葉でいうと、遊牧民っていうのかな?年に2回、牧草地を移動してて、今はオルミンにゲルを構えてる。きみは、都の人?」


ウイードがいろいろなことを一気にしゃべっている間に、テセラも態勢を立て直して、この少年を観察した。素朴で善良な羊飼いの少年、ただそれだけのように見える。遊牧民か。ゲルとは彼らが使う大型のテントのことだ。


「わたしはテセラ。テセラ・フリージャよ。2年前にこの国に攻め込んで来た5万の大軍を、」


「テセラ!テセラっていうのかー!すてきな名前だね、なんか似合ってるよすごく!歳はいくつ?僕は十六!」


「・・・同じよ」


「えっ、うそ!すごい!同い年かー!ね、都の人?」


ちょっとネジが2、3本はずれているのかも知れない。言葉を失うテセラに、ウイードはたたみかけた。


「都から来たんだよね。雰囲気ちがうもん!オーラっていうのかな。顔立ちもすごくきれいだし、服も見たことない生地だし。こんなきれいな人、初めて見た!」


しっかり目を見て言われた。幻術師は顔を赤らめ、かるくパニックになった。


「な、なにを」


怒ってみようとしたが、ぶつける言葉が出て来ない。


「ん?」


ウイードは平然と、首をかしげている。油断できない相手だ、とテセラは思った。


「ま、まあ、そうね、都から来たわ」


落ち着こう。


「すこし前までは、王宮に勤めてたのよ。国王としゃべったこともあるわ。昨日も王子とお話したし」


紫色の髪をさらりとかき分ける。


「王子様とお話!すごい」


ウイードは、白く輝くテーブルをはさんでティーカップを傾ける王子とテセラの姿を想像した。


「ねえ、僕たちのテントに来てよ!すぐ近くなんだ。いま、妹と二人でウスナの街まで行く途中でさ。今日はこの近くで泊まることにしてて。都の話、いろいろ聞かせて欲しいな!妹にも」


テセラは、しめたと思った。今夜の宿が見つかった。


「いいけど、もうこの時間よ?わたしもそのテントで泊まれるんでしょうね。寝る場所とか食事は大丈夫なの?」


「やった!だいじょうぶ、テントは狭いけど、きみ細いし、つめれば寝られるよ。食料も干し肉とかまだいっぱいある」


テセラは、仕方ない付き合うかという意味のため息を聞こえるようにしっかりとついた。


「いいわ。ひと晩泊っていってあげる。案内して。あ、馬のお世話もよろしく。そういうのはプロでしょ」


「もちろん、任せて!馬もきれいな毛並みだなあ。やっぱり都の馬は違うね」


ウイードはテセラから馬の手綱を受け取り、喜んで従者となって、テセラを自分たちのテントに案内した。


テセラは心のなかで、ひとまず安堵のため息をつく。


しばらく行くとふいに視界が開けた。草地が広がり、白いテントが張られている。近くには2頭の馬がつながれていた。


テントの前に一人の少女が腰を下ろし、木の板の上で干し肉を切っている。


ウイードが少女に呼びかけた。


「カナン!お客さんだよ。テセラっていうんだ。王宮で働いてたんだって!」


少女はウイードのあとから現れたテセラを見て、きょとんとしていたが、すぐに笑顔になって立ち上がり、あいさつした。


「ウイードの妹のカナンです。ちょうどいま晩ごはんの支度をしてて。一緒に食べましょ?」


長い黒髪を後ろでくくり、日焼けした肌は活発な印象を受けるが、落ち着いた声と穏やかな眼差しの少女だった。初対面ですぐに一緒に食事というのは、都の人であるテセラには少し唐突過ぎるが、この兄妹にとっては、ごはん時に来たお客なのだから当然、ということらしい。


3.


カナンは、あまりじっと見ていては失礼だと知りながらも、食事の用意をしつつ、お客様であるテセラをちらちらと観察した。


紫がかったつややかな髪は、見たことのない色合いだし、上下のつながった装束も、カナンはそれが幻術師の伝統的な衣服だということをあとで知るが、山と草原に暮らす遊牧民には想像できないデザインだった。


兄のウイードは、焚き木を集めていて偶然彼女と出会ったと語る。


都会の街に数日滞在し、草原の暮らしでは縁のない、新しい芸術や学問に触れてみたい。それが兄の長年の夢だった。カナンは兄の願いをかなえる旅に同行してここまで来たが、その道の途中で、兄がこんな美しく高貴な女性に出会うとは。カナンにとってはこれはもう、部族の神であるパムのお導きとしか思えない。


「この干し肉、意外と美味しいわね。カナン、もう一切れもらえる?」


テセラは、まるで兄妹の雇い主であるかのように振る舞った。しかし憧れの都会人と知り合いになれたウイードとカナンにとっては、むしろ望むところで、それすらも光栄に思えた。


ウイードが集めた焚き木で火を起こし、三人並んで火の前に座って、干し肉をあぶりながら噛みしめる。


テセラは兄妹に都会人の生活について語り、兄妹はテセラに、自分たちの部族ことや、たくさんの羊たちとの暮らしについて語って聞かせた。


やがてテセラは干し肉の最後の一切れを飲み込むと、


「よし!」


と言って立ち上がった。


「ごちそうになったし、泊めてもらうことだし、いいもの見せてあげる」


両手を手首の位置で一度交差させ、すぐにほどいて、右手で素早く空中に文字を描くような動作をする。


「さ、おいで」


テセラが夜の暗闇に向かって声をかけると、ゆらりと、二本の角を持った大きな山羊が姿を現した。

兄妹は目を丸くし、驚きの声を上げた。


「すごい!なんて立派な角!」


「こんな大きな山羊、見たことない」


ウイードとカナンは立ち上がり、神々しいほどの立派な角と体格の山羊に、手を触れようとした。


ポンッ!


