苦い喜び
名前を、呼んでほしい。
彼女のあの、凛とした愛らしい声で。
彼はずっとそう願っているけれど、実際に彼女にそれを強請ったことはない。他のことなら口にできても、名前を呼んでくれとは言えない。
躊躇うのには訳がある。
以前、彼女は言っていた。
"せっかく名前を付けたのだから、ちゃんと呼んであげなきゃ駄目よ。他者から呼ばれることで、名前はより明確に本人を象っていくものなのだから"
彼女は彼の名前を呼ばない。一度も呼ばない。
それはきっと、彼女が彼の輪郭を自分の中に定着させたくないからだ。彼女は自分を拒否しないけれど、そちらからは決して踏み込んで来ない。
彼女を躊躇わせる理由が何なのか、彼は正体を掴めずにいる。
ただ、度々彼女はその顔に不安を浮かべる。それが解けるまで、彼女はきっと彼の名前を口にしない。
請うて呼ばせるのでは意味がないと、彼はそう思っている。
彼女が自ら彼の名前を口にした時、彼の名前は本当に意味を持つだろう。価値あるものになるだろう。
だからその日を、彼は密かに待ち焦がれている。
すっかり牙を抜かれたような自分に、内心苦笑しながらも。
「疲れていないか」
「大丈夫」
棲みかを捨てて二日目。彼と彼女は森の中をただひたすらに進み続けていた。その傍にはグラウもいる。
完全に縄張りの外に出る今回の移動、彼はグラウに付いてこいとは言わなかった。
二人の関係はあくまで彼が治める安全な縄張り内で成立するもので、グラウは彼に忠誠を誓っている訳ではない。そんな必要はない。
だから、決断はグラウに任せた。彼に付いて行くのと、残った場所で一人自分の生活を守るのと、どちらがよりリスキーか。
グラウは結局、彼らに着いていくことを選んだ。
内心、彼はホッとしている。
グラウがいる方が彼女の安全は守られるし、何より彼女がグラウに心を許している。グラウの存在は彼女の慰めになるだろう。
長らくただの狼としか思っていなかったが、今ではすっかり必要な存在になっている。
まさか、こんな心境の変化に襲われるとは。
彼女の出現によって、彼の人生はすっかり別人のもののようになっている。それを彼女は分かっているだろうか。
「……当てはあると言っていたけれど、一体どういう当てなの?」
昨日からほとんど黙々と歩いていただけの彼女から、問いが発せられる。
「この森にどれだけ人狼がいるかは知らないけれど、それなりにいるのでしょう? それに、縄張りの問題は同種間だけに生じるものではないわ。他の動物だってそれぞれの縄張りを持っているもの。簡単に住まう場所が見つかるとは思えない……」
そう、都合よく誰もいない土地というものはそうない。条件の整った住み良い場所ほど誰かが居座っており、それ故争いが絶えないものだ。
「仰る通り、そんなに都合よくいい場所が見つかる訳ではない」
それに彼女の言う通り、森に住まうものは他にも沢山いる。人狼はどの種からも一様に恐れられてはいるが、だからと言って生態系の頂点にいる訳ではなく、群れで対峙されたり体格に差があったりすると当然不利だ。縄張りを維持したり拡張したり変えたりすることは、常にリスクを孕む。
「元から探していたんだ」
どうも彼の縄張りの近くには品のない人狼がうろついているらしく、そのうちに人間が騒ぎ、何らかの手段を講じてくるだろうとは前々から思っていた。だから、縄張りを変えることは前から検討していた。場所の目星も付けてあった。
「元の縄張りからは大分遠い。この森をずっと西へ進んだ先に、丁度良い家があった。有難いことに無人の家だ。狩場としてもそう悪くない。あとは縄張りとして、きっちり力を示すだけ」
そして彼女が現れて早い内から、彼は新しい縄張りの確保を実行に移した。
近所の素行の悪い人狼に、また手を出されては堪らない。それに暮らすなら、彼女のことなど知る人間がいない環境がいい。
彼女は人を避けたがるし、彼も彼女を他人に晒したくなかった。
とびきり居心地の良い場所を作るから、そこが狭く小さな世界になってしまえばいいと思う。
彼と彼女とあとはグラウくらいで閉ざされてしまう、それだけの世界。
