小さな食卓-4
日に数えきれないほど思考は沈み、悔恨の念が血流に乗って全身を巡る。決まって最後に血に塗れた彼とグラウの姿が蘇り、その景色から逃避するように意識が現実へ引き戻される。
「大丈夫ですか」
「は……えぇ。申し訳ありません、お茶の最中に」
突然ビクッと身体を強張らせた彼女に、向かいのソファーに座っていた領主が気遣わしげに声をかけた。いつの間にかまた意識が沈んでいたらしいと、彼女は遅れて気付く。
「彼女に水を」
命じられたメイドが手早くグラスに水を注ぐ。
それを眺めながら、彼女はぼんやりともう死にたいと思う。いや、やはり彼と出会ったあの時に、自分は死んでおくべきだったのだと後悔する。
それでも彼女が最期を選びきれないのには、理由があった。
だって、見ていない。
彼女は彼が息絶えるその瞬間を見ていない。
理性は囁く。都合の良い夢を見るな、と。
あの深手では助からない。助からないと踏んだからこそ、この領主も彼女の目の前で留めを刺さずにおくことを許したのだ。
「どうぞ」
勧められてグラスを手に取る。
一口含むが、嚥下する気になれない。
どこかで縋っているのだ。
彼が生き延びている可能性があるのではないかと。
だって、怪我を負って帰って来ては心配する度に彼は言った。
これくらいの傷はすぐ直る、と。治癒力も生命力も人間とは段違いなのだと。
だから、もしかして、という気持ちを捨て切れない。
もし、もし彼が、そしてグラウが生き延びていたら。
あと一目だけでいい。生きているその姿を瞳に焼き付けられたら、彼女の未練は綺麗になくなるだろう。
吹いて飛ぶような希望を捨てられず、だから彼女は今日も生きている。
「気分が優れませんか」
訊かれてようやく彼女は口内の水を飲み下し、曖昧に口の端を上げて問いかけの答えとする。
「貴女の顔には、いつも諦めや孤独が貼り付いている」
「……辛気くさいということは重々承知しております」
「そういうつもりでは」
忙しいだろうに隙間を見つけては彼女の元にやって来る領主は、少し困ったように微笑む。
「……不幸な目に遭ったのですから、そこから心が抜け出すのに時間がかかるのは当然のこと」
不幸な目。彼女を不幸な目に遇わせたのは人狼ではなく、目の前にいるこの領主だ。
けれどそんなことは絶対に理解されない。人間の側から見れば、誰から見ても彼は絶対的な正義なのだから。
「それにそもそも貴女は不幸に慣れきっている様子だ」
「……私はあまり生きて行くことに長けていないようです」
「それは貴女のその見目が原因でしょうか」
見目と生まれ。そして早々に馴染む努力を放棄した自分の怠惰が、今のこの人生をもたらしたのだと彼女は考える。
沈黙を肯定と見倣したらしい。
「分かります」
領主は深く頷いた。
「美しさは時に不幸の色に染まりやすい」
彼もまた見目麗しい。皆から敬愛される、理想を絵に描いたような領主。
「私はあなたをその不幸から救って差し上げたい」
領主の言葉はどれも彼女の表面を上滑りして行く。
彼は疑ったこともないのだろう。
自分の言動の正当性を。真心と偽善の境があることを。
「人狼も貴女のその美しさに、すぐに牙を立てることは躊躇ったのでしょう。それだけは不幸中の幸いと考えるべきでしょうね」
「……信じられないでしょうが、本当にそう酷いことはされなかったのです」
意味がないと分かりつつ、呻くように口にする。
案の定、未だに人狼を庇うようなことを言う彼女を、領主は困ったように見つめた。
「……余程それまでの人生に困難が多かったのですね。すぐには牙を立てなかった人狼の行動を優しさか何かと錯覚してしまうほどに」
錯覚、と言われて驚く。
「それほどに、貴女の心は疲弊していた」
分かったような顔をして、彼女の心を解体して味付けして。
傲慢だ、と彼女は胸中で呟いた。
そして良き理解者の仮面を被ったまま、領主は心底同情を込めて言う。
「可哀想に」
ーーーー可哀想?
恐ろしく的外れで腹が立って馬鹿馬鹿しくて、けれど冷たい水を浴びせかけられたように、心臓がきゅっと縮み上がった。可哀想がられることが、ひどく惨めでショックだった。
憐れまれる覚えのないことで人に憐れまれることほど辛いことはないのだと、彼女は実感として知る。
「人狼のことなど、もう忘れてしまった方が良い」
凍てついた心が囁く。
生きるにしろ、死ぬにしろ、それを果たすのにここでは駄目だと。