と乾いた破裂音がして、山羊は姿を消した。


そのあとに、赤や黄色の紙吹雪が舞う。


「ええっ!」


兄妹は絶句してしまった。


「ウフフ。これが私の特技よ」


テセラは、さっきの山羊はテセラが二人に見せた幻覚であることを説明し、自分が幻術師であることを明かした。


ウイードはまたあらためて感激した。


「すごい!今日はもう何度すごいって言ったかわからないよ!」


「こんなことができるんだったら、食べ物にも困らないし、羊もたくさん飼って裕福になれるんじゃないの?」


カナンは、言い終わって頬を赤らめた。都の人が羊など飼うわけない。


「そうね、使いようによっては、お金を稼ぐこともできる。ただ、これはあくまでも幻を見せているだけで、それを食べたり、何かを実際に動かしたり壊したり、は、できないの。でも、幻だとわかっていても、足元にいきなり穴があいたら、誰だってあわてふためいて尻もちをついてしまう。誰にとっても、それが何であるかより、それがその人にとってどう見えているかのほうが大事で、そうだと思い込んでしまえば、それは幻であっても事実と同じ意味を持つのよ」


兄妹はパム神の神官のお告げを聞くかのように、神妙な面持ちでテセラの解説に聞き入っている。


「でもね、これのせいでわたしは、王宮を去ることになったの。国王が、わたしたち幻術師の力を恐れて、全ての幻術師を、結界が張られた収容所に閉じ込める命令を出したのよ。ほとんどの幻術師は、王国の安定のためって言っておとなしく収容所に入っていったけど、わたしはそんなのイヤ。命令に背いて逃げ回ってるの」


「ひどい!」


ウイードは素朴に怒りを発した。


「ほんと。一人であちこちさ迷って、やっと人里離れた山奥に住み始めたんだけど、そこも見つかっちゃって、焼かれたわ。幻術があれば、追ってくる兵士たちは怖くない。でも、どこまで逃げれば落ち着いて暮らせるのか、わかんない」


カナンがおずおずと尋ねた。


「家族とか、親せきとかは?」


「いないわ。お父さんもお母さんもわたしがまだ赤ちゃんの頃に死んじゃった。死んだ、て聞かされただけだけどね。親せきは、どこかにいるんだろうけど、わからない。ずっと一人ぼっちよ」


ウイードとカナンは、悲痛な面持ちでテセラを見つめた。


「ちょ、待ってよ、そんな目で見ないで」


テセラは笑ってしまった。


「大丈夫、一人でもちゃんと生きて来たから。さっき言ったみたいに、お金も稼げるし、貯金もあるし。親とか兄弟とかいたら、余計めんどくさい。身動き取れなくなるもん。一人が気楽でいいわ」


「よし、わかった、テセラ」


ウイードは意を決した顔で唐突に言った。


「ん?」


「僕たちの村においでよ。僕たちの家族が、きみを守る」


テセラはウイードの大胆な申し出に驚いた。


「だ、だめよ、王宮の兵士たちがわたしのこと探し回ってるのよ?村の人たちに迷惑がかかるわ」


「いやいやいや、テセラは悪くないじゃないか。僕たちは悪者の手助けはしないけど、困っている旅人にはできる限りのことをする。それが草原の民の鉄則なんだ。ひとりぼっちでさ迷うなんてそんなのダメだよ」


「村に兵士たちが来ちゃうんだってば。戦闘が始まるかも知れない」


「じゃあ、何日かだけでも僕たちと一緒にいようよ。その間に食料とか地図とか、丈夫な馬とか用意するからさ!それでまた旅をすればいい。何かさせてよ。一人で行くのはダメ!」


テセラは黙った。頭ごなしに熱弁をふるわれて戸惑いもしたし、いくつもの思考や感情が一度にわいてきて頭の中が混雑している。ただ、これ以上お断りする言葉はどうしても出て来ない。


ウイードはテセラの沈黙を了承と理解した。


「決まり!いいよね、カナン」


カナンはにっこりとうなずいた。しかし、ひとつだけ問いかける。


「兄さん、旅行はどうするの?街に行ってみたいって」


「旅行はここで終わり!オルミンに戻る。街でいろんなものを見てみたかったけど、こんなに美人で素敵な人に出会えたんだから、それで十分だよ。今は、テセラのほうが大事だ」


「え。旅行って?」


戸惑うテセラの手を、カナンが両手で包んだ。


「テセラ、兄さんがそう言うのなら、旅行のことはもういいの。兄もわたしも、あなたに出会えて本当によかったと思うし、困ってるあなたを助けてあげられて嬉しいし、このあともできる限りのことをさせて欲しい」


「カナン、その通りだ。お前は賢いな」


ウイードも興奮して、テセラとカナンの手の上に自分の両手を重ねた。


「今のカナンの言葉は神さま、パムのお言葉に違いない。一緒に帰ろう、テセラ。一族みんなで歓迎するよ」


4.


三人はそこから三日かけてオルミンと呼ばれる、ウイードたちの現在の牧草地に到着した。テセラにとって馬でのこのような長旅は初めてだったが、ウイードとカナンがまるで競うかのようにあれこれと世話をしてくれ、苦しい道のりとはならなかった。


オルミンの草原にはゲルと呼ばれる、大きなテントが間隔をあけて転々と並んでいた。今はまだ十月だが、冬が過ぎ去るまではこの地が遊牧民たちの村になる。


いたるところにもこもこした毛をまとった羊たちがうろついているのが、遠くから見てもわかった。

そこから少し離れたところで、三人は馬を止めた。


「僕の家族と親せきたちで、ちょうど十張りのゲルを立ててるんだ。こういう、いくつかのゲルの集まりがこのオルミンのあちこちにできてるんだよ。来年の春まではね」


村はすぐによそ者を受け入れない。ウイードは、両親や祖父母をはじめ話を通しておくべきさまざまな人たちに事情を説明し理解してもらうため、テセラとカナンをその場に残し、馬を走らせた。残されたテセラとカナンは、ウイードが話をつけるまで、点在するゲルを遠巻きに眺めながら、草の上に腰を下ろして待つ。


「よくわかんないけど、こういう村のしきたりとか、一族のオキテとかって、厳しそうね。やっぱそう簡単に歓迎してくれないかー。わたしなんてよそものだし幻術師だし、ふつうは受け入れてくれないよね」


テセラは弱気を見せた。


「うん、正直、抵抗はすこしあると思う。でも兄さんが言ってくれれば大丈夫。兄さんは特別だから」


カナンは言ってから、失言したことに気づいてハッとした。


「特別?」


テセラは重要なワードが出て来たことに気づいて、じっとカナンの顔を見た。


カナンはうろたえて弁解した。


「ううん、何でもないの。今のはナシにして。お願い」


「あー。うん。そうね、あなたたちの、なんていうか、家庭の事情なんだろうし。大丈夫、忘れる。何も聞いてない」


テセラは両手で耳をふさいでみせた。


ゲルとその周辺を遠くから眺めていると、羊や犬のほかに、当然だが時折人間の姿も見える。走り回る子供たちもいた。ちらちらとこちらを見ているが、カナンがたまに小さく手を振って応えるだけで、テセラはへたに反応せず石のように沈黙している。


見上げると空は高く、遠くどこまでも青かった。陽が出ていれば十月とはいえ昼間はぽかぽかと暖かい。草原の風はサラサラと心地よく、テセラは心が休まるあまり、眠気におそわれてうつらうつらしてしまう。


「オーイ」


しばらくしてウイードの声が聞こえた。嬉しそうな響きがあるところからすると、テセラの滞在は許可されたらしい。テセラはカナンと馬を並べて、遊牧民の村に足を踏み入れた。


5.


