スパイダー
つまりは、死ねばいいのだろうか。
流しにもたれて、窓のそとに目をやる。外は見えなかった。磨りガラスだから。
早朝の空気は冷たく、長袖のTシャツとジャージズボン姿は少し肌寒かった。Tシャツの袖口を小さく噛んで、息を吐いた。
アパートの部屋の中は布と綿たちでいっぱいだった。秋の準備をしようと思い、こたつや羽毛布団を一斉に出してみた。ちょっとハリキリすぎたのか、前までの閑散とした生活感のない部屋の面影は全く無くなり、どこか実家の垢抜けしない自室と似ていた。
毛先の傷んだ長い髪を後ろに払いのけ、私はこたつに潜り込んだ。
そんな事は思っても、実際死なないんだけど。
温度を調節して、足を伸ばす。こたつの上の雑誌をのけて、そこに肘を付いて頭を乗せる。あまり家ではしない体勢。講義の時間はよくしてるのに。
今日はしなくていいんだ。
私は結局、頑張ってしまうから。
今日は大学の講義もバイトも買い物も家事もお喋りも、休暇をとった。
私の親も。急にしごと辞めてしまって、仕送りは当面できないとか。早朝より早く母親から連絡があった。少し疲れた声で、お父さんがまた気まぐれを起こした・・・とつらつら語ってくれた。面倒掛けて申し訳ない、と謝る母親を淡々と流していく。慣れたもんだと言わんばかりに元気な声もかけてあげた。電話を切ったあと、私は、大変だ、と一人呟いた。
親の仕送りがなかったら、やっぱり無理がある。バイトを増やさなければやっていけない。ビリビリと痺れるような衝撃が脳を麻痺させた。不安で胸が苦しくなる。
今まで以上に、大変だ。
なのに、私はバイトを増やすどころか休んだ。
どっと疲れた。もうなんか、今日はどうでもいいやと思った。
早く今日が終わりますように。そう想って、私は怠惰に逃げたのだった。
死んでしまうよりはいいだろう。
部屋の中にうずくまる羽毛布団を端へよけて、壁に掛けてあるコルクボードを見えるようにした。
ボードには十枚くらいの写真が、四角い形のままセロハンテープで適当に貼られていた。
私自身の写真は少なく、代わりに一人の男がたくさん顔を並べていた。
彼は大体真顔や横顔、驚いた表情で写っている。私が隠し撮りしたりいきなり撮ったりしたからだった。
彼の笑顔の写真は私と一緒に写っている写真だけ。ピースしたりして、純粋な笑顔ばかりだ。それと対照的に、私は無表情。仏頂面と言っていいほど笑ってない。
私は一緒に写るよりもレンズの向こうに彼を覗いている方が楽しい。彼の表情や感情をもっと引き出して、この消えない世界に閉じこめておきたいと思う。
一枚の写真をテープと一緒に剥がす。一番気に入っている写真だった。
彼の胸から上をとらえた横長の写真。髪がかかって、顔はよく見えない。彼はグラスを目の前に掲げていて、その骨が浮き出たしなやかで細い指や腕が気に入っていた。
これは私たちが一年の頃、サークルの歓迎会の時だ。私が彼を撮った、初めての写真でもある。
彼は先輩から一年代表で一言言え、と絡まれ、断り切れずに照れながら適当に何か言った。拍手の中、彼は照れてハニカんで、私と目があった。私が微笑むと、彼は急にちょっと真顔になって目を逸らしてしまった。
私は不思議に思って、少し落ち込んで、先輩が乾杯の音頭をとっている間中ずっと彼の横顔を眺めていた。彼の表情を見極めたくて、知りたくて、彼がグラスを掲げたところを手元にあったカメラに納めた。
ボードの横の水色の箱の中には手紙が放り込まれていた。ポストに入っているのを読みもせずに入れておいたものがいっぱいあった。広告や何かのお知らせの他にも大事な手紙も一緒くたになっている。
興味のないものはゴミ箱にねじいれて、他のを整理する。
その中に一通、記憶にハッキリ残っている封筒があった。薄茶色のシンプルな絵柄の封筒。宛名は彼だった。
彼と仲良くなれて、あの表情を閉じこめてしまってから半年と数ヶ月。私は彼に手紙を書いた。彼の前に両手でずいっと差し出すと、彼はそれをまじまじと見つめ、
「何、これ?」
と大真面目に言った。
私は可笑しかったけど、笑わずに手紙だよと説明してあげた。
彼は受け取って、どうしていいのか分からない、みたいにずっと捧げ持っていた。
内容はただの業務連絡みたいなもので、特別重要なものではなかったけど、忘れないようにと思って手紙に書いた。
なんと彼はそれに返事をくれたのだった。
PSに書いた他愛ない世間話に返事をくれた。彼は手紙書いたのなんて初めてだ、と言って私に手渡してくれた。私は本当に驚いて、それで嬉しかった。
こんな予想外で嬉しい事は初めてで、本当に嬉しかった。彼の真摯な字を見る度、胸がいっぱいになる。
