44 イーサン
「イーサン!」「きゃあああっ!」「うわあっ!」
何人もの叫び声が重なって響く。
イーサンは背中を不自然な角度に仰け反らせたまま意識を失っていた。それを見てイーサンに駆け寄ろうとしたアレシアの腕をつかんで離さないヘルードがチラリとイーサンを見る。
「他国の王族に害を為そうとした平民は殺されても文句は言えないだろう?」
イーサンに駆け寄った彼の両親が悲鳴を上げ、ヘルードの周囲をマークスの護衛が取り囲む。同時に駆け寄ったヘルードの護衛たちは剣に手をかけていつでも抜けるように構えている。
「お父さん!イーサンを家に運んで!手当を早く!」
アレシアの叫びに応じて大人たちがイーサンを素早く家の中に運び込んだ。
「ヘルード殿下、我が国の民を傷つけてこのままで済むとお思いか」
「あのガキが僕に飛びかかろうとしたんだ。僕があのガキに何かされてからじゃ、君たちだって困っただろう?」
「彼の背骨が折れていた!あの少年は武器も持っていなかった。それをあんなっ!」
「いいじゃないか、たかが農民の一人や二人。でもこの娘は気に入ったから国に連れて帰るよ。いいだろう?」
「ふざけるな!」
「お断りいたします」
威厳のある落ち着いた声がして、農園の入り口に背を向けていたヘルードがサッと振り返ると、そこには数十名の護衛を連れたベルナ王妃が静かに立っていた。
「母上!」
「この農園の果物は私のお気に入りですのよ、ヘルード殿下。先程殿下が蹴り飛ばした少年はここの大切な働き手でした。あの少年、運良く命を繋ぐことができても、一生歩くことさえできないような有様でしたわね。さて、困りました。訪問先の我が国でこのような狼藉を働かれたのでは、もう滞在いただくのは無理でございます。早々に母国にお帰りいただきましょうか」
「ほう?そのようなことを仰ってよろしいのですか?失礼ながら王妃殿下は弱小国のお立場をご理解なさってはいないようだ」
そこでベルナ王妃は白く細い喉を見せてホホホと笑った。
「おやおや。殿下は我が国の国王がバルワラの王家の血筋であることをお忘れか。この国を蹂躙しようとすればこのラミンブだけでなくバルワラ王国をも相手にするということ。それを殿下のお父上は了承済みなのですか?ヘルード第四王子殿下」
それはあからさまに「第四王子のお前ごときに三国を巻き込んだ開戦の決定権があるのか?」と問い正す発言である。ヘルードは正しく王妃の言葉の意味を理解したらしく、悔しそうに言葉をのみ込んだ。
「さあ!皆でヘルード殿下を王宮までご案内しなさい!そしてそのまま国境まで送って差し上げるように!」
「はっ!」
ヘルードは多くの騎士たちに囲まれて農園を立ち去った。それを見届けてからアレシア、王妃、マークス王子が家の中に駆け込んだ。
「イーサンッ!生きてるっ?」
大人たちの背中の向こうからうめき声が聞こえた。
「ううぅ。ああ、生きてるけどさ」
「イーサン!イーサン!」
イーサンはぐったりした様子で長椅子に横たわり、アレシアたちを見上げている。その身体には白い絹布がぐるぐる巻きに巻き付けてあった。
アレシアはイーサンに駆け寄ると、その体を抱きしめて泣き出した。
「うううっ……ああ良かった、間に合ったのね」
「準備しておいて良かったよ。まさか俺を見もしないで蹴り飛ばすとは思わなかった。俺、背骨が折れたんだぜ?」
「良かった。良かったわよ。死んでいたら治すこともできないのに!なんであんなことしたの!本当に馬鹿ね!」
そこまで言ってアレシアが泣き出した。
「悪かった。ごめんよ。アレシアを連れて行くっていうから俺、カッとなって」
「あんたが死んだら私、一生自分を許せないわよ!馬鹿!イーサンの大馬鹿!うわあああああん」
そこでセリオがアレシアの背中を撫でて止めに入った。
「許してやろう。イーサンも反省しているさ」
「そうだよ反省してるって。それに、背骨を折られた痛みは……いや、言葉ではとても言い表せられないや。俺、あの音は一生忘れられないよ。折れた背骨もだけど、全身をものすごい力で殴られたような痛みがあったんだ」
「自業自得よ!」
「母さん、ひどいよ」
イーサンの母は泣きながら怒っていた。
「ファリルには厳重に抗議しなければ」
王妃陛下の言葉に皆がうなずいた。
前の夜、アレシア一家とイーサン一家は話し合って、ヘルードの訪問前に全員が絹布を体に巻きつけていた。たいていのことに効果があると調べがついている絹布だが、さすがに死んでしまえば生き返らせることはできないに違いない。だから皆が用心していたのに、イーサンは我を忘れてヘルード王子に近づいた。
「大丈夫とは思いながらも寿命が縮んだぞ、イーサン。首でも斬られたらこのように上手くいったかどうか」
「そなたに死なれてしまっては私も困ります」
王子殿下と王妃殿下にそう言われてイーサンも大人たちも恐縮して頭を下げた。
「イーサンは念の為、しばらくは人目に触れないよう家から出しません」
父親のナタンの言葉にイーサンは「えええ!」と言って悲しい顔になったが、誰一人として助け舟を出す者はいなかった。
アレシアは泣き過ぎて翌日は目が腫れ上がって開かなかった。自分のせいで弟のように大切なイーサンを失っていたらと思うと、あの場面を思い出すたびに涙は止まることなく流れたのだ。
そして自分たちを守ってくれたのが十四年間避け続けていた王家の二人だったことも繰り返し思い出していた。





