22 夜の訪問者
貧民街の、とある家。
若いハセンは熱に苦しむ妻の手を握ることしかできなかった。
妻が子を産んでから熱が下がらない。もう二十日以上もダラダラと熱が続いている。赤子には貰い乳をしてしのいでいるが、妻は食欲を失い水を飲むのがやっとだ。
(もうだめかもしれない)
昨日から妻が眠りながらうわ言を言うようになった。きっと血の中の毒が頭に回ってきたに違いない、と絶望する。
(神様……)
妻が死んでしまったら赤子をどうすればいいのか。働きに出ている間、誰に赤子を預ければいいのか。貰い乳をさせてくれる近所の奥さんだって、このまま赤ん坊を預かってはくれないだろう。彼女は「私もそんなにたくさん乳が出てるわけではない」と申し訳なさそうに言っていた。
ハセンが答えの出ない悩みで途方に暮れている時、ドアがノックされた。こんな遅い時間にいったい誰だろうかと訝しく思いながらドアを細く開けた。
「はい」
「奥さんを助けに来たよ」
老女の声がして、ハセンは大きくドアを開けた。
「あなたは?」
「それは聞かないでおくれ。奥さんが重病だろう?助けてあげられるかもしれないよ」
「ありがたいけど我が家には今、銅貨くらいしか金がありません。でも助けてくれるなら俺、働いて少しずつ返しますから!必ず返しますから!どうかお願いします」
ハセンはその人物を医者か薬師だと思い込んでいた。その老女は目深にフードを被りコートですっぽりと足首まで体を隠している。老女は家の中を見回した。
「いや、代金はいいよ。この暮らしじゃ奥さんに食べさせる物を買うほうが先だね。あんたの奥さんを治せるかやってみるよ。だけどひとつ条件がある」
「なんでも、なんでも言うことを聞きます。命と家族以外ならなんでも差しあげます!」
老女はフードの中で小さく微笑んだようだ。
「命も家族も貰う気はないよ。条件は二つさ。私のことを絶対に誰にも話さず、自力で治したと人に言うこと。もう一つはこれから渡すものがもう一度使えたか使えなかったか報告すること」
「それだけ、ですか?」
「ああ。私のことを話さなければ、代金はいらないよ。人に聞かれたら『女房は病を自力で乗り越えた』と言えばいい。だけど……私のことを話したら……」
意味深に言葉を濁す老女にハセンは何度もガクガクと頭を上下に振った。
「話しません。絶対に。絶対にです。約束します。ですからどうか!」
頭の隅で騙されてるのかもとも思ったが、金は要らないというのなら妻が死にかけている今、これより悪いことなんてないのだ。ハセンはすがれる物なら何にでもすがりたかった。
老女が妻の容体を詳しく聞いてくる。正直に答えた。昨日からうわ言を言い続けることも。
すると老女は妻の様子をジッと見た後で懐から白いツヤツヤした布を取り出した。そしてその布を妻の頭から腰の下あたりまでかけた。そしてしばらくじっと白い布越しに妻をそっと擦っている。ハセンは慌てて膝を床について祈った。(あの布は?)と思いつつ。
三、四分たっただろうか。老女が白い布を外すと妻は目を開けてキョロキョロしていた。荒かった呼吸も穏やかだ。
「ガシュナ!目が覚めたのか?」
「ハセン、水が飲みたい。それにおなかが空いたわ」
意識が朦朧としてうわ言を繰り返していたはずの妻が、はっきりした声でそんなことを言う。
「ガシュナ。ガシュナ。ああ、神様。ありがとうございます!」
泣きながら老女に抱きつこうとしてヒラリと避けられた。
「アタシは神様じゃないよ。いいかい。この布は置いて行く。また家族やお前さんに何かあったら遠慮せずに使ってみておくれ。具合の悪いところに布を当てるだけでいい。効果があったか無かったか、教えてほしいんだ。もう一度使ってから入り口の右下辺りに、そうだね、あんたの家は植木鉢にしようか。植木鉢を置いておくれ。それを見たら詳しく話を聞きに来る」
「わかりました。それだけでよろしいんで?」
「私のことも布のことも人に言わなきゃ、それだけさ」
妻のガシュナはその夜から食べ物をもりもり食べて乳を出し、赤子に飲ませた。
その後、ガシュナはすっかり元気なままだ。しばらくして赤ん坊がアセモになったのであの布を当ててみた。妻のときのような劇的な回復はしなかったが、アセモは少しはましになったようだった。
言われた通り入り口の右下に植木鉢を置いて三日ほどたった夜。
あの老女がまた訪れた。
「なるほど。奥さんは相当悪かったからね。この布は力を使い果たしたようだね。もう一度繰り返すけど、私のことを喋ったら残念なことになるかもしれないよ。今後どこかで私を見かけても知らん顔できるかい?」
「わかってます。絶対に誰にも言いません。知らん顔もします!」
こんなすごい力を持つ老女との約束を破ったらどんなことになるのか。想像したが恐ろしいことしか思いつかなかった。夫婦は揃って頭を下げた。老女は椅子から立ち上がった。
「それじゃアタシはもう行くよ。植木鉢はしまっておくれ。それであんたたち、貧しくて医者にかかれない人でとても苦しんでいる人を知っているかい?病気だけじゃない、怪我でもいいさ」
「それなら……」
妻のガシュナが一人暮らしの男性の話をした。ガシュナが以前勤めていた雑貨屋の向かいにいたその男性は、関節炎で長い年月を苦しんでいた。杖を使ってどうにか暮らしていたが、近いうちにその暮らしが立ち行かなくなるのは見えていた。
「そうかい。もしその男の具合が良くなっても、アタシのことをその男と話題にしないと誓えるかい?」
「誓います!」
夫婦が声を揃えた。
老女はガシュナが「せめてこれを」と渡した自作の編み物の帽子を受け取って帰っていった。
それから何ヶ月か過ぎて、家族三人で妻の元の仕事場に顔を出した。
妻の病気のことを知らない店主は三人にお茶を出して赤ん坊に笑いかけ、陽気に世間話を始めた。
「ガシュナ、向かいに住んでいたヨアキンじいさんを覚えているかい?」
「ええ。体中あちこちとても痛そうでしたよね」
「それが突然治ったんだよ。今じゃ杖も使わないで暮らしてるさ。急に痛みが消えたそうだよ、あんなことがあるんだなぁ。驚いたよ」
三人で家に戻る途中、ガシュナがぽつりとつぶやいた。
「ねえハセン。私のことも誰かがあのおばあさんに教えてくれたのよね?」
「そうか。そういうことだな」
「誰かわからないけど、ありがたいわね」
「そうだな。本当にありがたいことだな」
二人で並んで歩く。ガシュナが腕の中で眠っている赤ん坊に話しかけた。
「坊や。私の赤ちゃん。この世には善人が思ったよりたくさんいるらしいわ」