予想しなかった所から、消えない世界をもらってしまった。
手紙を読み返す手を止めて、羽毛布団を広げて頭から被った。足は温かいけど肩は寒い。こたつの中と羽毛布団の内部をつなげて暖をとる。
壁掛け時計はもうすぐ11時を指そうとしていた。いつもならもうバイトに入っている時間帯だ。
胸の辺りが、もやもやする。息苦しくて、酸素が足りなくなる。
不安じゃない訳はなかった。バイトに行かないで何もしないで、どうなるんだろうって、不安だ。どうにかなるだろう、なんていつも思ってるような楽天家はもう卒業したつもりだった。だから、死ぬわけにいかないから、でも、だって…、なんて情けない事ばかり言って。
いっそ死ぬって決めるほうがかっこいいな。
私には勇気が足りないと思う。
思い切りスパーン! って決められるような決断力がない。
だから何もない。
私には何もない。
ある日。彼はサークルの部室で私と二人きりの時に話してくれた。
スピッツが好きなんだ、とくにスパイダーが好きで、よく聴いてるんだ、と。
私にiPodのイヤフォンを渡して聴かせてくれた。知ってる曲だった。前に一度聴いたことがある、と言うと、彼は何か喋ったけど聞こえなかった。
改めて、いい曲だと思った。スピッツの曲は、GREEEENとかファンモンとか青春青春って売っているものより青いと思う。昔よく遊んだ神社とか、中学の校舎とかを思い出す。イヤフォンを返して私が素直にそう言うと、彼も微笑んで賛同してくれた。意見があった事が嬉しくて、私が結構大袈裟に喜ぶと、彼はちょっと照れたような顔で、
「この曲聴いたら、好きな人のこと思い出すんだ。すごい大切で、その人のこと、好きだから」
そうなんだ。
そうとしか言いようがない。その時の感情なんて、喩えようもない。私の表情は消えたから、彼にはわからなかっただろう。
なんてな。
私は、みんなが思ってるほどバカじゃなし、気づくんだよ。それくらい。
彼にも分からなかったなんて、ある意味すごいな。
そのある日とは、三日前のことで。それ以来彼とは会えていなかった。
今日休むことも伝えてなかった。だから今日も会えないだろう。
会ったとしても、もう彼は遠くまで奪って逃げてくれたりはしない。
本当に、なんにもない。
不意に流れる電子音に顔を上げた。いつの間にか体育座りで鬱々と塞ぎ込んでいたみたいだ。羽毛布団やこたつ布団の下を見てもなく、ベッドによじ登り手を伸ばすと、枕の傍にそれはあった。朝からずっと存在を忘れていたケータイ。スパイダーの着メロだった。七色に光るフリップを開いて、画面を見ると、彼から着信していた。
通話ボタンを、押す。耳に当てると、雑音は無く、彼の声だけが明瞭に聞こえてきた。
「今日、どうしたの? 風邪とか、引いた?」
一呼吸置いて、返す。大丈夫、何でもないから。
すると彼も何か言いたそうなのだが言わないで、途切れてしまった。彼の息遣いが聞こえる。
「・・・・・・、今、家の前に、居るんだけど。家にいるの?」
バッ! と音がするくらい勢いよく玄関を振り返った。
え? 居るけど、何で来たの。
「心配だったし、その〜、なんか、どうしたんかなって・・・、気になって。」
玄関まで這うように進み、音を殺して近づくと、本当に彼の声が聞こえた。
言葉を無くして立ち上がり、ドアノブに手を掛けた。しかし自分の今の姿を見下ろして、唸り、回すのを止める。
「あのさ、ちょっと、その・・・」
歯切れ悪い彼の言葉が二重に聞こえ、私は仕方なく、ドアを開いた。
「・・・おはよ」
私の適当な言葉には返さないで、彼は目の前で電話を切った。私は二十センチほど開いたドアの隙間から彼を見つめる。
彼はなんだか生真面目な顔で、私に手を差し出してきた。目の前に掲げられていたのは一枚のCDだった。
「これ、もらって欲しいんだ。スピッツの曲」
綺麗な、宝物みたいな貝殻がたくさん散らばるジャケット。フラフラ、手に取る。
「これ聴いたら、思い出して欲しい、俺のこと。俺はずっと、おまえのこと、思い出すから」
しどろもどろ、唸るみたいに彼は言った。言ってる途中に俯いてしまって、顔が見えなくなった。彼の髪がふわふわ揺れてCDにかかる。
「・・・ありがとう」
聞こえてよかった。小さすぎた声に、彼が顔を上げた。ゆっくり目が合う。
私が頑張って微笑むと、彼はまたちょっと真面目な顔になって私の手をCDごと握った。彼の手は温かくて、やっぱりしなやかで、キレイだった。
本当に、なんか。
会ってからずっとだけど。
今更みたいに。
何にもない私に。
また、消えない世界をくれて、ありがとう。