第一話 旅人の背中
あれは、そう。今から九年前の話だ。
―――朝っぱらから俺の名を呼ぶ声がする。
もちろん、母親から朝飯に呼ばれてるとかそんなんじゃない。なんせここは孤児院なんだからな。
一応は朝飯とかは用意されてるが、それこそ他の連中と一緒に食おうもんなら戦争と変わらねぇ。
がっついた犬みてぇに早い者勝ちで食い散らかしやがるからな。
俺はそんな連中と食卓を囲むなんて死んでもごめんだ。
「おーい! スクードぉー!」
二階にある、散らかし放題のタコ部屋にも近い子供部屋に残るのは俺一人。
俺はゆったりと窓を開けると、声を上げる主を見下ろした。
「早くしろよ! 行こうぜ!」
そこにあったのは見知った顔……ながら、どこのどいつなのかはよく知りもしない、とりあえずここしばらくは連んでいる連中のものだった。
「ああ」
俺は素早く窓の隙間から体を滑り出させると、息の詰まるようなこの腐った掃き溜めから、仲間達の待つ外界へと逃避したのだった。
―――今思えば、それもこれもただのガキの我が儘だし、粋がりだって言われちまえば返す言葉もない。子供ってそんなもんだとは思うけど、やっぱり自分自身で恥ずかしくなる時もある。
当時の俺は、品行方正な生活態度を求められる孤児院に対して相当な嫌悪感を抱いていた。
贅沢な話だよ。俺らみたいな身寄りのないクソガキどもを無償で預かって、衣食住の全てを与えてくれるんだからな。回りの子供達も皆気の良い奴らばかりで、いつだって俺みたいなクズにも優しく接してくれてたっけ。
そんな当たり前のありがたさも理解できなかったクソみたいな子供はさ、いつしか自分自身で檻を作り、孤児院の外に居場所を求めていたんだ。
始めは徘徊してるだけだった。
ある時、街の子供に絡まれて喧嘩になった。
俺は自分がそこそこ強いんだって、その時初めて知った。
友達ができた。
そっからはもう止まらなかったよな。悪い仲間ってのは次々と近付いてくるもんだ。
弱そうな奴を見付ければ喧嘩を吹っ掛けて金品を巻き上げる。商店の店先に並べられた品物はかっぱらう。気に障ることがあれば腹いせに他人の家の物を壊す。
まだ十歳のガキだったからこそ女に手を出さなかったことと、動物に手を出さなかったことだけは、思い返してみてラッキーだったように思うわ。
とにかくだ、俺の生活はそんな毎日の繰り返しだった。
それでだ。
まぁ、大人からやるなって言われることをやるのが、そういうクソガキにとっちゃあ何よりも楽しいことなわけでさ。
俺達は数人の仲間で連れ立って、街の外に遊びに出るようになっていた。
比較的治安の良い、水の都と呼ばれる俺達の住む街には大きな塀なんかは設けられていない。この街のある島自体に大して強い魔物なんか棲息してないし、諸々の事情もあって他国からの侵略の心配もない土地だ。
わざわざ国費を割いて防備を固める必要なんてないんだそうだ。
が、まぁ弱くても魔物は出るし、魔物に襲われたらそりゃ危ないからな。
だから、子供は街の外に出るなって言うのが大人達のセオリーだった。
言っても街の周辺だ。普段だったらほとんど魔物なんかには出くわさないし、まぁ獣に悪霊が乗り移った程度の弱っちい魔物が走り抜けているくらいだ。俺達は、スリルを求めてちょっとだけ街道を進んだ森の外れまで足を伸ばすようになった。
もう何度も外で遊んでいた俺達は、正直に言えば油断していたよな。
まさか、こんなところで島で一番凶悪な魔物である、ノッカーと出会うなんてさ。
ノッカーってのは、鬼の一種でさ。
地方地方で呼び方は異なり、コボルトとかノームとかレプラコーンとか色んな名前があって、まぁ今の俺からしたら大した相手でもないんだけど、その当時の俺達子供の目で見たら、驚異以外の何物でもなかったわけで。
とにかく、思いもよらない危険な魔物の登場に、俺達はビビっちまったんだ。
一目散に逃げ出そうとしたんだけど俺は運悪く転んじまって、おまけに足まで挫いちまったんだ。
仲間達に助けを求めたが、連中は俺には目もくれず、蜘蛛の子を散らすようにして逃げていく。大声で喚いたが、俺を助けようとする奴なんか誰ひとりいなかった。
動けもせずにもがいている子供なんて、これ以上ない据え膳だよな。そんなん仮に俺だとしてもそう思うわ。
ボコボコした面をしわくちゃにして、笑っているんだろうな。嬉しそうに俺の方へと歩み寄ってきた。
ノッカーが俺のことをこん棒で殴ろうとした時だった。
たまたま通りかかった旅人が俺の上に覆い被さったんだ。
こん棒を背で受けた旅人はそれでもノッカーを振り払うと、怯むことなくそいつに挑みかかった。
あの光景は今でも鮮明に覚えている。
まるで燕が空を自由に飛ぶように舞い上がると、ノッカーの首を太ももで挟み込み、体を捻りながらそいつを巻き上げたんだ。
ノッカーはそのまま、地面から飛び出していた岩に頭から叩きつけられ、ぐったりと動かなくなった。
ノッカーをやっつけた旅人は、背中を大きく怪我していたにも関わらず、俺を背負い上げると孤児院まで送り届け、何も言わずに去っていった。
頭からすっぽりと真っ黒なフードを被っていたその旅人の顔を、俺は一目も見ることが出来なかった。
覚えているのは甘く、優しい薫りだけだった。
その出来事はそれまでの俺の価値観の全てを覆した。
名前も顔も知らない、見ず知らずの旅人の行いが、その後の俺の人生の指針となった。
俺もあの人みたいになりたい。
それから俺は、街の悪い仲間との付き合いの一切を断ち切り、孤児院の仲間を大切にすることにした。
そして、自分を高めることだけを考えて生きてきた。
いつか、あの旅人と同じことをできるようになる為に。