66 侍女の災難
アレシア王太子妃の活躍は続き、出産の疲労から身体が回復してからは再びあちこちに馬で駆けつけては雨を降らせ、水を配っている。
馬車では時間がかかるから馬を走らせる。
マークスはアレシアの身体が心配でならない。
「馬では身体が疲れるだろう。もっと給水塔を増やすから馬車にしたらいい」
「私、馬を走らせるのも楽しいんです。普段そんなことできませんから。それに今は子供たちと長く離れたくないのです。子供たちが赤ちゃんでいてくれる時期は短そうですもの」
マークスはアレシアが出かけている間は頻繁に赤子の顔を見に訪れる。
「君たちのお母さんは綺麗で強くて素敵な人だよ。でも少し頑固なんだ。そこもまた素敵なんだが。早く帰ってくるといいな。お前たちは父さんと一緒にお母さんの帰りを待とう」
赤ん坊にはつい本音を言ってしまう。ギルには聞かれたくない。
・・・・・
ミハイルとイゼベルは「アレシア様が癒やしの力を込めた布」という触れ込みの絹布を持ち、王都ではイゼベルが、王都から離れた場所ではミハイルが治療に回っている。
ミハイルは絹布の効果に驚嘆した。
(国庫が潤ったのは絶対にこれだ)と確信した。
ラミンブの若き学者や技術者たちは絹布を通して連携している他国の知識と技術を学んだ。
荒れ地に深い井戸が何本も掘られた。荒れ地の地中深くに潜り込んでいる川からはきれいな水が汲み上げられるようになり、農地の拡大に役立った。その費用は絹布が生み出してくれた。どの国も絹布を一度使うともう手放せなくなったらしい。
他国で先進的な医学の知識を学んだ者たちはラミンブ王国の各地へ巣立っていく。
双子の子供たちはすくすくと育ち、エミーリアにはまだ二歳だと言うのに婚約の話が他国から降るように申し込まれている。だがマークスとアレシアは他国に嫁がせるつもりはない。
アレシアは我が子を権力から隠し続けた両親の気持ちを身をもって理解した。
(この子を便利な道具にされたくない)とエミーリアを抱きしめて思う。自分はマークスに守られているが、目の届かない他国に嫁がせたらどうなることかと胸が痛む。
ある日のこと。
「きゃあああっ!」
離宮に侍女の悲鳴が響いて護衛騎士たちは子供部屋に突入した。
「え?」
部屋に入った騎士たちは入り口で固まった。エミーリアが自分の周囲にたくさんの小さな水球を浮かべて笑い、ナイジェルは大人ひとりがすっぽり入るほどの大きな水球を天井近くに浮かべて見上げていた。
「おい、大きい方が侍女の上に落ちる前に侍女を動かすぞ」
「は、はいっ!」
幼い殿下たちを驚かさないように引きつった笑顔で静かに歩いて侍女に近寄る。腰が抜けたらしい侍女の両腕をつかんでズルズルと引っ張って大きな水球の下から動かす。
大人三人は大きな水球から目が離せない。やっと水球の真下から引きずり出した、とホッとしたところでナイジェル殿下が入り口に現れた母の姿に気がついた。無邪気に腕を下ろして母に駆け寄ろうとした。
「ひっ!」
情けない声は誰のものだったか。とんでもない重量の水が床に落ちる、と思ったがそれはなかった。
部屋の入り口に立つなりひと目で事情を察したアレシアが「水よ」と唱えて子供たちの水球を全て自分の水で包み、優雅な腕の動きで大きな水球もエミーリアの小さな水球も操ってテラスへと動かしてから落とした。
ドシャッ!バシャバシャバシャ!
テラスに全ての水球が落ちた。騎士は思わず「はぁぁぁぁ」と息を吐いてしまってからアレシア妃殿下に向かって「助かりました」と頭を下げた。侍女もコクコクとうなずきながら頭を下げた。
「イーラ、ごめんなさい。怖い思いをさせてしまったわね。もうこんなことが起きないように子供たちに言って聞かせるわ。まったく、いつの間にあんな大きな水球を出せるようになったのかしら」
(前世の私は正確な発音ができる四歳まではこんなことできなかったのに。呪文無しで水を操れるのも考えものね)
駆け寄ってきた二人の子供たちに抱きつかれたアレシアが困り顔で笑う。危うく何百キロもの水の下敷きになるところだったイーラという侍女はまだ声が出ない様子だ。
この後も二人の子供たちはいろんなことをやらかした。二人は無詠唱で水球を生み出すことができるのでいつ水が現れるか予測できない。仕える侍女も騎士も常に頭上に神経を使うようになってしまった。
離宮に来ている時にイーサンが子供たちと遊んでいて頭から水を浴びて呆然としたことは長いこと笑い話になった。
イーサンはチャナに告白したものの相手にされず、今では国営の桑畑に通っている女の子と親しくなっている。チャナは妖精のような美しさながら
「まだ当分結婚はいい。元気になったのだから寝込んで暮らしていた時の分までいろんなことを経験したい」
と機織りと世間を広くすることに時間を使っている。
アレシアは忙しい公務の合間に子供たちに水魔法の使い方を指導することになった。
荒れ地で好きなだけ水を出させて疲れさせてから大きな桶に水をこぼさず入れる練習、それができたらバケツやコップに入れる練習をさせた。子供たちが欲求不満にならないよう、魔力を使い切らないよう、そしてやたらに室内で水を出さないよう、教え導いた。
それでも時々は子供たちが二人で喧嘩をし始めると部屋の中で小ぶりな水球が飛び交うこともあった。そうなるとアレシア以外は誰も止めることができず、たまたまその現場を見たギルは「ああもったいない!」と嘆いていた。
こんな事情なので子供たちはまだ三歳という幼い時から大きな桶に水を入れる役目を与えられることになった。まだ均等に広い面積に雨を降らせることはできないから大雑把に水を出せばいいだけの仕事だ。
だが細かい魔力操作が得意なエミーリアは母の真似をして毎日のように雨を降らせる練習をし始めた。
すると対抗心を燃やしたナイジェルがエミーリアの隣で雨を降らそうとして、大きな水球を出現させる。ギルは中庭にたくさんの桶を並べて「ここで!必ずここで水を樽に入れる練習をしてください」と繰り返したがあまりそのお願いは聞き入れられていないようだった。
双子たちが水を出して遊んだり喧嘩したりする中庭の植物は明らかに成長がいい。庭師たちは「殿下たちの出す水には植物を元気に育てる何かが入っている」とすぐに気づいた。なので、弱った花があると鉢植えにして中庭に運び、水遊びの水を浴びるような場所に置くようになった。
厩番の者たちも双子が出す水を馬に飲ませると毛艶が良くなり長い時間走らせても疲れが残らないことに気づいた。中庭にギルが並べて置いてある樽の水を巡って庭師たちと厩番の間で静かな奪い合いが日々起きている。
ギルは最近樽が空になってることが多いので「あれ?殿下たちはもう中庭で遊ばなくなったのか?」と思ったが、樽に入った水はすぐに運び出されて空の樽が代わりに置かれているのだった。