テセラはウイードに案内されてゲルのひとつに入り、そこでウイードの父親と対面した。


父は座っていてもはっきりわかるほど身長が高く、少々こわもてだったが、笑顔は和やかだった。


「よく参られた、お客人。ウイードとカナンの友だちになってくれてありがとう。いろいろ、事情も聞いている。しかしここにいる間は、安心してゆっくり休んでくれ」


カナンは、山羊の乳しぼりがあるからということでその場を離れた。ゲルの中で、テセラ、ウイード、父、の三人が三角形をつくるように座る。


父は大きな陶器のコップになみなみとつがれた温かい飲み物を勧めてくれた。


「これは山羊のミルクに、砂糖と茶葉を加えたもので、われら一族の伝統的な飲み物だ。さあどうぞ、飲んでみてくれ」


父はテセラに丁寧に勧めてくれた。ウイードはひと足お先に一口のんで、


「おいっしー!旅から戻ったあとはまた格別においしいや!」


と、歓声をあげた。


そのコメントに期待を高めつつテセラもコップに口をつけ、一口のんだが、


「んー!」ウイードと同様に表情がパッと明るく輝いた。「甘くておいしい!甘みと茶葉の香りが絶妙」


父は微笑し、満足してうなずいた。


しばらくの間、父は遊牧民の生活と歴史について語り、テセラは、都での流行やうわさ話などを語って聞かせた。幻術師としての自分の功績については何となく語るのを避ける。


「さて、ウイード、父さんは祭の準備で出かけねばならん。夕食までの間、テセラをしっかりもてなしてやれ」


父はそう言い残して、馬に乗って出かけて行った。


その後ろ姿を見送りつつ、ウイードは誇らしげに語った。


「父さんは、この村の村長なんだ。強くて賢くて、僕の一番尊敬してる人さ」


テセラは共感をこめてうなずいた。人徳というのか、風格のある人だ。


「ね、あなたのお父さん、お祭りって言ってたよね。楽しいやつ?」


一瞬、ウイードから表情が消えた。


「うーん、楽しくはないかな、正直。こう、けっこう、堅苦しい儀式とかがあって」


「ふーん」


二人はひとまずゲルに戻り美味なる羊ミルク茶をあと三杯ほど飲んだ。


その夜、ウイードたち家族のメインのゲルに家族と親せきたちが集まった。ごく近しい親せきしか呼ばなかったということだが、それでも老若男女、三十人はいる。


ウイードの父が客人をもてなすためにいい肉を手に入れてくれたそうで、彼らにとっては豪華な食事が、ところ狭しと並べられた。


食事が始まる前から、ウイードの一族はもの珍しさからテセラにあれこれと質問を投げかけて来た。


結婚してるの?恋人は?どんな男が好みなの?馬に乗るのは得意?国王に会ったことある?ダンスは好き?歌は?魚ってどんな味?ケンカは強い?逆立ちできる?金貨もってる?骨折したことある?


などなど。


テセラの紫色の髪と、濃い紫の衣装も彼らにとってはとりわけ珍しく、美しい。


テセラは質問責めに少々戸惑ったが、ひとつひとつ真面目に答えた。詮索するようなことはやめて欲しいものの、話題の中心になるのは嬉しいものだ。それは偉大な幻術師としてもてはやされるのとはまた違う。


ふと、並べられた食事に混じって妙なものが置かれていることに気づく。テセラは、それが何かウイードに尋ねた。ウイードは立ち上がってそれを取りに行き、大事に抱えて持ってきた。


それはミイラ化した羊の頭部だった。


「ちょ、ちょっ!」テセラはぎょっとして、立ち上がりかけた。「それなに?」


「羊の頭だよ」


ウイードはミイラ化した羊の顔を優しくなでた。


「それはわかるわよ。なんでここに置いてあるの?」


「ああ。今日のごちそうの中には、この子の肉を使った干し肉も入ってるからね。ありがとう、ていう意味で」


その説明は、テセラの脳では処理できなかった。


「ここに置かなくたって・・・」


「そうはいかないよ。大事なことだよ」


やがてすべての皿を並べ終え、ウイードの父がひと声発すると、ざわめいていた老人や青年や子供たちはスッと静かになりそれぞれの席についた。席といってもゲルの中に料理を中心にして輪になりあぐらをかいて座っているだけだ。もちろん上座の位置にはウイードの父がいる。


「よし、では食べよう。今日の当番は誰だ?」


当番、と言われて一人の10歳ぐらいの少年がおずおずと手を上げた。


「イサンか。よし、こっちへ来い」


イサンと呼ばれた少年は、父の前に歩いて行き、ひざを折ってちょこんと座った。


テセラのとなりに座るウイードがささやく。


「イサンは僕の弟で、七人兄弟の六番目。これ、食事の前の儀式なんだ。びっくりしないでね」


父は短剣を手に取り、スラリと抜いた。その切っ先をそっとイサンの額にあてる。イサンはギュッと固く目を閉じる。


テセラは息を飲んだ。


父は、トン、と、ごく軽く短剣の先でイサンの額を突いた。


イサンの額から、ほんの少しだけ血が流れた。


それを合図として、父は、何やらテセラにはわからない言葉で、呪文のようなものを唱えた。


すると一族の者たちも一斉に声を合わせて、呪文のような言葉を唱えた。


テセラは、その響きの異様さに、ゾッとして固まってしまった。


それが終わると、イサンは額を手で押さえながらそそくさと元の位置に戻って座り、額の小さな傷を母親に見せた。母は優しい笑顔でイサンに何か語りかけた。泣かなかったことをほめているのか。


父がさらにひと声放つと、それが食事開始の合図らしく、全員一斉に、肉や野菜の皿に手を伸ばした。


父がテセラとウイードの二人を見た。


「ウイード、テセラさんに今の儀式の意味を教えてあげなさい」


「はい。テセラ、今のはね」


「え、ええ」


「僕たちは生きものを殺して食べるだろ。羊とか鴨とかさ。野菜なんかの植物も生きものだしね。その時生きものたちは、ナイフで切られたり地面から引き抜かれて痛い苦しい思いをする。そのことを僕らは忘れちゃいけないんだ」


