小さな食卓-2
第五話「小さな食卓」の続きです。
1は初回投稿後、一度改稿して書き足しています。
「あれ?繋がりが変だな」と思われたら、そちらをチェック頂けると幸いです。
グラウの首にぎゅっとしがみつきながらも、彼女は扉の向こうを真っ直ぐ見据える。心臓は早鐘を打ち、手足の先ばかり感覚が鋭く、全体には上手く意識が回らない。
「!」
「おい、いるぞ!」
扉の先にいたのは、望んでいた彼ではなかった。
松明の灯りを手にした人間。足元には二匹の猟犬。
背後のざわめきを聞けば、見えていないだけで外にはまだまだ人の気配がある。
最悪の、展開だ。
「人間の、女……?」
「は? 何でまたそんな」
「人狼の匂いを辿って来たんだろうが」
「いや、でもどう見てもただの少女だぞ」
「いや待て、狼が……!」
扉の先の光景は、向こうにとっても予想していたものではなかったはずだ。
あまりに奇妙な取り合わせに、動揺が漣のように広がる。
その中で猟犬達が警戒を怠らず、低く唸り声を鳴らしていた。
当然だ。ここには人狼の匂いが満ちているだろうし、狼であるグラウは彼らにとって大きな脅威。二対一とは言え、ポテンシャルは狼の方が高い。
剥き出しの敵意が猟犬から向けられる。彼女はそれに恐怖を覚える。
狼と比べるから劣っているように感じるだけで、その牙も獰猛な唸り声も鍛えられた体躯も、彼女にとっては十分命の危険を感じるものだ。人間側が、興奮している猟犬達をどこまで御せているかも怪しい。
ジリ、と距離を詰められる。
「ウォンーー!!」
威嚇の意味を込めてグラウが大きく吼えた。
それは人間達を恐怖させるのに十分な咆哮だった。そして、猟犬達に判断を誤らせるに十分な、咆哮。
「ひっーーーー!」
重圧に耐えられなくなったのか、猟犬達が弾かれたように飛びかかって来る。
グラウは一匹目を避けた後、二匹目の首に噛み付き、そのまま勢いよく振り回すようにして投げ飛ばした。猟犬はそのまま窓を突き破り、外へ転がる。
その間にもう一匹が再び飛びかかって来る。彼女を守るようにグラウは立ちはだかり、それを迎え撃つ。
「おい、あんた……!」
場は恐ろしく混乱していた。
彼女もこの場の切り抜け方を見つけられないでいたし、相手も彼女の存在はイレギュラー過ぎるものらしくどう捉えればいいのか分からず戸惑っている。
グラウと猟犬達が争っている隙を狙って一人の男が彼女に駆け寄り、座り込んでいた彼女を引っ張り起こした。
「やっ……!」
外から入り込んで来る明かりが、彼女の顔を照らす。
「ーーーー!」
薄暗さで今までよく見えていなかったのだろう。男達が息を呑んで固まった。
面の皮一枚。
けれどその一枚に馬鹿みたいに彼女の人生は左右されて来た。
諦感と嫌悪が巡るが、彼女が何か動く前にグラウと猟犬が調度品にぶつかるその音に我に帰った男が、強引に彼女を引っ張り出す。
「早く、外へ! アイツら、気が立ってる。噛み殺されるぞ」
「はなして……!」
「あんた、何なんだ。何でこんなところにいる? ここは人間の、それも若い娘が一人で無事に暮らせる場所じゃないぞ」
グラウが気にかかる。彼らの疑問などどうでも良い。
けれど外に引っ張り出されて、今度は彼女の方が息を呑んだ。
「な……」
あまりにも、多い。
思っていたよりも大勢の人間がそこにはいた。
炎の気配は近く、時折微弱に吹く風は頬に熱を伝える。
「おい……誰だ」
「分からん。家の中にいた。この娘と狼が」
背後からはまだグラウ達の争う物音が続く。気が気でない。彼女は先刻逃げろとグラウに言ったが、これだけ武装した人間に囲まれてそれは可能だろうか。
