4 記憶
馬に蹴られた私の身体がビュッと吹っ飛んでネクタの樹にぶつかり地面に落ちた。上手く息ができない。蹴られた肩も樹に叩きつけられた背中も、痛いというより熱い。
「アレシア!」
馬の威嚇する声を聞いて駆けつけた父とナタンおじさんが馬を追い払い、私を抱き上げた。
酷い打ち身ながらも私の意識ははっきりしていた。だけど身動きしても呼吸してもあちこちに痛みが広がる。
「大丈夫、だよ、お父さん」
「ああ、良かった。アレシア。俺のアレシア」
取り乱しながら私を抱いて運ぶ父の後ろを、すすり泣きしながらイーサンが付いてくる。自分を責めているのだろうか。慰めなければ。
「イーサン、大丈夫。泣かないで」
イーサンはそれを聞いて余計に泣いてしまった。
家に連れ帰ってもらったあと、私は十日ほどベッドで寝たきりになった。寝たきりでいたのはかえって都合が良かった。頭の中が混乱していたからだ。
馬に蹴られ、樹に叩きつけられたのがきっかけになったのか、八歳の私は前世の記憶を思い出していた。
私は水を操る魔法使いアウーラだ。アウーラの二十三年分の記憶が頭の中で溢れている。閉じられていた記憶の蓋が開いたのだ。
最初に思い出したのは戦争の場面だ。
十六歳の私は金糸で刺繍をされた真っ白いローブを着て軍隊の先頭に立っていた。初めて参加した戦争で、私は空に向かって両腕を伸ばし、声を張り上げていた。
「水よ!地に満ちよ!敵兵どもを押し流せ!」
するとヴン!という音と同時に中空高く巨大な水の塊が出現した。水塊は砂漠に広く影を作り、ほんの一瞬煌めいてから凄まじい地響きを立てて落下した。
膨大な量の水は砂を巻き込みながら濁流となり、重い金属の甲冑を着ている敵兵たちを巻き込んで押し流した。水が流れ去った後の砂漠には水死体があっちにもこっちにも転がっていた。
攻めてきた敵兵の数はおよそ二万だったから、私が奪った命の数は百や二百では足りないだろう。
当時の私はそれを見て、(戦争だから仕方がない)と自分を正当化する気持ちと、(たくさんの命を奪ってしまった)という自分への嫌悪感に揺さぶられ吐き気がしていた。
背後にいる兵士たちは歓声をあげ大喜びしていたが、私は灼熱の陽光を浴びながら震えが止まらないでいた。
もうひとつの場面は二十二歳の私が王宮の広間で断罪されるところだった。
「アウーラよ。お前は他国と手を結んで我が国に大洪水を起こした。多くの民を殺し国を破壊した罪、命を以って償え」
「違います!あの雨は私が降らせたのではありません!他国の話も嘘です!陛下!私をお疑いになるのですかっ!」
もうすぐ結婚するはずだった若い国王は何も答えず、汚らわしい物を見るような目つきで私を見下ろしていた。王の近くには自分の娘を王妃に据えたがっていた宰相が愉悦にまみれそうになる顔を必死に整えて立っていた。
「汚らわしい女め!そんなに豊かな国の王妃になりたかったのか!」
「陛下、民衆は家族を失い、悲しみと怒りで我を忘れております。アウーラを処刑しなければすぐにでも民の怒りが国に向かうことは間違いありません」
陛下と宰相の言葉に絶望する。私はこのままでは殺されてしまう。贅沢が好きで国王にすり寄っていたあの娘が私の代わりに王妃になるのか。
「私はやってません!信じてくださいっ!」
更に場面が変わり、二十三歳になったばかりの私は木製の台にうつ伏せに押さえつけられている。肩から先を台から出した状態で民衆の前に晒されていた。自白を求めて続けられた拷問と何ヶ月にも及ぶ牢獄での暮らしで私は汚れ、やせ細り、全身は傷跡だらけだった。
「父さんを返せ!」
「私の赤ん坊を返せ!」
「息子の仇!」
「死ね!死んでしまえ!」
たくさんの罵声が私にぶつけられる。
「違う。私がやったんじゃない」という私のしゃがれた小さな声は誰にも届かない。呪文が唱えられないように喉は焼かれていた。
大雨と洪水は砂漠では極めて稀な自然災害だったけれど、私の水を生み出す魔法を知っている人々は誰もそれを信じてくれなかった。
下向きに押さえつけられたまま顔を左に向けると、私を断首する処刑人の足が一歩踏み込むのが見えた。そして次の瞬間、私の意識は暗闇に落ちた。
おぞましい記憶に、八歳の私の目から涙がこぼれた。
・・・・・
「アレシア、身体を拭きましょうね」
「うん。お母さん、ありがとう」
今世での母が私の身体を優しく濡れた布で拭いてくれる。私の心はもう八歳のアレシアではなく二十三歳のアウーラなのだが、こうして優しく母に世話をされるのは嬉しかった。前世の親は貴族で、我が子を権力者に差し出すのと引き換えに地位とお金を受け取るような人たちだった。
「お母さん、そろそろここを離れた方がいいと思う。雨の範囲が広くなってるから、そのうちここは見つかるわ。人が多い場所の方が雨が降っても私の力だと見破られにくいと思う」
私の身体を拭いていた手が止まる。
「そうよね。お父さんともそれは話し合っているんだけどね。ここまで広げた農園を捨てるのが忍びなくてね」
「気持ちはわかるけど、ここが見つかれば水の出どころを問い詰められるわよ。雨の出どころが私と知られれば私は母さんたちから取り上げられるに決まってる。そうなればここはあっという間に元の砂漠に戻る」
母が目をパチパチさせながら私の顔を見ている。
「雨が降っても私が原因だとわからないように人が多いところへ行こうよ。私が原因だと知られない限り、ずっとお母さんたちと一緒にいられるはずよ」
「アレシア。なんだか今日は大人みたいなしゃべり方をするのね」
しまった。
「そうかな?あちこち痛いからいつもと違う喋り方になってるのかも」
父は決断が早かった。
その夜、父は私が横になっているところに来た。
「母さんから聞いたよ。父さんもお前と同じ考えだ。ここまで農園が大きくなればいずれ見つかる。見つかれば終わりだ。みんなでどこか人が多い場所に引っ越そう。農園はまた最初からやり直せばいい」
「ありがとう、お父さん」
父は「ナタンたちにも話をして来るよ」と言って隣の家に出かけて行った。
ベッドの上で私はホッとした。権力者に見つかりたくない。見つかればまた私は利用されてしまうだろう。
砂地に転がるたくさんの死体が瞼の裏に甦る。そして私に向かって一歩踏み込む処刑人の足の動きも。
ブルブルブルッと頭を小さく振った。あんな人生は二度と嫌だ。私は今の両親が大切だ。今の穏やかな生活を失いたくない。