カンタス
東京が冬になる前におれはオーストラリアに渡り、名前をジェロームにした。本名は大村和人といったが、まったく似つかわしくなかった。わずかばかりの退職金を手に、使い古したリュックサックを背負った。カンタスの機内は快適だ。シドニー行で往復五万。シーズンを考えれば上出来の値だ。片道分は二束三文で売ってしまえばいい。
座席はトイレの脇。それで合計四度、おれは見ず知らずのクソの匂いをたんまりと嗅いじまった。そしてあまりにも偶然な話だが、スチュワーデスの一人は昔おれが逃がした女だった。さっそくおれはその女に言い寄った。
「あのことをばらされたくなかったら、おれをファーストクラスに替えろ」
女はちゃんと憶えていた。あの時おれが女のために払った代償を、姿を眩ましたあとでゆっくり計算でもしたんだろう。ものの一分で、おれは伸ばす足も届かない席でクリュッグを注文していた。
食事が済む。基本的にはベジタリアンで通していたおれも、このときばかりは旅路の祝祭の意味もあって子羊のローストを頬張った。おれは油にまみれた手でさっきの女を呼び寄せた。
「ジーナ」
そうか、それが今の名前か。
おれたちは便所のドアを閉めた。さて、何かがいけなかった。カンタスの制服はあまりそそるものじゃない。むしろそれは、おれのアレをげんなりさせ始めた。急いでおれは制服を脱がせた。足場が定まらない。無理な体勢で足がつった。女はおれの苦労も知らずに、さらに上空3000メートルまで昇りつめていた。いきっぱなしだ。しかし遅からずおれもいった。窓の外に綺麗な白雲が勢いよく棚引いた。
おれはシドニーのタラップを降りた。街に重なり合うオリンピックの残骸を抜けだし、町外れに寂れた白いホテルを見つけ当座の宿と決めた。オヤジが宿帳をおれに差し出す。おれはそこにジェロームと書き記した。