ウイードは真剣な眼差しで語る。こうして見るとウイードは美形とまではいかないものの整った顔立ちをしているし、真摯な眼差しは力強い。ふむ、なかなかいいじゃない、とテセラはウイードの真剣さとはズレた感想を持った。


「だから、生きものたちの痛みを忘れないため、それに、僕たちを養ってくれている生きものへの感謝を込めて、毎日交代で家族の誰かがほんのちょっとだけ短剣で額をさして、ちょっとだけ血を流して、生きものへの尊敬と感謝の言葉を全員で唱えるんだ」


「毎日?」


「そうさ。夕食の時だけね」


「ふうん」


「僕たちの間でずっと昔から伝わってる、大事な儀式なんだ。テム・キリシアノ、て言ってね」


「テム・・・」


「テムは、昔の僕たちの言葉で、小さいって意味。キリシアノっていうのは、なんていうか、感謝する、みたいな意味」


「小さい、感謝」


「そ」


小さい感謝ということは、大きい感謝もあるのだろうか。


ゲルの中でにぎやかに食事を楽しんでいる人々は、それぞれ自由に手を伸ばして好きなものを食べていたが、テセラとウイードだけは、彼女たちだけの皿がキープしてあり、肉であれば特によい部位を、チーズやスープであれば特別な味付けをしたものが並べられていた。


「テセラ、他の料理が食べたくなったら、言ってね。どれでも好きなだけ食べていいし、早くとらないと無くなるよ!」


テセラは初めて見る料理たちをおそるおそるつまみつつ、味わった。肉は、申し訳ないがそれほど美味と思えないものの、チーズやヨーグルトは、驚きの声をあげるほど美味だった。


「おいしい!」


テセラが、遊牧民たちの選りすぐりの料理によい反応を示すたび、家族たちはどっと歓声を上げた。どこまでも素直な人たちだ。そして、ならばこれもどうぞ、こっちはどうか、これもぜひ、とせわしなくさまざまな料理や漬物やお菓子を勧められた。


家族を持たないテセラにとって、このような愛情の暴風は、あまりない経験だ。合戦の時は生死を共にする仲間たちがいたが、それらのつながりや絆とはまた違う。


追手を警戒しながら生活する中で、常に身にまとっているのが普通だった固い鎧から、解き放たれた感じがする。セレナは心から安堵した。


五歳くらいの、男の子が一人と女の子が二人、高齢の女性に伴われて、テセラの前に進み出た。

子供たちは三人でひとつの大きな皿を持っていて、その上にはチーズと砂糖菓子が乗っている。


ウイードが解説を添えた。


「やあ、ありがとうおばあちゃん、それにコフサイ、イスリーネ、パワン。セレナ、僕の祖母と、一番下の弟と、父さんの弟の娘たちだよ」


おばあちゃんがにこにこと語りかける。


「この子らが、お姫様にどうしても自分たちのお気に入りを食べて欲しいと言ってね」


子供たちは、一言も口をきかないが、はにかんだ笑顔のままじっとテセラを見つめている。つやつやした頬が赤い。


「三人でかき集めてきたんだよ。まあ、味見してみておくれ」


わたしはお姫様なんかじゃない。それだけは言いたかったが、きらきらと輝く子供たちの目と視線がかち合ったとたん、急に何かが熱くこみ上げて、テセラの目から涙があふれ出た。


「おや」


おばあちゃんは少し驚いたが、


「まあ、まあ、大丈夫だよ」


おばあちゃんはテセラと、きょとんとする子供たち、両方に向けて穏やかに言った。


おばあちゃんの手がテセラの背中をぽんぽんと叩くと、いよいよテセラの涙腺は崩壊した。そういうのはやめて欲しいと思った。


なぜかウイードも無言でもらい泣きしている。


そんな一幕もありつつ、大食事会は進み、あれほど並べられていた皿や鍋も、みるみるうちに空になっていった。大人たちは酒を飲み、数名が酔いつぶれて他のゲルへ撤収された。


「それじゃ、歓迎してくれたお礼に」


テセラは、よい頃合いを見計らってスッと立ち上がった。


「わたしの魔法をお見せするわ」


おおーっ、と歓声と拍手が沸き起こった。


テセラは両手を広げて心ゆくまで拍手を浴び、拍手がおさまると同時にその両手を手首の位置で組み合わせた。


「まず、必ず両手を組み合わせないといけないの。それから、印を結ぶ」


家族たちが固唾を飲んで見守る中、テセラは組んだ両手をほどき、空中に素早く文字または図を描くようなしぐさをした。


「こわくないからね。さあ、上を見て」


ゲルの天井に丸い形の穴が開き、その穴がゆっくりと広がっていった。ゲルにはもともと換気用の天窓があるが、それが広がっているわけではない。


穴が広がるにつれて、その向こうに星空が広がっていく。


「あれ?今日は曇り空だったはずだが」


誰かがつぶやいたが、テセラが見せた夜空には、草原の民ですら今までに見たことがないような星の輝きが散りばめられていた。


「流れ星!」


子供たちが歓声を上げる。現実の星空ではまずあり得ない、大流星群が次々と夜空を横切って行った。


いつしかそれらの星々の輝きがひとつに集まって、何かのかたちになっていく。


「おお、羊じゃ!」


白く輝く羊が夜空に現れると、おばあちゃんが慌てふためいて叫んだ。


「ま、トラ・キシリアノの日ではありません、パムの神よ!まだウイードはそちらへ行きませんぞ」


カナンがおばあちゃんに飛びつき、その口をふさいだ。


「おばあちゃん、これはテセラさんの幻術よ!まぼろしなのよ」


輝く羊は夜空からすーっと降りてきて、ゲルの中に降り立ち、ざわめく人々を尻目にゲルの中を一周すると、パチンと弾けて消えた。


子供たちは弾けた光の破片を集めようと四方から飛びついたが、そこには何もない。


ゲルの天井の穴もいつの間にかなくなり、すべてが元通りになった。


「はい、おしまい」


テセラが一礼すると、大歓声と拍手がゲルを揺るがした。


「ごめんなさい、おばあちゃん、びっくりさせちゃって」


テセラが詫びると、おばあちゃんに寄り添うカナンが代わりに首を振って「いいのよ」と応じた。


おばあちゃんはしばらくぼんやりしていた。


6.


