プロローグ
K・ディックとブコウスキーとエリクソンが好きでした。
ハンドルを握るおれの指先が不自然な色に染まっていた。少し赤みがかった青紫。ここは晴海から本牧へ向かう真夜中の湾岸道路で、旧式スパイダーのスピードメーターは160㎞を指していた。バックシートからはいつぞやのマックポテトが異臭を放っていたが、窓を開けるには少し肌寒い半端な季節で、おれは断念して指先の臭いを嗅いだ。さっきの女の匂いがした。れんげ蜂蜜のようなフローラルで甘い香り。そうか、下着の色だ。前戯が長すぎたのだろうか? それにしても色落ちなんて初めてだった。青紫色の指をハンドルに踊らせながら、おれは一人ほくそえんだ。
ラジオをつけてみる。心地よいダブミックスが車中を満たした。風の音、エンジンの音。気だるいディレイエフェクトがおれを過去の思い出の中に誘った。そう遠い過去でもない。心の奥底に刻まれた永遠の女。おれの愛を蓄えたまま、突如目の前から姿を消した幻の女。
ハイウェイがカーヴにさしかかると、月の黄色い光が車内に射し込んだ。何かが起こりそうな強烈な明かりだ。呼応するように指の青紫が黄緑色に光り輝いた。時刻は午前三時。車はおれのアルファ一台だけのようだった。ダブはもうおれをどこへも連れていきはしなかった。チャンネルを変えた。世界のラジオ局が一斉に消滅してしまったのか。ツマミを回してもノイズだらけだ。
シュボボボボボッと突如隕石が落下し、ヒエロニムス・ボッスの冥界が眼前に開いた。ポップでかなり弾けた出来事だ。おれはもう一度指先の臭いを嗅いだ。すると穴の向こうから、神々しい光が近づいてきた。
おれにはいつだって懺悔の用意があった。おれは救いを求めてその光に手をさし伸ばした。青紫色の指先が真っ赤な血に染まっていった。おれはもがき、無我夢中でその穴を掻き回した。鮮血が顔に飛び散った。PANTONEの色見本にも見当たらないまだ見ぬ強烈な赤だ。おれの懺悔が赦された証だろうか。ファンファーレも鳴っている。禁断の和音を奏でている。
ファァァァァーン
おれが見ていたのはフロントガラスに開いた丸い穴だった。ファンファーレはけたたましいく鳴り響くクラクションの不協和音だ。フロントガラスの向こうは鉄屑の山。おれは廃車工場にでも突っ込んでしまったのか?
おれは車の外に這い出た。湾岸の交差点だ。クロスロードの四つの信号が、繁華街の電光掲示板のように賑やかに点滅していた。
夜空にシャーシを剥き出しにした燃え盛るポルシェからヘッドライトが二つ転がった。マゼラティは縦に真っ二つ、ドライバーも断面図と化していた。
もう一台はエメラルド色のジャガーだ。欠けた右のテールライトがサーチライトのようにおれを照らしていた。おれは運転席のドアを開けてやった。白ジャケットの男が、崩れ落ちるようにアスファルトに頭を打ちつけて片目を見開いた。
「どうした? どこにやっちまった?」
己の惨状を棚に上げて、おれを思いやるそのホスピタリティに笑いがこみ上げた。
「どこにもやっちゃいねえぜ!」
「すっからかんだぜ、おまえ」と上目遣いで男はおれの股間を指差した。
おれはおずおずと自分の股間に目をやった。ズボンは大胆に千切れ、ポケットの裏地からはキーホルダーのハワイアンダンサーが飛び出していた。なくなっている。試しに手をやった。おれのペニスは、そのささくれだった切り株を残したまま完全に消えていた。