ミミカカレルネコ
吾輩は猫である。
今日も耳を澄ませてご主人の帰りを待つのである。
ここ数日、ご主人は忙しい。
帰りがいつも遅いのである。
どうにもサービス残業というのが大変らしい。
サービスというのは奉仕という意味であるな。
知っているぞ。
奉仕の心を忘れぬとは、流石は我がご主人。
あっぱれな心意気である。
しかし今宵もご主人の帰りは遅い。
時計を見れば長い針と短い針が両方とも上の方に来ている。
まぁ、幸いにも我が一族は皆、夜行性。
食事が遅いのは辛いのだが、夜の方が活動的なのである。
むっ! ドアの開く音が聞こえる。
ご主人が帰ってきたのである。
早速、夕げを……いや、出迎えをしなければ。
吾輩は自慢の尻尾をピンと立てると、ゆらゆらと揺らしながらご主人に近づき「な~ぉ」と鳴く。
なるべく高い声で鳴くのがポイントなのであるな。
その方がご主人は喜ぶのである。
疲れたご主人を笑顔にしてあげるのも吾輩の大切な仕事なのである。
そんな吾輩の誠意が通じたのかご主人は相好を崩す。
「ただいま、しゃもじ……」
むぅ?……笑顔が弱々しいのである。
いつもならここで吾輩を抱きかかえてくれるのだが、今日はそれもない。
スリッパがたてる足音も力なくペタペタと歩いているのである。
これはどうしたことか?
吾輩は「にゃ~ぉ」と鳴いてご主人を気遣ってみせるのだが、ご主人はスーツを脱ぎ捨てるとそのまま浴室へと向かっていく。
そうして仕事の疲れを洗い流したご主人は浴室から出てくると、そのままの足で寝室に向かう。
眼鏡をかけたままベッドにバタリと倒れ込む。
電気はついたまであるが動く気配はない。
むぅ……お腹がすいたのである。
次の日の朝、ご主人はようやくむくりと起き上がり、最初にやったのは冷蔵庫を開けることだった。
もともと朝が強い御仁ではないのだが、今日は特に足取りが重い。
「うぅ……のど乾いた……」
言いながら取り出したのはご主人が愛飲している黒いお茶だ。
「お腹すいた……」
そう言いながらパンを取り出してパンが焼ける箱に放り込む。
バターを塗ってから焼いているので、いい匂いが部屋中に広がっていく。
むぐぅ……吾輩もそろそろ限界なのである。
しかし空腹だとはいえ、浅ましく泣き喚くような行為は誇り高きトラ猫としてはあるまじき行いなのである。
あくまでも優美に吾輩は尻尾を揺らしご主人の前に現れる。
そうして昨晩と同じく、少し高めの声で「な~ぉ」と鳴いた。
「え?……あっ! しゃもじ!!」
吾輩の顔を見てご主人が血相を変える。
どうやら気づいてもらえたようである。
「ごめん、ご飯忘れてたっ!!」
うむ、分かってくれたのなら良いのだぞ。
まずは先に朝げを終わらすがよい。
限界とはいえ、吾輩はもう少しだけならば待てるのだ。
「ごめんねぇ、しゃもじ~」
そうしてご主人はいつもの皿の上にたっぷりと食事を盛ってくれたのである。
ほう、今日は袋のカリカリと缶詰のムキュムキュの両方であるな。
ご主人の気遣いなのであろう。
うむ、実に妙味なり。
ムキュムキュだけでも十分に美味であるが、カリカリと合わせると実に妙なる味わいなのである。
普段からカリカリのことはあまり好きではなかったのであるが、こうして食べるとまるで違った味わい。
見直したのである。
「しゃもじ、お腹すいてたね。いっぱい食べてね」
自らもトーストを齧りながら吾輩を見る。
それに吾輩は髭を震わせ「にゃ~ご」と応える。
「美味しいんだね~、良かったよ」
うむ、吾輩の意は伝わっておるな。
「でも、猫缶とネコドライを一緒にあげるのは今日だけだからね」
むむっ……それは残念。
カリカリだけだとそれほど美味しくないのであるがな。
「じゃあね、しゃもじ行ってくるよ。今日は遅くならないからね」
行ってくるのである、ご主人。
吾輩は残らずたいらげると皿を舐めてご主人を見送った。
その日の晩、ご主人は宣言通りにいつもの時間に帰ってきたのである。
うむ、最近は帰りが遅くて心配していたので何よりである。
その手に持っているのはいつもよりも大きめの袋。
昨日はあまり食べていなかったからな、今日はご主人の夕げも多めなのであろう。
しかしご主人よ。