翌朝、テセラは、ウイード、カナン、額に小さなかさぶたが出来たイサン、ウイードの叔父の娘の五歳のイスリーネらと共に、羊たちを牧草地に連れて行く仕事を手伝った。


手伝うといっても、羊たちを誘導するのはウイードたちが行い、テセラはすっかりなついてしまったイスリーネを抱っこして馬を操り一緒についていくだけだ。


見上げると早朝の冷気に洗われて薄っすらと朱色がかった空はどこまでも広く、遠くに、数日前さまよっていた山々が見える。五十頭ほどの羊たちの群れはどれも楽しげで、追いかけっこをしている元気な子羊たちもいる。


「イスリーネ、羊さんたち可愛いね」


「うん、あたし、いつもなでなでするの。たたいたりしないの!」


話しかけたテセラに、イスリーネは羊たちへの愛を表明した。


テセラは、昨夜の食事の前に見た、ミイラ化した羊の頭部を思い出した。


イスリーネだけでなく、この人たちは羊を本当に愛しているし大切にしている。しかし、最後には殺して食べてしまう。愛情をこめて育てた羊を、おさえつけ、縄で縛り、ナイフで首を切り裂いて、殺してしまうのだ。そこにはどういう感情の整理があるのだろう。


牧草地につき、羊たちは草を食んだ。人間たちは馬から降りて、羊たちの間を練り歩く。ウイードとカナンにとっては羊の健康状態や発育を確認する作業だ。


「テセラ、王宮で働く人たちって、きちんと役割分担があって、それぞれが決まった仕事をしてるんだよね」


ウイードの声はいつも明るい。


「そうよ」


「王宮で働くって、どんなだろうなあ。テセラは楽しかった?」


「つまんなかったわ。やることも時間も決められて、窮屈なもんよ」


「そうかあ。そういうところは、僕らは自由だなあ。たくさんの家族と羊たちに囲まれてさ。仕事はたくさんあるけど、ずっと一緒に育ってきた兄弟とか親せきのみんなでやれるから」


「そっか、赤の他人と一緒に仕事するなんてことは無いわけね」


「滅多にないね!父さんは時々、村長として、都から来た人たちと何か交渉することもあるみたいだけど。家族でも親せきでもない人と一緒に仕事をするなんて、ムリだよなあ、カナン」


カナンは顔をしかめて、首を振った。


「そんなのこわい。いつも家族いっしょがいい」


「ふーん、そうなのね。そうよねえ、それがいい」


この人たちには、ずっと望みのまま、今の素朴な生活を続けて欲しい、とテセラは思った。


「ウイード!」


遠くから、男性の声がした。


「叔父さん」


馬を走らせて向かってくるのは、ウイードの叔父、イスリーネの父親だった。


「都から、モルデルっていう王子様が、兵士たちを連れてやって来た!」


幻術師テセラが抱える事情について、ウイードは大人たち、祖母、両親、叔父には知らせている。


叔父は言葉を続けた。


「ゲルから離れてくれていて、ちょうどよかった。テセラさん、すぐに逃げてくれ。ウイード、カナン、途中まで道案内を頼む」


「ダメよ」


テセラは馬に飛び乗った。


「そんなことしたら、わたしを逃がした罪で、みんながひどいことをされてしまうわ。誰もわたしには関わってない、いいわね?」


駆け出そうとするが、ウイードが馬のくつわを押さえる。


「待ってよテセラ!どうするつもりなの?」


「蹴散らす」


追手が迫っていることを知ってテセラは、平和だった先ほどまでとは顔つきが一変している。その目には、冷たい敵意が鈍く光っていた。


「だめだ、危ないよ!逃げるんだ!僕たちは、何とかする。父さんがうまく説明してくれるよ」


「ありがとう、ウイード」


テセラは、そう言い終えたころには印を結んでいた。


「あれっ」


ウイードはテセラと馬が姿を消すまぼろしを見て、思わずくつわから手を離した。


テセラは全力で馬を走らせ、ゲルの場所に向かった。


7.


モルデル王子率いる兵士たちが、ゲルを破壊し、人と動物たちを追い回す。


そんな光景を想像しながらテセラは懸命に馬を急がせた。


しかし、駆けつけてみると、ウイードたちのゲルは無事で、出かけて来たときのまま、のどかな時間が過ぎていた。


油断することなく、遠くまで見渡す。イスリーネの父親が嘘をついていたり、何かを見間違っているとは思えない。はっきりとモルデルの名を口にしていた。


ハッと息を飲む。一キロほど離れたところに、武装した騎馬の一隊がいた。ただし、きちんと整列して動く気配が無い。


テセラは昨日ごちそうが振る舞われた、ウイードたち一家のメインのゲルに近づいた。


入口のところに、二人の兵士が立っている。兵士たちはテセラの姿に気づくと、あわててゲルの中に向かって何かを告げた。


ゲルの中から、まず、ウイードの父が出て来た。笑顔を浮かべている。


その後につづいて、モルデル王子が現れた。


「おや、またお会いできましたね、救国の英雄、幻術師テセラどの」


王子はテセラに向かって笑顔で手を振った。


テセラは馬上から王子をにらみつけたまま動かない。何を企んでいるのか、読めない。ウイードの顔立ちに比べると、こいつは美形だが、どうも邪気が漂っていて気分が悪い。


王子は、降参、とばかりに両手を上げた。


「また大地が割れる幻でも見せようとしてるのか?かんべんしてくれよ。こんな穏やかな村で騒ぎを起こすのはよくないぞ。われわれは大人しく退散するよ。誰が勝てない戦をするものか」


その言葉の通り、王子は兵士たちを連れてあっさりと去って行った。


テセラは馬を下り、ウイードの父に駆け寄った。


「大丈夫?あいつらに脅されなかった?」


父は静かにほほ笑んだ。


「何もないよ。最初は殺気だっていたが、話のわからない連中じゃない。テセラのことはあきらめてここを去ることを約束してくれた。そしてその通りにしてくれた」


テセラはすぐに村を出発すると申し出た。しかし父はそれに首を振る。ウイードが戻るまで待ち、それから大事な話をしたいという。


8.