「ねぇ、もしかして家を空けてたのも、怪我が多かったのも」
家を空けることへの心配を何とか抑え込み、彼はグラウに彼女を任せて新天地へと通っていた。狙う土地は古参の人狼が既に縄張りとしていて、それを解決する必要があった。
実力行使が全てだ。多少手間取りはしたが、彼は先の住人を追い出すことに成功した。
生傷は絶えなかったが、それほど深刻な負傷もなかった。
それでも、彼女が毎度青い顔をしていたのが思い出される。
「縄張り争いだ。人狼の世界は弱肉強食。謀略も戦法の一つだが、最後は力で下した者が勝つ」
彼女は知らないだろう。実は彼が怪我を負うことに、密かな楽しみを覚えていたことなど。
心配する顔が、時に痛みを堪えるような顔が、自分を労るその心が、彼にある種の満足をもたらす。
自分が彼女の心を左右する存在であること、気にかけるに値する存在であることはとても新鮮だった。それは恐怖による支配ではなく、彼女が彼を自分と同じ位置に置いているからこその反応。
「勝ったのね?」
「勝算のない勝負はしない」
「そう……」
彼女はホッとした顔をした。
「良かった。やっぱり縄張り争いだったのね。いえ、怪我と多かったし、良かったことはないんだけれど。でも、どうして怪我をしてくるのか分からなかったから、理由がはっきりして良かった」
そうか、と彼は今になって気付く。
「あなた、私のことはあれもこれも聞きたがるけれど、自分のことはあまり話さないから」
怪我そのものもだが、何故怪我をするのか、その理由が分からないことも彼女の不安に拍車をかけ、心配させていたのだと。
言葉が足りないとは、こういうことだろうか。理解や共感の必要性が、彼にはやはり希薄らしい。
人間は弱いから、沢山の言葉で安心を求めたがる。
でも、人狼は人生のほとんどを独りで生きるし、態度そのもので強さを示す。揺るがない自分を、行動で周りに示すのだ。どんな生き物の群れも基本的にはそうだろう。周りはリーダーの強い姿、ただそれだけに安心する。そこに細やかな言葉などいらない。
だから、彼も彼女を言葉で安心させようなんて発想は持たなかった。
「気になることがあるなら、訊けばいい」
「訊けば本当のことを教えてくれるの」
「それは」
もちろん、と言いかけて止めにする。
「…………どうだろうな」
約束できない気がした。
本当のことが、常に安心をもたらすとは限らない。余計な不安を煽るくらいなら、耳障りの良い嘘を囁くことをいくらでも選ぶだろう。
「あなたは、正直なのかそうでないのか、よく分からない人ね」
そう言う彼女の方は、隠したり曖昧にぼかしたり、彼が望むようにはその心を見せてはくれない。
新しい土地は、森をずっと西へ進んだ先。彼女とは縁もゆかりもない土地を意識して選んだから、道程は遠い。
この森は広大で、複数の国の境にかかっている。あまりに深く中心部など最早樹海扱いで、人間はきっぱりとした境界線を引けないくらいだ。
人間の境界線や政治になど彼はろくろく関心がないが、行き着く先が今とは別の国だということは認識していた。
本当は、彼が今まで使っていた、もっと早く目的地へ着くルートがある。ただしそれは人狼の身体能力を大前提においたルートで、つまりものすごく無茶で強引な、道なき道を無理矢理道と言い張る行程なのだ。とてもじゃないが、人間が、それも彼女のような華奢な娘が踏破できるものではない。
そのため、ぐるりと迂回するルートを取っている。三倍以上の日数をかけることになるだろう。
「休憩にするか」
良識の範囲内のルートを選んでいるが、それでもひたすら歩き続けるのは体力を要する。彼女は弱音一つ吐かず足を進めているが、そのスピードは日に日に落ちているし、口数もみるみる減ってきていた。
「大丈夫」
前日の雨で足場も悪い。
「そうは言っても、疲れているだろう」
グラウも彼に同意するように、彼女に擦り寄り足を留めようとした。
「でも、遅れているでしょう?」
ちょっとした岩場に差し掛かり、彼は先を行きながら彼女に手を延べる。
