49 ヤエル先生の過去
なぜヤエル婦人がヤエル夫人ではないのかがやっと明らかになります。
「どうしたの?アレシアちゃんが来たっていうから何事かと驚いたよ」
「ギルさん、お触れのことでお聞きしたいことがあるんです。あの罪を告白した人ってエイタナさんですか?亡くなったんですか?」
常日頃冷静で落ち着いて見えるアレシアがとても取り乱しているのにギルは驚いた。それ以上にエイタナの名前を出したので驚き、顔に出ないよう敢えてにっこり笑って見せた。
「どうしてそう思ったの?アレシアちゃんはエイタナの知り合いなの?」
「この前王宮にお邪魔した時にお茶を淹れてくれたのがエイタナさんだったんです。アウーラが処刑された時にこの王宮で働いていた人で今も王宮勤めの人なんて年齢的にそうそういないでしょう?」
ギルは侍女に命じてお茶を用意させ、来客用の部屋から人払いをした。
「あのお触れに名前が書かれてなかった意味はわかる?残された親族が被害を受けないように配慮されたんだよ。だから名前は言えないんだ。確かにその人は亡くなったよ。昨日の朝、事故死した遺体が発見されたんだ」
「事故死……」
「水晶のブレスレットが切れて散らばっていてね。酔った状態で拾ってる最中に水晶を踏んづけて転倒したのが原因なんだ」
水晶のブレスレット。アレシアの胸に痛みが走る。
「その人は罪の告白をして裁きを受けるつもりだったんですよね?」
「えーと、それも言えないんだ。ねえアレシアちゃん、どうしてその人のことが気になるの?」
「エイタナさんはとても感じのいい人だったので」
「そっか。ごめんね、名前は言えないな」
「そうですよね。教えていただけない事情はわかりました。お忙しいのにお時間を割いてくださってありがとうございました」
「えっ?帰るの?殿下に会わなくていいの?」
「はい、帰ります。お邪魔しました」
水晶のブレスレット。
前世でエイタナに与えた物だろうか。エイタナは「こんな大粒の美しい水晶、よろしいのですか?一生大切にします!ありがとうございますアウーラ様」と泣かんばかりに喜んでくれた。
アレシアは急いで部屋を出ると、案内の人に付き従って王宮内を出口に向かって進みながら案内役の女性にカマをかけた。
「エイタナさん、亡くなったんですってね。お気の毒に」
案内役の年配の侍女はアレシアがギルに聞いたと思ったのか、またはその話をしゃべりたかったのだろう、迷わず話に応じてきた。
「ええ、私どもも驚いております。普段あれほど厳格だった人がまさかあんなことをしていたなんて。しかも罰を受けるつもりがなかったらしくて鞄にお金がたくさん詰め込まれていたそうです。あの人のせいでアウーラ様が処刑前にどれほど酷い拷問をされたやら。転んで亡くなったのは天罰が下ったんじゃないですか?」
真っ直ぐ帰宅する気になれず、ぼんやりと歩いた。どのくらい歩いただろうか。賑やかな商店街を歩き通し、ベンチに座り込んだ。
あの子が私を陥れたのか。宰相の命令でやらされたのだろうか。それならなぜ処刑間際まで私に毎日面会して慰めたりしたのか。しかも罪を告白しても罰を受けずに逃げるつもりだったなんて。
「エイタナ、どうして?わけがわからない」
道行く人々が自分を見ていることに気づかず、アレシアは顔を覆うこともせずに泣いていた。愛していた国王に投獄されて絶望した時でもエイタナのことは信じていた。処刑の前日もあの子の将来を心配した。そんな自分のことをあの子はどんな気持ちで眺めていたのだろうかと思う。
「アレシアさん?」
声をかけられ我に返ると、すぐそばにヤエル先生が立っていた。
「どうしたの?なにかあったの?」
「いえ、何も。なんでもありません」
「なんでもないって様子じゃないわ。こんなところで美人さんが一人で泣いていたら悪い男が寄ってくるわよ。一緒にいらっしゃい。危なくてこのままにしておけないわ」
そう言うとヤエル婦人はアレシアの腕をつかんで立たせ、グイグイと背中を押して歩いた。アレシアは差し出されたハンカチで涙を拭って「もう大丈夫」と繰り返したがヤエル先生は自分の家にアレシアを連れ帰った。
「言えることだけでいいから話してごらんなさい。何があったの?誰かに乱暴されたんじゃないでしょうね?」
「いえ、そんなことは。ただとてもショックなことがあって。……ヤエル先生、先生は心から信じていた人に裏切られたことがありますか?」
ヤエル婦人は思いがけないことを聞かれて目をパチパチと瞬いたが、すぐにうなずいた。
「あるわ。世界中の人間を信じられなくなるようなことが。人間はなんて汚いのかしらって、生きる力まで失いそうになったことが。私ね、二十年間も夫だった人に騙されてたのよ」
穏やかな人生を送ってきた人かと思っていたアレシアは驚いた。婦人はお茶を飲みながら過去の話をしてくれた。
婦人とご主人はバルワラで知り合い、恋愛結婚で結ばれたのだそうだ。
貧しい他国の商売人だった男性と裕福な商家の末娘だった先生との恋愛は最初こそ反対されたけれど、最後は両親も折れて結婚できた。
貧乏を経験したことがない末娘を案じて親は定期的にお金を送ってくれていたが、夫はそれを婦人には知らせず懐に入れていた。ふとしたことから別の女性の存在を疑ったヤエル婦人が人を使って調べると、夫はとっくの昔に別の女性と結婚していた。
頻繁に家を留守にするのは仕事ではなかった。本当の妻がいる家に帰っていただけだった。二十年間も自分は妻ではなく愛人だったことを知って激昂して夫をなじり、問い詰めたらあっさり捨てられた。婦人には息子さんもいたのに。
実家に事の次第を手紙で知らせて息子と帰国しようと思ったら、両親亡き後に家を継いだ兄嫁に「なんと情けなくみっともないことか。あれだけうちのお金を送ってもらっておいて、これ以上まだ世話になる気か」という手紙が来た。その時に初めて長年に亘って実家から仕送りされていたことを知ったのだ。
「世の中にはそんな事をできる人がいるのよ。お金持ちの娘だから少しは甘い汁を吸えるだろうと思っていたら勝手に大金が付いてきたんですもの、あの人はさぞ喜んだことでしょう」
ヤエル婦人はそれ以降、自分はあんな男の妻ではないという意味で「ヤエル婦人」と呼んでもらうようにして事情を知らない人には変人扱いされているそうだ。
「でもね、そんな酷い経験でさえも今の私の一部なの。過去はなかったことにはできないわ。それならその酷い過去さえも今の私を作っている一部だと思えばどうにか受け入れることができた。そう思えるまで随分と時間はかかったけれどね」
アレシアを見つめながらヤエル婦人は続けた。
「私、正式に裁判を起こして争ったの。この国の法律は元外国人の私にも親切だったわ。私は懲役よりも返金を希望したから、実家から送られてきたお金の大半を分割で回収できた。返金が滞ると強制労働送りだったからあの人はきちんと返してくれたわよ。私ね、誠実に対応してくれたこの国の制度とそれを正しく運用させているこの国の王家をとても高く評価しているの」
驚いているアレシアの手をヤエル婦人がそっと包むように握った。
「どんな経験もあなたを作るあなたの一部だわ。それを受け入れて生きるのがあなたに与えられた大切な課題なのよ」