戻って来た羊たちの鳴き声を聞きながら、よく晴れた広大な青空のもと、テセラとウイードは草原の草の上にひざを抱えて並んで座った。その正面にウイードの父があぐらをかいて座る。そばでカナンも同席を許された。


「ウイード。私たちの大切な祭、トラ・キシリアノに、テセラにも参加してもらおうと思う」


「ほんと?」


父の発言を、ウイードは喜んで受け止めた。テセラは横にいるウイードの表情をじっと見る。これは嬉しいことらしい。


「キシリアノは三日後だ。テセラ、それまで、この村にいて欲しい」


テセラは戸惑う。


「でも、わたしがここにいる限り、あいつらがまた来るわ。あきらめたりするわけない。ウイードのお父さん、あいつらと何を話したの?」


「ああ。彼らとは、特別なことは何も話していない。よく話し合った上でお引き取りいただいただけだ。彼らとて、辺境の民であるわれわれの暮らしを、むやみにかき乱そうとは思っていない。それが危険なことだということも理解している。国王に服従を誓っているとはいえ、われら草原の民も、力を集めて立ち上がれば国王を震え上がらせるぐらいのことはできる。この祭の話は、さっきの兵士たちとは関係ない」


「なんだ、そうなの。関係あるっぽいことを言うから・・・」


「トラ・キシリアノはね」ウイードが静かに語り始めた。「僕たち人間が、ここにいる羊たちとか、一緒に暮らしている生きものたちに感謝を捧げるための大事なお祭りなんだ。二十五年に一度だけ、やるんだよ」


「毎日の食事の時におでこをつつくのがテム・キシリアノで、小さな感謝だから、トラ・キシリアノは、大きな感謝?でも、楽しくはないって、ウイード言ってたよね」


「そう」


ウイードは、父と、カナンの目をちらりと見た。


「ちゃんと話すね。トラ・キシリアノでは、パムの神、ていう生きものたちの神様に、人間たちの代表が一人、自分の命を捧げるんだ。僕たちが生きものたちの命を奪う時に、生きものたちに与えている苦痛を、僕たちも味わうことで、生きものたちへの感謝と、尊敬と、生きものたちとの調和への願いを、パムに聞き届けていただくんだよ」


ウイードの言葉は、調えられた詩のように、厳かな響きをもってテセラの胸に沁み通った。テセラは二秒ほどぼんやりしてしまったが、やがて我に返る。


「待って。それってまさか」


「そう。今回のトラ・キシリアノで人間たちの代表として選ばれたのは、僕なんだ」


頭上から斧を振り下ろされたような衝撃が、テセラを襲った。一瞬、目の前が真っ白になる。

気がつくと、テセラは立ち上がっていた。カナンを見る。


「兄さんは特別、って言ってたの、このこと?」


カナンは目に涙を浮かべ、両手で口をおさえて嗚咽をこらえながら、うなずいた。


「そんな・・・ちょっと、何よそれ!」


テセラはウイードの父に向かって叫んだ。ウイードの父は、真っすぐ前を見たまま、表情を消して動かない。


彼もまた感情の波と戦っていることにテセラは気づいた。


ただ、ウイードだけが落ち着いていた。ウイードもゆっくりと立ち上がる。


「テセラ、ありがとう。その気持ち、うれしいよ。これは、千年以上年も続いてきた僕たちの伝統なんだ。二十五年に一度だけのこのお祭りで、命を捧げる人間に選ばれるのはとても名誉なことなんだ。君と会えたのだって、選ばれたおかげだよ。命を捧げる者に選ばれれば、その人はお祭りの日まで、どんなわがままでも聞いてもらえることになっててね。だから僕は一度ここから離れて、街の様子を見てみようと思って、旅をしてた。その途中で君と出会ったんだ。これは、パムの神のはからいに違いない、て僕は思ってる」


そんなわけない。そんなのはおかしい。テセラは叫びたかったが、それを飲み込んだ。ウイードの穏やかな目は、反論を許さなかった。


「お祭りの日まで、あと三日だけど、その間テセラと一緒に暮らせて、僕がパムに命を捧げる時も、テセラがそばにいて見届けてくれんだったら、僕にとってはこれ以上の望みはない。どうかな?テセラ」


ウイードは、はにかんだ微笑を浮かべて申し出た。テセラは言うべき言葉を探せなかったが、どうにかコクンとうなずいて、それを受け入れた。


それ以後の三日間、ウイードとその家族たちと共に、テセラは料理や羊の世話を手伝ったり、ヨーグルト作りを教わったり、子供たちと走り回ったり、平和な日々を過ごした。


旅の経験が豊富なウイードの父と叔父は、今後のテセラの逃亡生活に役立ちそうな旅の技術を教えてくれた。特に、縄の便利な使い方については、ウイードの父がマンツーマン指導で熱心に教えてくれた。


命綱が必要なときの絶対にほどけない結び方、焚き木の束などをまとめる時の結び方、何重にもがっちりと結んではあるが垂らした縄の一端を引っ張るだけですぐに全てほどける結び方、などをテセラはマスターした。


「縄の使い方は、一番大事な知識だ。よく覚えておくといい」


ウイードの父はそう言って講義をしめくくった。


ここに至っても元気で明るいウイードは、テセラにずっと憧れの視線を送りつつも、優しく礼儀正しく、命の終わりが近づいていることを全く感じさせない自然さで、常にテセラのとなりにいた。まるで恋人同士だ、夫婦だ、と子供たちだけでなく母親や叔父も二人を冷やかしたが、二人がそれを否定したり不快に感じることはなかった。


9.


トラ・キシリアノの当日。


ウイードは鮮やかな青の衣装に身を包み、よく晴れた広い空の下、祭壇のある場所に向かって馬を進めた。周りには、黒や濃いブラウンなど暗めの色調の衣装をまとった神官たち、家族、そのほか祭の運営を行う者たちが付き従う。それらは長い行列となって、緑の草原に黒いすじを作った。


秋の風はやや冷たい。


平原の真ん中に、高く組み上げられた祭壇が見えた。地上から五メートルほどの高さに人が十人ほど乗れる広さの舞台のようなものが設けられている。舞台には柱に支えられた屋根があるが壁はなく、舞台の上の様子は下からでも見えた。


祭壇の足下は神官たちに取り囲まれている。神官たちはつぶやくような音量で何かの呪文を唱えている。

また、村全体から、村を構成する六十家族のほとんどが、老若男女問わず集まっていた。五百人ほどの人だかりが、この祭の場を埋め尽くしている。


テセラは特別に許可されて、終始ウイードのとなりに居た。命を捧げる者の願いはどんなわがままも許容される。


テセラは周りの者に聞こえぬよう、ウイードに身を寄せてささやいた。


「ウイード、本当にいいの?」


言葉を発するまでもないというように、ウイードは微笑んでただうなずいた。


「死んじゃうのよ?終わりよ?これからもっと・・・都で珍しいものを見たり、きれいな音楽を聴いたり、本当だったらできるのに」


「うん。もうそういうのは、整理ができてるよ。きれいなものや素晴らしいものは、これまでたくさん見て来た。最後にきみにも会えた。ここで終わっても、不満は無いんだ」


「わたし、ここにいる人たち全員に幻術を見せて、あなたを連れ去ることができるわ。一緒に逃げましょう?わたし思うの。ウイードのお父さんも、それを期待してるんじゃないかって」


