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第九話 狂気

 その場の全員に驚愕と、それから戦慄が走った。

 当たり前だ。

 話しに集中していたとは言えど、いとも容易く船内に侵入を許したのだ。

 それは、ルチルにすら戦慄を与えるに相応しい所業だった。


「……お、お前!? 魔界軍師!?」


 トマシュが立ち上がった。

 実に間の抜けた台詞。


「見張りは!?」


 アンドレに至っては、敵にそれを訊く始末だ。


「ええ、いらしましたわよ? いただけで役には立ってませんでしたけど。ああ、ご安心を。殺してはおりませんので」


 言いながら、ゲルダはハンカチの様な物を投げ捨てていた。真っ赤に染まった細くか弱い拳を拭いとった、ハンカチだったと思われる物を。


「てんめぇ、何しに来やがった!?」


 いきり立った海賊の一人がゲルダに殴り掛かろうとした。

 が、

 それよりも数段早く、その海賊は鼻を折られて仲間にもたれ掛かるように倒れ込んだ。


「何しに? って決まってるでしょう。うちの船長が申しましたわよね? 『二度と俺の前に姿を現すな。もし現れれば、その時は必ずぶち殺すからな』と」


 ぶちのめされた海賊のシャツで血濡れた拳を拭い、ゲルダはつまらなそうに言った。

 口調こそつまらなそうではあるが、

 

「だから、皆殺しに来たんですわ」


 ゆっくりと持ち上げられたその顔には、狂気の花が狂い咲き、狂喜の色で塗り潰されていた。


「っひ!?」


 ゲルダに目の前に立たれた海賊の口から小さな悲鳴が漏れた。




 ゴオォォォン!!



 それと同時に外から爆音が聞こえ、同時に船が大きく揺れた。


「うわっ!なんだど?」

「こ、こりゃー砲撃か!?」


 海賊達が次々に声を上げた。

 船体の揺れに合わせて誰しもがバランスを崩す。ルチルですら、リオのベッドに手を付いた。

 一人を除いては。

 揺れに全く動じること無く、ゲルダは大きく手を広げると、天を仰いだ。

 そして、まるで歌い上げるような伸びのある声で、高らかに放ったのだ。


「いっつぁ、しょぉーたぁーいむ!!」


 激しい揺れの中、トマシュは何とか立ち上がった。


「お前の差し金か!?」


 その問いに、ゲルダはさも嬉しそうに答えた。

 

「あなた達、信じてないのでしょう? 私が本気だって、こ・と♪」


 それはまるで、幼い少女の様ですらあった。


「正気か!? こんな場所でドンパチ始めたら、お前ら海賊として生きていけなくなるぞ!?」


 トマシュの言ったことは事実であった。

 海賊の楽園は、港街と同様に暗黙の中立地帯。ここで戦闘レベルの問題を起こすことは、世界中の海賊と敵対することと同義だと捉えられているのだ。


「おバカさんだこと! 私達、海賊からは足を洗ってますのよ? それに、沖まで出てるまで待つなんてまどろっこしくて。だって、少しでも早くあなた達を殺して差し上げたいんですもの」

「い、イカれてやがる! ここにいれば自分だって危ないってーのに、それでも攻撃が優先かよ!?」


 常軌を逸しているその返答に、トマシュはド肝を抜かれていた。


「にゃはは! その点は心配ご無用ですわよ。私はすぐにお(いとま)しますから。私が戻ったら、一斉砲撃が開始されますので」


 口許に手を当て、嬉しそうに笑う魔界軍師。

 早く殺したくて仕方がないのか、言い終わる前には既に(きびす)を返し始めていた。

 

