上
少年は走っている。というより、逃げている。そのすぐ後ろを小太りのおじさんが追いかけている。
少年の手には、1つの林檎が握られている。それはお店の棚に並べられていたものだった。
お金を持っていない少年が、その林檎を手にいれるには、盗むしか術がなかった。
少年は繁華街の中を走る。繁華街には、高級な素材で作られた衣服を着た婦人や、髭を生やし帽子をかぶっている紳士など、裕福な人もいれば、少年のようなみすぼらしい恰好をした、貧困層の人もいた。少年は人と人の間を素早く抜けていく。盗みは手慣れたものだった。小太りのおじさんは、息を切らしながらも、必死に少年を追いかける。けれども少年の速さに追いつけず、少年は人込みのなかへと消えていってしまった。
「ちくしょう、あの小僧め。今度見つけたらとっ捕まえてやる!」
小太りのおじさんは息を切らし、顔を真っ赤にさせながら、自分の店へと戻っていく。
少年は繁華街を抜け、人が少ない路地へと入った。そこでようやく落ち着き、盗んだ林檎にがぶりとかぶりつく。
その時であった。
路地に近づく足音が聞こえた。少年は、先程の店主かと思い、びくりとし、身を縮こまらせた。が、少年のもとに訪れた人は、まったくの別人であった。30代くらいだろうか。ひげをはやした、いかにも胡散臭そうな男。
がたいがよく、背もそれなりに高い。少年と同じように、薄汚れた服をきていたため、少年は、ああ、こちら側の人間か、と思い安堵する。
「お前、それ。」
男は少年に向かって言った。
「それ。その林檎。盗んだもんだろ。」
少年は顔を上げ、男を睨みつける。お前も、あの小太りのおじさんと同じよう、僕を責めるつもりか、といった表情で。
「別に、お前を責める気なんてねえよ。だから安心しな。」
どこのだれかも分からない男にそう言われたところで、信じれるはずもなく、少年は男への警戒心を解かなかった。
男は、やれやれ、といった様子で、少年の前にしゃがみ込む。地面に座っている少年と同じ目線になった。
「お前、名前はなんていうんだ。」
少年は答えない。
それを予想通りだというように、まったく気にせずに、男は話し続けた。
「名前も言えないのかよ。まあ、いい。名前知ったところで、呼ぶわけじゃねえからな。」
少年は、もういい加減にしてくれよ、といった表情を浮かべ、しつこい男から逃げるため、別の路地に移動して林檎を食おうかと考えた。少年は立ち上がる。
「おい、どこ行くんだよ。なあ。俺は悪いもんじゃないって。」
そう言いながら、男は少年の後をついてきた。しつこい奴だ、と少年は思う。相手をするのすら煩わしく、ついてくる男に何も言わないでいた。移動している間にも、男は話しかけてくる。
「やっぱさあ、盗むんだったら、林檎なんてちっぽけなもんじゃなくて、もっと大きいものにしようぜ。」
路地を出たところに宝石店があり、それを見た男は言う。
「あ、ほら! あの店の宝石とかさ!」
まったく口の減らない男に、少年は呆れかえっていたが、男は構わず話す。
「なあ、聞いてくれよ。俺さあ、もう盗みしすぎて、街の奴らから警戒されてんだよな。だから困ってんだよ。そんな時、お前が林檎を盗むのを目にしちまったんだよ。あれは、見事だった。あの店はなあ、盗みには敏感で、常に警戒してんだよ。けどお前は店主の一瞬の隙をついて林檎を手に入れた。お前すげえよ。俺とお前が協力すれば、どんなものも盗めんじゃねーかなって思って、今話してるんだけど。」
そこでようやく、先程とは別の路地にたどり着き、少年は初めて口を開いた。
「おっさんが困ってるのはよくわかったよ。でも僕はおっさんとは協力しないね。僕は生きるために盗んでるんだ。楽しむために盗むんじゃない!」
男は、少年がおっさんと呼んだことに、不満げな表情をする。
「俺はおっさんじゃない。お兄さんと呼べ。もしくは師匠でもいいぞー。お前だって、小僧って呼ばれたら嫌だろう。それと一緒だ。あと、お前は俺と協力する。いいか、協力するんだ。絶対にだ。しないなんて選択肢はないぞ。ついでにもう一つ言っておくが、俺は楽しむために盗みをしているわけじゃねえ。」
少年は男によく聞こえるように大げさにため息をつく。
「小僧はいやだよ。でもお前って呼ばれるのも気に入らないね。」
「それはお前が名前を言わないからだろうが。」
「おっさんだって名乗らないじゃないか。」
男はにんまりと笑って、俺は師匠だからな、師匠と呼べばいい! と言う。
少年は、表情の筋肉を最大限に使って、呆れた顔をした。その後、男のしつこさに折れ、名前を名乗る。
「僕の名前は、ゾンだよ。」
男は嬉しそうに、ゾンの頭にポンと優しく手を置いた。
「よろしくな。ゾン。」
まるで名を名乗ったことが、仲間になった証拠でもあるように、男は振る舞う。
もうどうでもいいや、といったように、ゾンは返事をする。
「よろしく。師匠。」
それが、ゾンと師匠の出会いだった。