「遅れているも何も、期日のある旅じゃないんだ。できるだけ早く屋根のある場所で休ませてはやりたいが、無理をさせてまで急ぐ必要は何もない」
彼女がその手を握り、一歩一歩慎重に歩を進める。
「あなたの新しい縄張り、あまり空けておくと他の誰かが入ってきてしまうわ」
心配そうに、申し訳なさそうに彼女は言った。
そんなことはないと言ってやりたいが、的を射ている発言なので否定しにくい。
彼女は色々と気を回しすぎだ。聡明なのは美徳だが、鈍感でいる方が人生はずっと生きやすい。
「誰かが入ってきたら、追い出せばいいだけのこと。人狼にとってそういった争いはただの日常だ。何も珍しいことじゃない」
「……………………」
「気に病むことじゃないと、言ってるんだ」
それから、と彼は言い足した。
「俺はそれほど弱くない。どうやら俺のことが、牙や爪を抜かれた犬っころに見えるらしいな?」
「そういうつもりじゃ……!」
わざと意地悪く言ってやると、彼女は慌てて彼を仰ぎ見て首を横に振った。
その拍子に。
「きゃ」
「!」
濡れた岩場で小さな足が滑る。ぐらりと傾ぐ身体。けれど幸いなことに、彼が手を握っている。咄嗟に腕を引いたのと、後ろから付いて来ていたグラウが頭で彼女の腰を支えたのが功を奏し、不自然な体勢ではあるが彼女は転倒を免れた。
「大丈夫か」
「びっくりした……」
そのまま引っ張り起こしたら、彼女の眉がきゅっと寄せられた。
「どうした?」
「な、何でも」
取り繕った笑顔は、唇の端が歪んでいる。
「何でもないことはないだろう」
視線を落として行けば、原因はすぐに目に入った。彼女が右足の踵を浮かせている。
「足を痛めたか」
「ちょっとピリッときただけ。痛めたなんて大げさよ」
そうは言うが、徐に彼が足首をそっと掴むと、
「っぁ!」
痛みに怯んだ声が漏れる。
「腫れてきてるんじゃないか? 盛大に痛めてるじゃないか」
「う…………」
平気な様子には見えないが、それでも彼女はまだ虚勢を張った。
「大丈夫。ちゃんと固定すれば、歩けるはず。確か荷物の中に包帯が」
意地を張るにも限度がある。
自分を犠牲にしてまで気丈さを貫く必要はない。
思わず大きな溜め息が漏れる。
途端に彼女はビクッと身を疎ませた。
「ご、ごめんなさい」
怖がらせたのだと、半瞬遅れて気付く。彼としては、ただもっと自身を労ってほしいと思っただけなのだが、苛つかせたとか失望させたとか、そういう風に捉えられたらしい。
「私、足を引っ張ってばかりで」
ポツリ、と彼女の足元に一滴の染みが出来る。
泣いているのか。
自分でもびっくりするくらい狼狽えて顔を上げると、彼女は暗い顔はしていたが泣いてはいなかった。
では、何か。
見上げた先。彼女の頭上。新たな水滴が、次は彼の頬を濡らす。
「雨か」
曇天の空が泣き出していた。
「ひゃっ」
本降りになると厄介だ。
彼は断りも入れずに彼女を抱き抱える。
「どこか凌げる場所を探した方が良さそうだな」
反射的に首に回された腕。布越しに伝わる体温。今、この状況で彼女が縋がる相手は彼しかおらず。
「………………」
妙な安堵が胸に広がる。
「ごめんなさい」
彼女がもう一度そう口にする。
「謝らないでくれ」
言うと、彼女はなり損なった笑顔を中途半端に浮かべて、腕を伸ばして彼の衣服のフードを被せてくれた。
「……タイミングの悪い雨ね」
パタリ。彼女の頬にも雨粒が落ちる。
そう言えば、と彼は思う。
彼女が泣いたところを、彼は一度も見たことがない。
最初森で彼の餌になりかけた時も、過去を語ってくれた時も、村人と鉢合わせ家に鍵を掛け籠っていたあの時も。
彼女は泣きはしなかった。
ほんの時折、悲しみを堪えてその顔を歪めることはあっても、彼女は涙は溢さない。
悲しみというものを、人狼の彼もよく知らないけれど。
だけれど、彼女の中になみなみと溜まっていそうなその感情の行方を、彼は憂う。
溢してくれたなら、一滴残らず啜り上げてやれるのに。
ひとまず見つけた洞穴で雨を避けることにした。
薄暗く湿った内部は快適とは言い難いが、それでも雨風を凌げれば随分楽ではある。