せっかく黒いお茶を飲んで腹の肉を落とそうとしているのだから、あまり食べるのはいかがなものかと思うぞ。
買ってきたご主人の夕げが温める箱の中でクルクルと回るのを見て吾輩は「みゃ~お」と鳴いて注意を促す。
しかしいつもながらあの箱は不思議なのだ。
なにしろ回っているだけで温かくなるのである。
きっと回すことで冷たくなる成分を追い出しているのであろうな。
吾輩が高邁なる知慮を巡らせている間にも温める箱の中の器は回り、チンと鳴る前にご主人は吾輩の前に夕げを用意した。
「はい、しゃもじ。ご飯だよ~」
ただ、出てきた夕げはカリカリのみであった。
ムキュムキュはないのだな……ご主人。
吾輩は不満げに髭を動かし鼻を鳴らす。
「うんうん、美味しいよね。いっぱい食べてね~」
ううむ、全く伝わってはおらぬな。
だが、致し方なし。
吾輩は愛用の皿に山盛りにされたカリカリを少しずつ齧っては飲み下していく。
そうして食べ終わったあと、吾輩は所定の位置である座卓の上に陣取った。
うむ、満足感は十全ではないが腹はくちた。
今日はこれで良しとしよう。
そうして、ほどよく睡魔が襲ってきたときのことだった。
「むふっふ~、しゃもじ、お待たせ~」
上機嫌な顔のご主人が迫ってきた。
明日は休みだからということもあるのだろう。
ここ最近では一番の笑顔で近づいてきて吾輩を抱き上げて吾輩を撫でる。
最近はご主人はお疲れだ。
こんなときだけでも、吾輩自慢のトラ柄の毛皮を存分に堪能するがよい。
手櫛で梳くようにご主人の白い柚木が吾輩の毛皮を撫で上げる。
そうして思いついたように吾輩に言った。
「よ~し、じゃあ今日はブラッシングしようか」
それを聞き吾輩の耳がピクリと動く。
ふむ、それは悪くない。
嗜みとして毛づくろいを欠かすようなことはないが、それでも吾輩の毛並みが美しくなるのは喜ばしいことだ。
吾輩は「是」と意味合いを込めて「にゃあ」と鳴いた。
出てきたブラシの種類は3種類。
目の粗い、先が丸いブラシ。
目の細かい、固めのブラシ。
目の細かい、柔らかいブラシ。
それらをひとつずつ座卓に並べると、吾輩を膝の上に乗せてブラッシングを始めた。
「よぉし! じゃあ、やるよ~」
うむ、よいだろう。
吾輩はご主人にされるがままにその身を委ねた。
最初に来たのは先が丸いブラシだ。
毛皮に付着した大きな塵をとるために、少し強めに撫でつけられたブラシの先が吾輩の背中を刺激する。
毛先の丸い部分が強張った筋肉をほぐすように皮膚を圧してくれるのだ。
「お客さん、どこか痒いところはありませんか?」
楽し気にご主人は問う。
吾輩は首の後を掻いて欲しくて「み~ぉ」と鳴く。
「背中ですね~。じゃあ、どんどんやっていきますよぉ~」
うぬ? 違うぞ、ご主人。
だが…………まぁ、それもよい。
背中を掻くブラシが実に心地よい。
「じゃあ、次のいくね♪」
ご主人は上機嫌だ。
無論、吾輩の機嫌も悪くはない。
第二のブラシは硬めのブラシ。
吾輩の毛皮を汚す細かい塵をとるために、細く固い毛先のブラシが背中の上を通り過ぎる。
先ほどのブラシと違い、今度のブラシは圧が弱い。
しかしそれは別に問題ない。
今度は皮膚を押すのではなく、毛並みを掻き分けるのが目的だ。
「すい~、すい~、ほら、ドンドン綺麗になっていくね」
ご主人の手が動くたびに目の細かいブラシはその柔軟性を十分に発揮して、毛の上についた塵を弾き落としていく。
ふむ、毛並みが掻き分けられ洗い流されていくようである。
「じゃあ、最後はピカピカにしようか」
最後に使われたブラシはもっとも毛先が、細かく、細く、柔らかいブラシだ。
塵を取り、綺麗になった毛皮を仕上げるためのブラシなのである。
すでに下準備の終わった毛皮にブラシが走る。
毛の一本一本を磨くように柔らかなブラシの先端が吾輩を撫で上げる。
「う~ん、しゃもじ、カッコよくなったよ♪」
仕上げのブラシにより吾輩の毛皮は磨き上げられ輝くような光沢を放つ。
うむ、良いぞ。
実に良いのである。
吾輩は満足げに「にゃ~ご」と鳴いてご主人に感謝の意を告げる。
するとご主人は満面の笑みを浮かべると吾輩を抱き上げた。
「ふっふふ~、今日はこの続きがあるんだよ~」
む? 何であるか?
