小さな食卓-3
もし彼女が普通に暮らしてきた少女で、普通に家族がいて、隣人がいて、友達がいて、心惹かれる誰かがいる、過ごす日々がそんな風だったなら。
そうだったなら、きっと人狼の元から救い出されて心から感謝しただろう。
その後畏れ多くも領主の館に手厚く保護されたことを、幸運だと感じただろう。
けれど現実はそうではない。
彼女は何からも救われていない。
あの後彼女が見覚えのない豪奢な部屋で目覚めたのは、三日も過ぎてからのことだった。
抵抗する彼女を恐慌状態にあると判断して、薬を嗅がしたのだ。
目覚めた彼女の元にやって来た若き領主は、何とか名を名乗ったはずだが、彼女はそれをろくに覚えていない。
"旦那様は徳の高いお方です"
"領民の暮らしにも細やかに目を向けられる"
"まだお若いのに、早くに亡くなったお父様の跡を立派に継いでいらっしゃるのですよ"
執事、メイド、フットマン。あらゆる使用人が領主のことをそう褒めそやした。
嘘ではないのだろう。少なくとも表に見える分は、この領主は統治者の鑑なのだ。
使用人達は主の賛辞に続いて、必ずこう言う。
"あなたは本当に幸運だ。旦那様はきっとあなたの未来を丸ごと保証して下さる"
"旦那様のお優しさはあなたにも染みていることでしょう"
"巡り合わせに感謝しなくては。私はあなたが羨ましいわ"
そのどれもに、彼女はいなすための作り笑いすら浮かべられなかった。
今はまだ、酷い目に遇って心に傷を負っているのだろうと、そのぎこちなさを責められることはない。
初め、目覚めたばかりの頃の彼女は、混乱と絶望と恐怖に自分の全てを絡め取られていた。
今すぐにここを出て、彼を探しに行きたかった。探し求めたその先に、彼の亡骸が転がっているかもしれないと思い至り、悲鳴が喉から零れ出た。
"帰して"
そう繰り返し叫ぶ彼女を、周りが気の毒そうに、あるいは気味悪そうに見た。
"私を彼の元へ帰して"
人狼の元へ帰せなど、気が触れていると思われたのだろう。
"どうも魔に魅入られているらしい。手遅れになる前に祓ってやらなくては"
慈悲深い領主様の一言で、彼女は使用人に連れられて敷地の片隅にある小さな塔に押し込められた。普段使うことがないのだろう黴と埃っぽさを僅かに覚えるその場所で、清めの儀だと聖水を容赦なくかけられた。
生温い水は、彼女の中に巣食う何物をも洗い流しはしなかったけれど。
"彼は悪くない"
"誰も害していないのに"
"どうしてあんな酷いことを"
嘆く度に、まだ足りないと聖水をかけられる。
誰も認めない。彼の存在、彼と自分の未来、心の在り方。
彼女がずっと心の底で危惧していた、二人の異質さをまざまざとこれ見よがしに見せつけられる。誰にも、祝福されない関係。
なのに。なのに自分は彼をーーーー
嘆く、聖水をかけられる、また現実を否定する、清めが足りないと聖水をかけられる。
幾度となくそれを繰り返して、ふと彼女は理解した。
言葉は何も必要ない。嘆きも否定も憤りも、ここでは何の意味もなさない。
理解して、身体の力が一息に抜けた。
抵抗をやめた彼女を、周りがようやく安堵の面持ちで見つめた。
彼女に正気が戻ったと。ようやく魔に魅入られた状態から救われたのだと。
ーーーー馬鹿馬鹿しい。
自分がひどくつまらない尺度に囚われていたことにようやく気付く。
異常だろうが何だろうが、どうでも良い。
人狼と人の間に情が生まれたからと言って、別に誰の命を奪う訳でも、幸せを壊す訳でもあるまいし。
誰に許されないとか、そんなことは本当にどうでも良いことだったのだ。誰に許される必要も、本当はなかったのだ。
自分と彼の間に齟齬がなければ、人狼だろうと人間だろうとそれは実に些末な問題だった。
全ては遅きに失し、あまりに今更過ぎるのだけれど。
彼女は認めているし、許しているし、受け入れている。
彼の自分への愛、人狼としての本性、望まれている未来ーーーーそう、彼の全てを。