「よく分からんのです。少なくともここらで見かける顔じゃない。ーーどうしましょう?」
彼女を連れ出した男が、急に丁寧な口調になる。視線を辿ると、その先には一等身綺麗な男がいた。
服装、立ち姿、纏う雰囲気。全てが他とは違う。彼女は、こういう気配の人間を、よく知っている。
ーーーー明らかに支配階級の人間だ。
「これはまた……確かに見かけたことがないな。これだけの女性、一度見れば忘れようもない」
じり、と僅かに彼女は後ずさった。
「ーーーーで、人狼は」
「それが領主様、家の中には他には何もいませんで」
やはり。男は、まだ若いが、確かに今領主と呼ばれた。この場で一番力があるのはこの男なのだ。
そしてこの蛮行は予見通り人狼狩りで間違いないらしい。
「だか猟犬が反応したということは、人狼がこの家を使っていることは間違いないのだろう」
ちらり、再び領主の瞳が彼女を捉える。
反射的に、彼女は頭を振っていた。
「貴女がまだ餌食になっていないことは、暁幸だった。……人狼に拐かされましたね?」
「ち、違う。人狼なんて、知らない」
拐かされた?
それは違う。
確かに最初は彼の餌になるつもりでいて、彼と暮らすことを望んだ訳ではなかったけれど。けれど彼女には最早帰る家もなく、食べるのをやめた彼が彼女を棲みかに連れ帰ったあの行為を、拐かしと言うのは大いに誤りがある。
「怯えなくても大丈夫。人狼は我々が必ず仕留めてみせる」
彼らの本気は言葉にされなくとも分かっていた。
これだけの人数、森の焼き討ち。行為が本気を物語っている。
だから彼女は焦燥感を隠せない。
このままでは、彼が殺されてしまう。だってこの現状を見たら、彼はどれだけ無謀でも彼女を取り戻しに来るだろうから。
「だからって、も、森をこんなに燃やすなんて。これだけのものを育むのにどれだけの時間と努力が必要か考えれば、人間にも他の生き物にも失うものの方が大きい」
逃げ出す隙はないか視線を四方に散らすが、突如現れた彼女はこの場では異質過ぎて、全ての注目を集めてしまっている。
「仰る通り。でも我々はむやみやたらに森を焼いている訳じゃない。予め範囲を定め、その境界の木々を切り倒し、川の位置や天候、風向きも考慮している。延焼の可能性は低い。ーーーー蛮行に見えるでしょうが、時に痛みの伴う決断が人間には必要だ」
彼女はまたひとつ、後ろへと足を引いた。その先に逃げ道がある訳ではないが、本来自分もそちら側にいるべきなのに明らかに今の自分が人間の主張に寄り添えないことに気付いて、彼らとの間に境界を感じた故の無意識の行動だった。
ガラスの割れる一際大きな音がして、ハッと後方を仰ぐ。
窓から飛び出したグラウと猟犬。先に投げ出された猟犬は傷が深いらしく蹲っており、今グラウと共に出て来た一匹も首に深く噛み付かれ、虫の息だった。
けれど。
「嫌、待って!」
外には人間が沢山いる。彼らは武器を持っていて、彼らの連れの猟犬を手に掛けたグラウは排除するべき対象で。
グラウがハッとして、こちらを見た。その瞳は彼女を守ろうという決意だけに染まっている。
自分の不利を前に退こうだなんて考えはちらとも浮かんでいない。
逃げて、と言ったのに。
制止など何の意味も為さず、次の瞬間にはグラウの身体に矢が突き刺さる。
「やめて! その子は私に何もしてない! してないの!」
ぐらりと地面に倒れる身体。あの美しく魅惑的な毛並みが理不尽な赤色に染まる。
「酷い……!」
引き攣った声を上げる彼女に、心配するなと言いたげにグラウが小さく吠えかける。どう見ても深手だが、その身体にまだ命が宿っていることにほんの僅かだけ慰められる。