彼女を下ろして、靴を脱がす。
「じ、自分で……!」
慌てた声が上がったが、彼は構わなかった。するりと靴の抜けた足は、やはりくるぶしの辺りが変色し腫れている。踵を支えるのとは逆の手でなぞるようにそっと触れると、彼女は眉をしかめた。
そして気付く。
「マメが……」
足の裏に痛々しい跡が見てとれる。
「そんなに酷いものでもないでしょう?」
何でもないように彼女は言ってみせた。
ペースが落ちてきているとは思っていたが、マメができているとまでは考えが至らなかった。彼女も彼女でよく今まで平気なフリができたものだ。
「難しいな」
道程やペース配分には気を配っていたつもりだったが、それはただのつもりでしかなかったらしい。彼は反省した。
「難しい? 何が?」
「いや、こっちの話だ。それより包帯やら何やらはどこに」
鞄に手を伸ばしてみるが、それを掻い潜るように彼女が素早く自分で目当ての物を取り出してしまう。
「無理しないで。あなた、手当ての方法なんて知らないでしょう?」
「リディアがしてくれたのを見ていたから、多分大丈夫だろう」
手先は器用な方だと自負している。けれど、困ったような笑みを向けられる。
「あんまり甘やかさないで」
「怪我人を労るのは当然のことでは?」
などと押し問答している間に、彼女は手早く処置を済ませてしまった。出る幕がない。仕方なしに溜め息混じりに彼は言う。
「この足では暫く安静にしておいた方がいい」
「………………」
彼女は薄く口を開いたが、結局言葉は出て来なかった。謝罪の言葉を堪えたのだということは簡単に汲み取れた。
さっき、彼が謝らないでくれと言ったから。
「この雨だ。天気が持ち直すのにも時間がかかりそうなことだし、どうせ足止めされていた」
「…………そうね」
「雨が弱まったら一度この辺りを探りたいところだが、取り敢えず今日はここで我慢してくれ」
「そんなに気を遣わないで。本当に不満なんて一つもないの」
曖昧に微笑まれて、彼も曖昧に頷き返す。二人の間に横たわる沈黙を、絶え間なく降り注ぐ雨音が埋めていく。
「グラウ」
彼女が不意に呼び掛けた。
入り口近くで外を眺めていたグラウは振り返り、するりと寄り添うとその場で丸くなる。クッションかぬいぐるみにでも抱きつくかのように、彼女は身を預けた。
その無防備さにチリチリと胸が焼き付く。
自分が触れると、彼女は緊張するのに。
戯れでは、決して触れてこようとはしないのに。
扱いの差に不満が過ったが、それを口にするのは躊躇われた。
もて余した感情を、グラウの額を軽く弾いてやって紛らわす。
彼の相棒は、甘んじてそれを受け入れた。何だかそれすら余裕の態度に見て取れて仕方がない。
それは嫉妬という感情なのだと、彼はまだ、燻る思いの名前を知らない。
翌日も雨は降り続いていた。
「リディア」
その雨の中、彼は周辺を探りに外へ出ていたのだ。戻って声を掛けると、彼女はグラウのブラッシングの手を止めてこちらを見遣った。
「移動する。少し行ったところに、古いが家があった。住人はいないらしいから、そっちに移る。ここよりは大分マシだろう」
家屋が見つかったのは幸いだった。硬い岩肌や地面から解放してやれる。
「ローブを」
季節的には暑苦しいが、フードを被れば雨避けに丁度良い。
身の回りを簡単にまとめて、彼女は言われた通りローブを纏いフードを被る。
「掴まってくれ」
屈んで頭を差し出すと、今回は素直にするりと首に腕が回される。その方が何事もスムーズに進むと、彼女も自分を納得させているようだ。
彼女を抱えて彼は外に出た。
雨音以外には、彼とグラウが地面を踏みしめる音しかしない。
この雨で、他の動物達も巣穴に引っ込んでしまっているようだった。警戒の必要がそもそもあまりないのは悪いことではないが、雨のせいでありとあらゆる匂いが消されるのは微妙なことだった。彼や彼女の匂いを流してくれるのと同じだけ、本来彼の鼻が捉えられる匂いまでうやむやにされてしまう。
そんなことを考えていたら、彼女がポツリと尋ねてきた。
「重くない?」
