29 ヤエル婦人(1)
理由があって夫人ではなく婦人となっています。
「君は、バルワラの言葉に興味があるの?」
図書館を出て公園の木陰のベンチでお弁当を食べていたら図書館から出てきた男性に声をかけられた。メガネをかけたその人は二十代半ばくらいだろうか。赤みの強い茶髪で同じ色の瞳をした人だった。
「何回か見かけたけど、いつもバルワラ語の棚の本を選んで書き写したり読んだりしてるでしょ?」
イーサンはおじさんと出かけていて今日は私一人だ。私はいつでも逃げ出せるようにお弁当をベンチに置いてリュックを手に持った。それを見て男性が苦笑して少し後ろに下がった。
「怖がらせたなら申し訳ない。僕はミハイル。駆け出しの学者だよ。バルワラ語なら問題なく話せるから、わからないことがあったら教えられると思ってね。僕の母はバルワラの出身だからバルワラ語に興味を持ってくれたのなら力になりたいと思っただけだよ」
そういうことか。いや、ほんとかな。私は肩掛け鞄を握りしめていた手の力を少しだけ緩めた。
「教わりたい気持ちはありますが、知らない方と親しくすると親に心配をかけますので。残念ですが」
本当に残念だ。独学だと読み書きは学べても『聞く話す』は難しい。この人が女性だったら誘いに飛びつくのに。そんな気落ちが顔に出ていたのだろうか。ミハイルという人は更に提案してきた。
「うちの母は僕がいない間は一人きりでね。じゃあ、よかったら僕の母に習う気はある?母の話し相手をしてもらうんだからもちろん授業料は不要だ。母はバルワラ語の話し相手が欲しそうなんだよね」
「ええと、では友人と一緒でもよければ」
「もちろんいいよ。じゃあ、うちはここだ。昼間だったらいつでも連絡無しで来ていいよ」
ミハイルさんが紙に住所を書いて渡してくれた。古い住宅が並ぶ地区の名前が書いてあった。
ミハイルさんの家には護衛代わりのハキームと行くことになり、家の前までは父が荷馬車で送ってくれた。ハキームは出会った頃とは別人のようにすっかりたくましく成長していて、身長も急に伸びた。なので私の用心棒役を頼むことがたまにある。
その家は古いけど立派な建物で、広い庭にはたくさんの草花が咲いていた。敷地内に井戸か湧き水があるということだ。
「アレシア、これは、貴族様じゃないのか?立派過ぎるな」
「父さんもそう思った?私たち先触れもなしで来たけど本当にいいのかしらね」
「俺、貴族の家なんて入ったことないよ」
さて、どうしたものかと思っていたらドアが開いてミハイルさんと母親らしいふっくらした体型の女性が出てきた。五十代後半と思われる女性は満面の笑みでこちらに手を振っている。髪の色がミハイルさんと全く同じ色の赤みの強い茶色だった。ミハイルさんが走って来てツタ模様の門を開けてくれた。父は安心したらしく挨拶だけをして帰って行った。
「まあまあ、ようこそ我が家へ。ミハイルの母親のヤエルです。ヤエル婦人と呼んでくれる?こんな若い人が二人もいらっしゃるなんて。さ、中へどうぞ。井戸で冷やした瓜とポンカがあるのよ。お好きかしら?」
「はい、大好きです」
ハキームが笑顔で答える。
「じゃ、僕は出かけてくるよ」
「行ってらっしゃい」
ミハイルさんは出て行き、私たち三人になった。ヤエルと名乗った婦人は家に入ると身軽に動いてお茶を淹れて瓜とポンカを並べてくれた。お茶は甘い香りのする美味しいお茶だった。
「バルワラ王国で飲まれているお茶よ。懐かしくて取り寄せているの。それで、あなたはどうしてバルワラ語の勉強を?」
「いつか他の国に行ってみたいんですけど、実際はなかなか行けませんので。せめてバルワラのことを本で読んでみたいと思ったんです。この国の言葉に翻訳されている本ではなく、バルワラの庶民の暮らしぶりがわかるようなバルワラ語の本を読みたいのです。それに話せるようにもなれたらもっといいなと」
「まあ。なんて嬉しいことを。私はバルワラ出身で身内は息子だけなのよ。だからバルワラ語を忘れそうで寂しかったの。それに近所の同年代の方とは意見が合わなくてね」
「もしよろしければ意見が合わない理由をうかがってもいいですか?私もお気に障ることを言ってしまうことがあるかもしれませんから」
ヤエル婦人が(ほう)という顔をした。
「あなたたちが生まれるずっと前にこの国で大洪水があったのは知ってるかしら?あのことに関してバルワラ出身の私はこの国の人たちと意見が全く違うのよ。一度それでちょっとした口論になってからは笑顔で挨拶はするんだけど、ね」
ヤエル婦人はそう言って苦笑した。
「この国の人たちはあの洪水は魔法使いが引き起こしたと思っているでしょう?でもバルワラでは誰もそんなことは信じていないわ。あれは自然が起こした洪水なのよ。あの件で水の魔法使いが処刑されたわよね。しかも魔法使いとバルワラが密約していたなんてでっちあげを広めて」
「え?」「どう言う意味ですか?」
私とハキームが同時に尋ねてしまった。
「シェメル王国に甚大な被害を与えたあの雨はバルワラにも移動して大雨になったの。結構な数の建物が被害に遭ったわ。なのにこの国の魔法使いがバルワラと手を組んで大雨を起こしたなんて、筋が通らないじゃない?私が『アウーラは無実だ、誰かに罪を着せられたんだ』って言ったらもう、激怒されちゃって。最初はそれでも仲良くしようと頑張ったけど、年をとったらそんな気力もなくなったわ」
ヤエルさんは私達に身振りで果物を勧めてくれた。
「それにアウーラを王妃に迎える約束をしていたなんて、全くのでたらめよ。当時の王妃は国の教育改革に大きな成果を出していた方で高く評価されていたもの。バルワラは水に不自由してないんだからその王妃を退けてまでアウーラを王妃に迎える必要がどこにもなかったのよ」