ご主人の赤い縁の眼鏡がキラリと光っているのである。
言い知れぬ圧力を笑顔の奥から感じながら吾輩が戸惑っていると、ご主人は先ほど持ち帰った買い物の袋の中から円柱状の箱を取り出した。
「今日はね~、しゃもじのためにこれを買ってきました!」
ジャジャンと音が聞こえてきそうであるな。
吾輩は半眼でご主人を眺めていると、ご主人は円柱状の箱の蓋を開ける。
そこには数え切れないほどの白い棒がギッチリと詰まっていた。
むむ? 何であるかな?
当惑を隠せぬ吾輩がキョロキョロと視線を動かすと、ご主人は得意げにその棒を一本取り出して吾輩の前に出して見せた。
奇妙な形状であるな?
白く細い棒、両端が丸く膨らんでいる。
「これはね、綿棒だよ」
めんぼう……であるか?
「んふふ~、これで、しゃもじのお耳をキレイキレイにしてあげるのだ~」
困惑治まらぬ吾輩を無視して、ご主人は吾輩を抱き上げる。
整えたばかりの毛並みが乱れぬよう、優しい手つきである。
うぬ? 一体何が!?
「さぁ、始めるよ~」
上機嫌のままご主人は吾輩の耳を軽く引っ張った。
耳?
もしやご主人、その棒を吾輩の耳に入れるつもりなのか!?
驚愕に身が固まる。
――逃げるか?
瞬きの間に考える。
しかし次に吾輩の脳裏を駆け抜けたのは、先日の耳掃除なる行為だった。
柔らかいティッシュペーパーが繊細な耳の内をくすぐり、汚れをふき取っていく。
身体の内側を弄られる、あの得も言われぬ感覚。
それを思い出し、何とか踏みとどまった。
思考が明滅する間にもご主人の持つ綿棒は刻一刻と近づいてくる。
ええい、ままよ。
覚悟を決めて吾輩は“綿棒”なるものを受け入れた。
最初にやって来た感触は想定していたよりも随分と柔らかいものだった。
三角形の耳の縁をゆっくりと綿棒の先が這って行く。
むぬぅ!?……こ、これは!??
き、気持ちがいいのである。
先日のティッシュペーパーが面で押し寄せる力技ならば、こちらの綿棒は点による緻密な技巧の賜物なのである。
白い綿棒の先は吾輩の耳を鮮烈に刺激する。
「ほ~ら、お耳がどんどん綺麗になっていきますね~」
横目に見た綿棒の先はずいぶんと茶色くなっている。
なるほど、あれほど吾輩の耳が汚れていたということか。
「尻尾もだら~っとして気持ち良さそうだね」
うぬぬ、これは不覚。
しかし恥じ入る気持ちよりも、愉悦が勝るためか身体に力が入らない。
だらりと伸びた尻尾はピクリとも動かないのである。
「んふ~、次はお耳の奥もキレイキレイにしていくよ♪」
ご主人は楽し気に微笑むと綿棒をクルリと逆向きに持ち替える。
そうして耳の奥への侵攻が始まった。
耳を軽く引っ張っられると、普段は直接見えぬ部分が外気に晒されヒヤリとした感覚が走る。
そこは自分では決して触れることの出来ぬ秘密の花園だ。
その隠された部分に綿棒が入り込む。
ぬおぅ!……何だ? この感覚は!?
それは初めての感覚なのである。
秘密の花園に侵入してきた綿棒が触れた瞬間、痺れるような感覚が耳の先から尻尾の先まで駆け抜ける。
痛いわけでもなく、痒いわけでもなく、かといって純粋な心地よさでもない。
ゾクゾクとしたものが背筋を支配して全身が粟立っていく。
「ほ~ら、耳の中をクリクリクリ~♪」
吾輩の意中を察することもなくご主人は耳に入った綿棒をクルリと回す。
すると耳の中をこそぎ取られるような衝撃と快感が脳髄を掻きまわす。
ぬぬぅ、これはいかん。
肉球からじっとりと汗が滲み出る。
なのに四肢にも尻尾にも力が入らない。
今まで一度も触れたことのない秘奥への刺激に全身が対応に困っているのである。
ただ分かっているのは、この綿棒なるものを吾輩は嫌っていないという事実だ。
ご主人が綿棒をクリクリと動かすたびに、ブラッシングされたばかりの体毛がピクピクと呼応する。
あられもなく口を半開きにしている吾輩を見て、ご主人は破顔した。
「しゃもじもすっかり耳かき大好きになったね~」
むむ……業腹ではあるが認めぬわけにはいくまい。
吾輩は『是』と意味合いを込めて「むにゃ~」と鳴いた。
外を歩いている猫を見たときにふと思いついて書きました。
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