「父さんが?」


「そうよ。だからこのお祭り・・・にしてはやけに陰気だけど・・・に参加して欲しい、てわたしに頼んで来たのよ。表立っては言えないけど、裏の意味では、あなたを助けて欲しいのよ」


「それはないよ」


ウイードは少し考えた。


「そうだとしても、僕は断る。もう僕の中で決めてることだから」


行列は進み、祭壇が目の前に迫っている。神官たちが、ウイードを迎え入れるためであろう、わらわらと集まって来た。


「ウイード」


テセラは、懸命の願いを込めた鋭い眼差しでウイードの横顔を見つめ、その腕を強くつかんだ。


「お願い」


ウイードは、腕をつかまれてハッとしたが、すぐに柔らかな表情に戻り、その手に自分の手を重ねた。


「テセラ。本当にありがとう。そこまで思ってくれたってだけで、僕は幸せだよ」


ウイードの手は冷たく、かすかに震えていた。死が目前にある。


二人は神官たちによって引き離され、ウイードは祭壇の上の舞台につづく階段を上り始めた。


「ウイード!だめ!」


テセラは叫ぶが、そばにいたカナンが駆け出そうとするテセラをうしろから抱きすくめ、同時にウイードの父がテセラの前に立ちはだかった。


「すぐに済む。見送ってやってくれ」


神官たちの呪文の声が高まった。歌のように波打つ声が祭壇を包む。


五百人の群衆が、舞台に向かうウイードを一心に見つめる。手を合わせて拝んでいる者もいる。


舞台の上には三人の神官が待っていた。いずれも覆面をしていて顔は見えない。だが一人は長い白髪を垂らした高齢の女性、あとの二人が体格のよい男性であることはわかった。男性二人はそれぞれ剣を手にしている。よく研がれた、幅広い刃の曲刀だった。


ウイードは舞台に上り、三人に囲まれるかたちで舞台の中央に両ひざをついた。


白髪の神官がウイードの背後に立って、テセラにはわからない言葉で群衆に向かって何かを呼びかける。


群衆はまた、それに応えて、一斉に何かを叫ぶ。


神官のしわがれた叫びと、群衆のどよめく声とのやりとりが、何度も繰り返された。


テセラには理解できない言葉だが、神官と群衆とは、そのやりとりによって、人間たちが生きものたちの命を奪っている事実を確認し、それに感謝すると共に、人間が生きものたちに与えている苦痛に共感し、その証として、人間もまた最も愛されている者の命を生きものたちの神、パムに捧げることを、天に向かって宣誓した。


ウイードはひざまづいたまま目を閉じて動かない。


宣誓を実行するため、二人の男が、曲刀を頭上高く振り上げた。


その時、テセラは、もはや抑えられない感情を爆発させた。感情というより、条件反射に近かった。


幻術を発するため、両手を交差させる。


しかし、それはとうに予測されていた。


ウイードの父、カナン、そのほか数名の人々がテセラを地面に引き倒し、押さえつけた。ウイードの父は、縄でテセラの両手を何重にも縛り上げた。両手の自由を奪われては、印を結ぶことができない。


「ウイード!」


縄で縛りあげられる痛みも忘れて、テセラは叫んだ。


白髪の神官が何かを叫んだ。それが、斬首の合図であることは明らかだった。


白刃が振り下ろされ、ウイードの頭が、ゴトリと舞台の上に落ち、鮮血が吹き出す。


そうなるであろうと誰もが思った瞬間、


キーン!


鋭い金属音が響いた。


剣を持つ一人の男が、その一撃によってもう一人の男の剣を弾き飛ばしていた。


男の手を離れて舞台から落下していく剣を、あわてて下にいた人々がよける。


どよめきが広がった。


「そこまでだ!」


群衆の中から、声が上がった。


「静まれ、みなの者!」


群衆の中から進み出た男は、大声で周りを制止ながら、祭壇の階段をズカズカと上った。


粗末な布で出来たローブを羽織り、フードで顔を隠していたが、それらを脱ぎ去る。


ローブの下から現れたのは、ほとんどの草原の民は見たこともない、きらびやかな貴族の衣装だった。


テセラは、両手を縛られたまま身を起こすと、その男を見てつぶやいた。


「モルデル王子?」


モルデルは舞台の上に立ち、懐から丸く巻かれた公文書を取り出すと、それを広げて高らかに読み上げた。


「国王陛下からの勅命である!」


大きく息を吸う。


「わが王国において、殺人は犯罪である!いかなる祭事や儀式においても、生きた人間を生贄に捧げることは、これを一切禁止とする!これを破った者は、十年以上の禁固刑に処する!」


馬蹄の響きが轟きわたり、モルデル配下の騎兵たちが群衆を包囲した。


群衆のあいだからは、突然のことに戸惑いと不満の声が上がったが、武装した騎兵たちににらまれ、沈黙せざるを得ない。


だが、舞台の上の白髪の神官だけは叫んだ。


「ならん!われわれの千年に渡って続く伝統が、妨げられてたまるものか」


老婆はモルデルにつかみかかろうとして、剣を持った男に遮られた。剣を弾き飛ばされたほうの男は、腰が抜けたのか、尻もちをついてへたりこんだまま動かない。


老婆は白髪を振り乱してわめいた。


「これは、われわれとパムの神との間の契約なのじゃ!国王といえど、それを破ってよい法があるものか」


モルデルは涼し気に微笑んで、神官の苦情を聞いた。


「おお、なるほど。それは確かにそうであろう!」


あごに指をそえてウンウンとうなずく。


「では、今日だけ、儀式の続行を許可するとしよう。ただ、罪もない少年を殺すことはならん。奇遇にも、ここには、国王陛下もその斬首を許しておられる、ちょうどよい者がおる」


