小さな食卓-1
絶望感だけが、彼女の中に残っている。
何もかもが耐え難い。
生きている意味や価値などもうどこにもないはずなのに、それなのに砂粒のような願望が、未だに彼女をこの世に引き留めている。
大層なことを望んだつもりはなかった。
ただ、あのまま彼とグラウとひっそりと生きてみたかっただけ。小さな幸せを、そっと守りたかっただけなのに。
彼女は今、あの時人狼狩りを強行した人々が暮らす領地にいる。そもそも彼と一緒に森を随分と進んでいたから、連れられたそこは彼女がその昔暮らしていた領地とは全く別の場所だ。
形としては、保護されたことになるのだろう。
人狼に拐かされたところを命からがら救い出された少女として、領主の館に留め置かれている。それはそれは手厚い待遇で。
けれど、その実態はほとんど軟禁と呼べるものだった。
この領地を、館を、いや部屋を出ることさえ彼女の自由にはならない。
もう、放っておいてほしいのに。保護だなんて、誰も助けなんて求めていなかったのに。
薄暗い未来がぼんやりと広がっている。
母と同じような道を辿ることになりそうな予感。
彼女は生きる気力を垂れ流しながら、ただひたすらに何千何万と繰り返し呟くだけ。
「どうして……」
どうして、こんなことになってしまったのか。
その日、彼は夕刻になってから外に出ると彼女に告げた。
「……何かあった?」
「獣がうろついている気配がする」
その獣が熊や狼なのか、はたまた人狼なのか。そこを彼ははっきりさせなかったが、きちんと彼女に告げてから出かけて行った。
「……ひどい怪我をしなければいいけど」
待つ身としては、祈ることくらいしかできない。
彼女は灯りを落とし、グラウの傍でただひたすらじっと時が過ぎるのを待っていた。
異変に気付いたのは、どれくらい経ってからだっただろうか。
「…………?」
彼女はふと窓の外を見遣った。
何か変だ、と思った。
「明るい……?」
足元に置いたランタンだけが光源のはずだった。いつもならもっと闇に視界が沈むはずなのに、今日は少し先の方の様子まで見える。
「グラウ」
人間の彼女でも感じ取れる異変だ。グラウはもっと敏感に色々なものを捉えているようだった。喉をぐるぐる低く鳴らしながら、ピンと耳をそばだてている。
「何が……」
そろりとグラウから身を離して、彼女は窓から外を窺ってみた。
木々の頭の向こうから光が見える。
ぼんやりとした黄色やオレンジのその明るさは。
「!」
慌てて窓を開ける。彼女の耳にもパチパチと爆ぜる音が聞こえてきた。
「炎……」
これは木々が燃える音。
「火事……自然現象か、それとも人間が?」
ウォン、とグラウが一つ鋭く吠えたその声で、彼女はそれが人間の仕業だと知る。
「どうしよう。何で? また人狼狩りなの?」
このままここで彼の帰りを待つべきか、火のない方へ逃げるべきか。
今はまだ、炎が眼前にチラついている訳ではない。けれどこのままだとやがては迫り来るだろうし、人狼狩りならば人間の集団が押し寄せるはずだ。
森の中の人家が人狼の棲みかになることは通例として知られている。見つけた人家をそのまま素通りはしないだろう。必ず家捜しをするはず。
「どこか……」
隠れる場所と思っても、小さな家に適した場所は見当たらない。グラウと一緒にというのならば尚更だ。
彼は、大丈夫だろうか。
うろついているという獣に傷を負わされてはいないだろうか。
人間と鉢合わせしてしまってはいないだろうか。
外にいても内にいても、遠からず危険なのは変わらない。
「グラウ」
灰色の毛並みを抱き締めながら彼女は賢い用心棒に言う。
「彼が帰って来るのを待とう? でも、もし人間が先に来たら、グラウは逃げなきゃダメ」
反抗するように短く唸られる。宥めるようにふかふかの毛を撫でてみる。
「違うの。単に置いて行けって言ってる訳じゃないわ。彼を呼びに行ってほしいってことよ。グラウが私の足に合わせるより、彼を呼んで戻って来てくれた方がきっとずっと早いもの」
本当は、戻って来てくれなくても良い。逃げ延びてくれればそれで。
森を焼くほどの侵攻だ。相手は手段を選ばないだろう。規模を考えてもまともに相対するべきではない。
「大丈夫。人間の私は、きっとそんな酷い目には遭わないはずだもの」
グラウは納得できていないようだったけれど、不必要に反意は示さなかった。
「確率の問題よ。人狼ほどではないけれど、狼だって人間には恐怖の対象だもの。そして集団になれば人間は恐怖を塗り替えて、排除を躊躇わなくなる。グラウやあの人ができるだけ傷付かないで切り抜けられる方法を、取りたいだけなの。分かって、グラウ」
暗い部屋。知らない土地。理不尽な害意。
「どうしてそっとしておいてくれないの……」
彼や彼女は何を害すつもりもないのに。干渉するつもりはないのに。
慰めるように頬擦りを寄越すグラウが、冷えて行く心に僅かに温もりを落とす。
「早く帰って来て……」
思わず彼女がそう雫した時、半分錆び付いた音を立てながら入り口のドアノブが外と内を繋ごうと動き出した。