重くはない。彼は時に大柄な獲物を担いで運ぶ。それに比べたら彼女などそこらの小動物扱いしても良いくらいだ。だから、重さ以外の今の感覚を言葉にする。
「温かい」
言うと、彼女は面食らったような顔をした。
「悪くない気分だ」
「そ、そう」
時折彼女はそういう反応をする。まごついて、目を逸らす。
彼としてはただ単純に思ったこと感じたことを口にしているだけなのが、何かそんなにおかしなことを言っているだろうか。
「変なことを言ったか?」
「言ってない。言ってないけど」
もごもごと言い訳をするみたいに彼女は呟いた。
「あなたの言葉はストレート過ぎて、たまに心臓に悪いんだもの」
「……?」
やはりよく分からない。人間と人狼の感性の違いの問題だろうかと、彼は内心首を捻る。
「あそこだ」
やがて目当ての場所が見えて来て、彼は顎をしゃくって示してみせた。
「空き家が見つかるなんて、有難いことね」
ホッとしたような気配。
以前の家に比べると貧相な感じは否めないが、それでも家という体を保っているのは心理的に嬉しいらしい。
中に入ると薄暗く、カビ臭い感じがした。
彼女を下ろし、ひとまず窓という窓を開け放す。
何やら物はごちゃごちゃしているが、生々しい生活感はない。
家人がいなくなったのはいつのことなのか、何が理由なのか。
彼女もそろそろと動き回って窓を開けたりしていたが、彼は口煩くは言わなかった。咎めても多分、少しは運動も必要だとか何とか言われるだろうことが予想できたからだ。
「…………」
作り付けの小さな用具入れの前で、彼は一瞬動きを止めた。
「何かあった?」
「いや……」
訊かれたが、よく分からない。
何か匂いがした気もしたが、雨とカビ臭さと埃で霧散してしまう。あるいは雨とカビ臭さと埃が混じった匂いだったのか。
余計な不安は煽りたくないし、自分の中ではっきりしないことを口にしたくない。
「……向こうに薪があったな。そんなに湿気ってなかったから、湯でも沸かそう」
彼は用具入れから目を逸らして、そう言った。
「美味しいお茶を淹れるわ。外の井戸は大丈夫かしら」
「見て来よう」
外に出て小さな井戸から水を汲む。濁りもなく腐っている様子もないので、そのまま持ち帰る。
「次の場所はどんなところ?」
水を受け取った彼女は、火にかけ沸騰するまでの間、何とはなしに彼に訊ねてきた。
「陽当たりが良い」
現状と見比べて、まずそう答えてみる。
「家屋自体も比較的新しいし、川も近い。森の奥だから、買い出しに出るには多少骨が折れるが、逆に人間が気軽に尋ねてくることもない」
「他には?」
「狩場としても上々だ。土地が肥沃なんだろう。木の実や果実もよく採れるから、小動物も多い。食物連鎖が上手く回っている」
手に入れた甲斐のある土地だ。追い出しにかかった古参の人狼以外、そう他の個体がいる様子もない。
「ただその分大型で肉食の獣も多い。熊や狼の群れもそれなりにいるだろうから、一人歩きは勧められない」
「今でもあなたは私を一人で出歩かせたりなんかしないわ」
それもそうである。
だが、それは仕方がない。彼には彼女が脆く危うい生き物にしか見えない。その首を噛み千切るのなんて、本当に容易いことだ。
他の獣がするのと同じように、彼女が彼女でさえなかったら、きっと彼も躊躇わず腹を満たしにかかっている。
「新しい家は、リディアのしたいようにすればいい。オレにはそもそもこだわりが何もない」
他のどんな娘でもなく、彼女だけが彼の本能をもっと別の衝動で抑え付ける。
彼女が全ての歯止めになって、だから彼は他の人間にも食欲を抑えられている。
自分の影響力を全く認識していない様子で、彼女は希望を口にした。
「そうね、家の側にちょっとした菜園を作りたいの。だって野菜も摂らなくちゃ、やっぱり身体に悪いもの」
多分、初めて。
「野菜の苗が欲しいわ」
「…………用意しよう。約束する」
自覚は、ないのだろうか。
彼の胸中は驚きと歓喜が駆け巡っている。巡っているが、面には出さないように感情を抑制する。
だって、自分のしたことに彼女が気付いて、態度を反転させられては堪らない。