モルデルは、祭壇の下にいるテセラに目をやった。


群衆の注目がテセラに集まる。


「上等よ」


テセラはすっくと立ちあがった。


ウイードの父が、テセラの肩に手を置いた。


「テセラ。すまない」


頭を下げて、テセラに詫びながら、テセラの両手を縛る縄の一端から手を離す。


「大丈夫」


とテセラは答えて、両手を縛られたまま、階段を上り始めた。


「ようやくこの時が来たな、幻術師テセラよ。国王陛下に歯向かう者の最後は、結局こうなるのだ」


モルデルは、こみ上げる愉悦をこらえきれず、声を震わせた。


ウイードは、父の計画を理解して、叫んだ。


「そうか、父さん!こいつらと取引したんだね」


目に涙があふれる。


「ひどいよ!だますなんて!この儀式を、国王からの命令書でやめさせて、僕の命を助ける代わりに、テセラを縛りあげてこいつらに引き渡す、そういう約束だったんだろう!」


ウイードは駆けだそうとしたが、モルデルに羽交い絞めにされ、身動きできなくなった。


テセラは階段を上りきると、ウイードに微笑みかけた。


「ウイード、これでいいのよ。抵抗してはダメ。これでいいの」


剣を持つ男の前に、両ひざをつく。


「テセラ!」


ウイードはもがいた。草原の少年は、モルデルが思った以上に力が強い。


「おい、早くやれ!」


モルデルは戸惑い、剣の男に指示した。


男はあらためて剣を振り上げた。ひざをついて上半身をかがめているテセラの首すじに狙いを定める。


上半身をかがめることで、テセラを縛っていた縄の端が床に垂れていた。


テセラは突然、床に垂れていた縄の端を足でしっかりと踏み、踏んだまままま立ち上がった。


立ち上がったのと同時に、縄はハラリとほどけた。


ウイードの父がテセラにマンツーマンで教えてくれた、縄の便利な結び方のひとつだ。どんなにきつく縛られていても、その端を引っ張ればすぐにほどける。


剣の男はうろたえて剣を振り回した。


テセラは横っ飛びに跳んでそれをかわし、両手を交差して素早く印を結ぶ。


ガクン、と舞台の床が傾く。


「うわわわわ!」


モルデルも神官も剣の男たちも、すべり落ちそうになる恐怖に手足をバタつかせた。


「ウイード!」


テセラはウイードを抱き寄せ、その顔に自分の頬を押し付けて視界を遮った。


「何も見ないで。大丈夫だから」


「う、うん!これも幻なんだよね・・・」


祭壇はガラガラと音を立てて崩れ落ちた。二人を除いて、恐怖のあまり誰も身動きがとれない。


一方、群衆は、晴れ渡った空がたちまち夜の闇に包まれ、続いて金色に輝く光の柱が、祭壇のあった位置に立ちのぼるのを見た。


「おお、パムの神さま!」「パムよ!」


輝く光の中を、白い蝶の群れが飛ぶ。人々はそれをパムの化身と信じ、ひざまづいて拝んだ。


「パムってこんな感じでよかったかな」


テセラはひそかにつぶやいた。急のことで考える余裕がなくデザインに自信がない。蝶の羽をよく見ると左の羽にパ、右の羽にムと書いてある。それすら人々はありがたがった。


「お、おのれ、これは幻だ!」


モルデル王子は、目を固く閉じ、手で両耳をふさぎ、祭壇が崩れた幻を受け入れず、手さぐりでよろめき歩いている。


神官と二人の男はすでにショックで気を失っていたにも関わらず、モルデルのこの行動は執念というべきものだろう。


「ぜんぶまぼろしだまぼろしだまぼろしだ!」


「そうね、目をつぶって何も見ないでじっと耐えていれば、幻術の影響を受けずにすむ。でもね、エイッ!」


テセラは、よろめき歩くモルデルが階段のあたりに来たところを見計らって、その腰を蹴り飛ばした。


モルデルは叫びながら階段を転げ落ちて行った。


「・・・それじゃ戦うことはできないわ」


地面に打ち付けられてうめくモルデルを見下ろして悲し気につぶやく。


輝く蝶の群れ、パム神の化身は、ウイードたちのゲルがある方向に向かってゆっくりと飛んだ。


群衆はそれを追って、その場を去って行った。


残ったモルデル王子の部隊を、テセラは舞台の上から見下ろす。兵士たちからはテセラは宙に浮いて見える。紫色の髪を風になびかせる少女の姿は、再び兵士たちの胸に恐怖の記憶として刻まれた。


「わたしの命が欲しければ、総勢三万は用意することね。騎兵より歩兵がいいわ。馬を怯えさせることはもっと簡単だから。それからあなたたち、ここの遊牧民の人たちにあとでケチをつけたりしたら許さないわよ。王子さまがバカでいつもみたいに詰めが甘いからこうなっただけのことよ!」


もっと言ってやりたかったが、ゆっくりしてもいられない。兵士たちを蹴散らすのは容易でも、一度去ったあとに再び襲撃してくる可能性を考えると、とにかく一刻も早くここから立ち去るべきだ。


テセラはひとまず適当にドラゴンの大群が襲いかかって来る幻など見せて、モルデルと騎兵たちを退散させた。


ウイードの父とカナンは、祭壇の下に残ってくれていた。来るときにウイードを乗せていた馬が大人しく待っている。


「地図と、わずかだが水と食糧だ」


ウイードの父はテセラに背負い袋を手渡した。


「地図を見て、クナナという村を目指してくれ。そこにあとから追加で食料や旅の道具を届ける」


「ありがとう。縄の結び方だけやけに熱心に教えるから、なんかあるなと思ってたのよ。作戦バッチリだったね、ウイードパパ」


テセラがウインクしてみせると、ウイードの父は息子とそっくりのはにかんだ笑顔を浮かべた。カナンはただただぐしゃぐしゃに泣いて、テセラに向かって何度もうなずく。


テセラは荷物を背負い、馬に乗った。


ウイードは落ち着きを取り戻し、もとの明るい表情で語りかけた。


「これでお別れじゃないよね、テセラ」


「当り前よ。今度は都で会いましょ。わたしはあんまり好きな場所じゃないけど、観光案内はできるから」


テセラは他の二人とも再会を約束し合い、颯爽と走り去った。


千年以上続いた草原の民の伝統儀式は、生きものたちへの尊敬の念をもってその後も続いたが、生きた人間の命が捧げられることはこの日から無くなった。代わりに、生贄の儀式をやめさせたパム神の使い、紫色の髪の少女を讃える歌が必ず斉唱されることとなった。


三年後、国王は病に倒れて新しい王が即位し、幻術師を隔離する政策は撤廃された。それまでの間のらりくらりと逃げ続けたテセラは、約束どおり都でウイードに再会し、その頃の都の最新流行だったクリームメロンソーダをカフェで一緒に味わいながら、ウイードたちの一族の伝統の羊ミルク茶のカフェを作って一儲けする話などをして笑った。


【おわり】



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