「あっそぉー」


 ここでようやくこの女が口を開いた。


「んじゃ、あんたが戻らなければ、攻撃は始まらないんだねぇー。良いこと教えてくれて……」


 言いながらルチルはトマシュの体を押し退け、ぐいっと前に踏み出した。

 その瞳の中では、真っ黒い光が更に強い輝きを放っていた。

 恐ろしい程に自覚していた。

 ここまで怒りを感じたことは、未だかつて無いと。


「ありがとうねぇ!!」


 ルチルの姿を捉えたゲルダの顔から更に笑みがこぼれた。

 もはやこれ以上の至福は無い。

 そんな、とろけるような、狂気に満ちた笑顔だった。


「にゃははぁ! 来ましたわね、バカ女!!」



 ―――二人の攻防は熾烈を極めた。


 ルチルは、戦闘を行わない。行えないのではなく、行わない。その意思がないから。

 もし行うとしても、ルチルの戦闘スタイルは特殊であり、投げ技や関節技を主体とする。要するに相手の生命を奪うことを極力避けるのだ。

 そのルチルが、遂に打撃技を解禁した。

 どうしてルチルが打撃を避けてきたのか。

 それはルチルが、強いから。

 そしてゲルダもまた、並の戦士では相手にならぬほどに強い。


 恐らく今ここで、彼女らの動きを捉えられているのはトマシュくらいのものだろう。

 スクードがいたとしても危ういかもしれない。

 それほどまでに速い攻防が、この狭い船内で繰り広げられていた。


「にゃっはっはっぁー! いい! 実にいいですわぁ!! あぁー! 最高に感じますわぁ!!!」


「気持ち悪いんですけどぉ! このサイコ女ぁ!!」


「もっとよ! もっと来なさい!」


「うるっさいなぁ! ちょっとは黙れないの!!」


 今度は前のような遊び半分の絡み合いではない。

 互いに本気を出し合った、正真正銘の削り合いだ。

 二人の全力は周囲に影響すら与えない。互いに互いの急所しか捕らえておらず、一切的を外さないし、その全てを受け止め合っていた。

 だからこそ、極限の力のぶつかり合いにも関わらず、船体や周囲の者に傷ひとつ付けずの打ち合いが可能なのだ。

 双方の力はほぼ拮抗しており、この攻防の長期化は必至と見られた。

 



 ゴオォォォン!!

 ドォォォォン!!


 それを遮ったのは二発の轟音だった。

 船は再び大きく揺れた。


「あら、もうそんなお時間なのね? 残念ですわ」


 言葉を放つや否や、ゲルダはルチルの拳を受け止めずに逸らしながら、距離を取るように後ろに引いた。

 勢い余ったルチルは船室の壁を大きくぶち破ってしまった。

 その隙が仇になった。

 ゲルダの蹴りがルチルの背中をまともに捉えた。

 背後からの攻撃にルチルは反応すら出来ず、船室の壁にめり込んだまま動かなくなった。

 トマシュには分かった。

 それまでの驚異的な攻防すら、ゲルダには遊びに過ぎなかったのだと。


 ゲルダはくるりと反転し、船内を駆けて行った。


「おい!? まさか!?」


 ゲルダの向かった方向に、トマシュは更なる戦慄を覚えた。

 その方向は……ルチルの私室。そしてそこには……


「あいつまさか、スクードを!?」


 トマシュが飛び出した時には既に遅し。ルチルの私室の扉は破られ、甲板へと駆け出るゲルダの後ろ姿しか見えなくなっていた。

 スクードを軽々と担ぎ上げて走るゲルダの後ろ姿しか。


「ふざけるな! 待てよ!」


 トマシュを先頭に、海賊達も甲板へと飛び出した。


 そこで待っていたのは、


「な、なんだこりゃあ!?」


 ドクロの背に翼が描かれた海賊旗を掲げた、無数の海賊船だった。

 砲門を全開にし、放射状にハイバリー号を取り囲んでいたのだ。


「にゃはは。もし暫くしても私が戻らなかったら、総攻撃を始めるようにユーゴー船長にお伝えしていたのですわぁ」


 足元にスクードを下ろし、大きく手を広げたゲルダが再び天を仰いだ。


「最初からあなた達の負けだったのよぉ!」

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