彼女は今まで何かを望んだり、彼との未来を口にしたり、決してしてこなかった。
─常に今しか手に取らない。未来を諦めているし、多分恐れている。
彼とのこの先を、彼女が信じていないことを、彼は何となく感じ取っていた。
そんな彼女が、彼に望む。
彼が隣にいる未来を口にする。
ただのうっかりかもしれないが、彼女ももしかしたら絆されてきつつあるのかもしれない。
「本当? じゃあ指切りしましょ」
「指切り?」
小指が差し出される。
促されて、彼も同じように小指を差し出してみる。
「約束の儀式よ」
躊躇いなく、彼女は小指と小指を絡めてみせた。おそらくきっと色々と無自覚なままに。
そして彼に、小さな未来を約束した。
雨はその後二日降り続いた。そして三日目、四日目は打って変わってからりと晴れ、ぬかるんでいた地面も今日は乾き上がっている。
初日に比べれば彼女の足の腫れは引いていたが、それでももう二三日は大事を取る必要がありそうだった。
この日、彼は早朝、まだ彼女が眠りから覚める前に仮の家を出た。
ここは見知らぬ土地だ。どんな獣がどういう勢力図で分布しているのかも分からない。
先日気になった匂いは、やはり今もほとんど嗅ぎ取れない。ただ、僅かに錆び臭い気がして、彼はあまりいい想像をしていなかった。
そんなこんなで、これでもかと言うほど念入りに辺りを探索し尽くした頃には、日がとっぷり暮れていた。
戻った家は暗闇に沈んでいる。なるべく明かりを外に漏らさないように言ったのは、彼だった。
彼がいないところで、何が起こるか分からない。明かりも煙も自分の居場所を知らせるようなもので、他の獣はともかく人狼相手には自殺行為だ。若い娘が滴らせる甘美な香りの前では、お守りの効果も怪しいところ。
そっと扉を開けると、ランタンの灯りだけが部屋の中央でそっと狭い範囲を照らしていた。彼女はその傍で、グラウの腹に身を預けている。
「………………」
無言でこっちを見遣った瞳が、怒りと安堵をない交ぜにしたような難しい色をしていた。
「……どうかしたのか」
訊ねるが、彼女は頭を振っただけ。
「ウサギを獲って来た」
「……ご飯にしましょう」
仕方なく手にした獲物を示すと、彼女はのろのろと立ち上がって支度を始めた。
一羽をグラウにやる。グラウは有り難くそれを頂戴したが、チロリと彼を見上げた瞳は何か言いたげだ。
「何なんだ」
彼も別にグラウの言いたいことが、手に取るように分かる訳ではない。
結局始終彼女の口数は少なく、気詰まりな食事となってしまった。
「何か言いたいことがあるんじゃないか」
食後、彼はベッドの縁にちょこんと腰掛けた彼女を問い詰めることにした。けれど、困ったような顔を返されるばかり。
「不満があるなら、言葉にしてくれ」
「不満なんて、そんな」
「リディア」
諭すように名を呼ぶと、床の上を所在なく視線がさ迷う。まるで、逃げ道を探すかのように。
けれど暫くの躊躇いの後、ポツリと彼女が呟いた。
「…………帰って来ないかと」
「まさか」
彼にしてみれば、あり得ない選択肢だ。
「置いていかれたと」
「そんなことはしない」
最初の頃とは違う。これは最早気紛れなどではないのだから。
「…………グラウがいただろう」
「いたけど……」
視線を落としたまま、彼女は心を吐露する。
「でもグラウとあなたは違う。あなたがいてくれるのと、グラウがいてくれるのは、一緒じゃないの」
いつも、彼女は彼とグラウを同じようにしか扱ってはくれないと、そう思っていた。
彼が望んでも、彼を一等特別にはしてくれないと。
「捨て置かれても文句は言えないって分かってるけれど」
大きな溜め息が吐かれる。
「私、どうかしてるわ」
彼女がようやく彼と目を合わせた。諦めを帯びた微笑が、浮かんでいる。
「自分でも、自分の気持ちについていけないでいる」
今なら許される気がした。
「黙って出たりして、悪かった」
彼女に触れても、許される気がした。
彼はそっと手を伸ばし、その頬に触れてみる。彼女は僅かに身を強ばらせたが、それ以上には拒否を示さなかった。