「彼女を後方へ。婦女子に見せるには血腥い」
若き領主の命で近くの男が彼女の肩に触れる。
どうにかしなくては。ここには、自分しかいないのだから。
そう自分を叱咤した時、彼女はそれに気付いてしまった。
右手の、木々の陰に。
もうこれ以上はやめて、と彼女は祈ったこともない神に対して心の中で絶叫した。
「リディア!」
彼女を、呼ぶ声。
「うわ!?」
「人狼だ!」
「まだ他にもいやがったのか」
「アイツ、血塗れだぞ! 既に誰か殺ってる」
飛び出した彼は周りの人間が振り返るより早く両の腕で薙ぎ倒して行く。でも、きっと彼女には届かない。
「チッ、この害獣が」
「怯むな! ヤツは一人だが、こっちは何人いると思ってるんだ!」
酷い罵詈雑言。
彼の手を染めているのは、絶対に人間の血ではない。そしてこの一帯の人間を脅かした人狼は彼ではない。
でも、そんなことはここでは取るに足りないこと。
彼が人狼だということだけが、絶対的な事実。
「来ちゃダメ!!」
喉が痛い。
「ダメ、いや、やめて!!」
無様なほどに自分は無力だ、と彼女は思った。
「いやぁあぁあっ!」
放たれた夥しい数の矢。それを受けて尚、歩みを止めない彼。
そうまでして守ってもらう価値が、自分にあるだろうか。
「殺さないで、やめて、お願い」
しかしついに崩れ落ちた彼を、人々が取り囲む。
もう、叫ぶしかなかった。
「殺さないで殺さないで殺さないで!」
お願い、殺さないで。彼を。他の誰でもない彼を。
「ヴォルフ!」
恐れていたことが、現実となって眼前に広がっている。
彼を見下ろす人間達の目は一様に冷たく憎しみに満ちている。
あぁ、そうかと彼女は思い出した。
人間にとって人狼がどういう存在なのか。
「ヴォルフ!!」
いつか、こんなことになってしまうのではないかと恐れていた。
だから、彼との未来はいつもきちんとした形を持たなかった。
「死んじゃダメ生きていて逃げてお願い」
こんなことになるなら、心の中に彼の居場所を作ってしまうその前に、無理にでも逃げ出しておくべきだった。
彼女は確信する。やはり自分は独りで生きていくべき人間だったと。誰のことも大して幸せにできないのだと。
「お願い、ヴォルフ」
逃げて、という言葉の虚しさが胸に突き刺さる。彼はもう、立ち上がれない。
彼女は身を捩り、隣に立つ男を仰いだ。
「何も、殺さないで」
今、その身に受けた傷がどれほど深刻なものか、駆け寄れないので分からない。けれどその肩が上下するのは、彼が息をしている証拠だ。
「お願いだから、もう何も殺さないで」
懇願する。ただひたすらに。
ふっと小さな笑いが耳を掠めた。
「どうやら彼女は恐ろしく慈悲深い聖女のようだ」
いいえ、違う。
領主の言葉に彼女は胸が詰まる思いを抱く。
自分は悪魔のような存在だと。
「まぁわざわざ止めを刺す必要もないだろう。この深手では、どうせ先など知れている。捨て置け」
先など、知れている。
その言葉に、駄目押しのように打ちのめされた。
「ヴォルフ……!」
自分のせいで。
認められない現実に呼吸が荒くなる。
肩を押さえる腕が許容し難く、彼女は身を捩って抵抗した。
「……気が立っているようだ。無理もない」
見当違いな同情。
絶望と怒りの区別は曖昧で、けれど身体を巡る感情は苛烈だ。
今すぐ、彼に駆け寄りたい。殺すなら、一緒に殺してくれたらいい。
そう言おうとしたのと、口に何か布切れが当てられたのは同時だった。
「……!」
今まで経験したことのない匂いが鼻孔から脳に回る。
その刺激に抗うように伸びた腕は、何も掴めず宙空を虚しく切った。