繊細さの足りない自分の手でこんな壊れ物に触れるなんて、妙な背徳感が背中から指先まで走る。
頬から滑るように首筋へ、そして肩へと移って行く。
チラリと彼女を見遣ると、まるで綱渡りをしているみたいな息の潜め方をしていた。その気持ちは彼も同じだ。
ギリギリのところを、細心の注意を払って、けれど大胆な決意をもって渡っていく。
肩を押してみたら、そんなに力を込めたつもりもないのに、思った以上にあっけなく彼女は後ろに倒れ込んだ。
「っ…………」
見下ろす白い首筋。腹に感じる温もり。
柔らかい。その心地好さに、頭の芯がくらりとする。
鳩尾で何か衝動が首をもたげて、彼女の肢体がより手放しがたくなる。
これは、食欲ではないはずだ。
彼は煩わしくも甘美なその衝動を堪能する。
首筋に顔を埋めてすんと鼻を鳴らすと、馴染みのない甘い香りがした。人間の娘が皆こうなのか、彼女特有の香りなのか。彼には判断がつかない。
ただ、麻薬のような危うげな引力を感じるばかり。
唇が首筋を掠める。
何もかもが胸焼けしそうなほどに甘ったるい。その甘さを啜るように、今度はきちんと口付けを落とす。
耳の付け根から、なぞるように、少しずつ。
「!」
ビクリ、と彼女の身体が大きく強ばり、反射的に彼は身を離した。
「悪い」
いっぱいいっぱいの表情が目に入る。ただ受け止めるだけで精一杯というような。
「びっくりさせて、悪かった」
重ねて言うと、ようやく彼の言葉が彼女に届いたらしい。パッと彼女の顔に熱が走る。
「……こんなの、おかしい」
羞恥を隠すように腕で顔を覆って、仰向けに寝転んだまま彼女が言った。
「私、どうしてしまったのかしら」
心細そうに揺れる声。
「怖いものなんて、そうないと思って生きてきたのに、最近私は何もかもが怖いの」
彼女は何かを必死に否定しようとしているが、最早その無意味さに自分で気付いている。
「幸せと不幸は、安らぎと不安は表裏一体だもの。この腕が空っぽだったなら、私は何も恐れずに済んだだろうけど」
彼女はもう、その腕に抱き込んでしまったのだ。
彼と出会って、彼女の未来は途切れず繋がってしまった。
生きるということ、一人ではないということ。
それを、受け入れなくてはならないのだろう。
「……何かを怖いと思うことは自然なことだし、正常な証だ」
宥めるように彼は言った。
恐怖はある種の危機回避能力だ。それが欠落しているヤツは、ほとんどロクな目に遭わない。リスクを判別できないから、飛び込むべき場所を間違える。そういうのを向こう見ずと言うし、命を安売りすることになる。
「私、正常?」
「少なくとも、オレにはそう見える」
もう今夜は休もうと促せば、彼女は頷いてベッドの端で丸くなった。彼もそれに倣うが、狭いベッドなので互いの温もりがいつもより近い。
安心と緊張を同時に与える、もどかしい体温。
夜更け、寝返りを打った彼女が彼の背にそっと触れた。眠っているのだろうか、触れられたのはたまたま当たっただけだろうかと気配を探っていると、か細い声が零れた。
祈るように、縋るように、誰かに聞かれることを恐れるように、ほんの僅かな吐息と共に。
「ーー私と、ずっとずっと一緒にいて」
彼の悪い予感は、現実のものとなった。
いや、結果的には予想を遥かに超えて最悪の展開を見せた。
「手こずらせてくれる……」
足元に崩れ落ちた同族を見下ろして、彼は深い溜め息を吐く。
夕刻、嫌な気配を感じて外に出たところ、案の定と言うべきか、人狼と出くわしたのである。
人狼と人狼が遭えば、そこに平和的解決はほぼあり得ない。言わずもがな、彼は相手と争う羽目になった。
彼の身にまとわりつく彼女の匂いを嗅ぎ付けてにやりと笑った、あの不愉快極まりない顔が思い出されて、彼は今更ながらにまた腹を立てる。
そもそもこの人狼は、どうもあの仮の家の住人を平らげた犯人らしい。はっきりと目に映る痕跡はなかったが、僅かに感じ取ったあれは、血の匂いだった訳だ。
「……このまま帰る訳にもいかないな」
血でべっとり汚れた手や衣服を見遣って嘆息する。これでは彼女を驚かすし、心配させるだろう。
脇腹に出来た傷が多少痛む気はするが、誤魔化そうと思えば誤魔化せそうだった。
彼女に手厚く手当てしてもらうのにも抗いがたい魅力は感じるが、最近の彼女を見ていると自分の喜びのためだけにむやみやたらと心配させるのも躊躇われる。
心は、確実に開かれてきているし、傾いてきている。
けれど、それは同時に彼女を酷く不安定な心持ちにさせている。
何かあると、彼女はすぐに謝るのだ。まるでこの世の不幸の根っこに、自分がいると言わんばかりに。
近くに川や池がないものかと、暗く沈んできた辺りを見回す。
人狼は夜目が利くから、暗さは問題にならない。
だが。
「ーーーー?」
違和感を覚えて、彼は足を止めた。
何だか落ち着かない空気が満ちている。あちこちに潜んだ気配がそわそわしているのだ。
そして訝しむ気持ちは、どんどん形を持ち始める。
足元から立ち込めるむっとした鉄の匂いに霞んでしまっている、この匂いは。
風の音に混じり鼓膜に伝わる、この雑音は。
人間の臭い、物が燃え爆ぜる音、異物が侵入してきた気持ち悪さ。
人狼は夜目が利くが、それにしても平素より見えやすい。
「!」
振り仰いだ空が赤い。その、方角が。
「リディア!」
彼が帰るべき場所とそう変わらない。
森が焼かれている。人間が、焼き討ちをかけたのだ。
自分達にとって、不都合なものを排除するために。
進むにつれてどんどんと明るさが増す。頬を照らす光源は熱を帯び、焦げ臭さが鼻を突く。
人間は何を考えているのか。後を顧みない蛮行である。
火の粉が舞い踊る夜空に、遠吠えが轟く。間違いなくグラウだ。
余裕のないその鳴き声に、彼は焦りを募らせる。
あの美しく危うげな彼の唯一は、恐らく他の有象無象もすべからく惹き付けてしまうだろう。
惹き付けてしまったら、面倒なことになるのは分かりきっている。
人間の気配がより濃くなる。
木々の合間に見えた彼女は多くの人間に囲まれており、
「リディア!」
グラウは少し離れたところでうつ伏せていた。手負いの身であることは確実だが、それでもその瞳の光は失われていないことは瞬時に確認できた。
腹の底が煮えくり返る。
飛び出した彼は周りの人間が振り返るより早く両の腕で薙ぎ倒して行く。
「うわ!?」
「人狼だ!」
「まだ他にもいやがったのか」
「アイツ、血塗れだぞ! 既に誰か殺ってる」
彼が手にかけたのは人狼であって、人間ではない。
けれどそんな仔細は誰も必要としておらず。
「チッ、この害獣が」
「怯むな! ヤツは一人だが、こっちは何人いると思ってるんだ!」
彼も細かいことは心底どうでも良かった。
この森にどれだけ人狼がいようと。人間達が強行手段に出ようと。
ただ、自分の内にあるべきものが、他者の汚れた手にある。
それだけは許し難い事実だ。
「来ちゃダメ!!」
悲痛な声が上がる。
あんな声を聞きたい訳じゃない。あんな顔をさせたい訳じゃない。
全て全て全て完膚なきまでに蹂躙し尽くして、後悔もできないくらいに滅茶苦茶に決定的に終わらせて分からせてやらなければ。
でなければ同じことの繰り返しだ。
彼は、人狼だから。だから力でもって他を征服する。
残虐性も狡猾さも全て彼の中にはしっかり息づいていて、否定しようのない部分だ。
殺してしまえばいい、と彼は思った。
向こうだって自分を殺そうとしているのだから、何を遠慮する必要もないと。
それに人狼でなくとも、人間だって十分残虐で狡猾で自己本位で浅ましい。己の都合で森を焼き、命を奪い、支配下に置こうとするではないか。
取り戻さなくては。そんな奴らから、彼女を取り戻さなくてはならない。
彼女は、望んでいないはずだ。人間の輪の中に存在することを。
彼女が隣に望んだのは、彼だったはずなのだから。
「ダメ、いや、やめて!!」
いっそう甲高い悲鳴が上がった。
一瞬、彼はそれが自分に向けられたのかと思った。人間を害することを躊躇わない彼への制止かと。
でも、違った。
「っ!!」
パチパチと枝の燃える音の合間に、風を鋭く切る音が届く。四方八方から矢の嵐が降り注いだ。
「いやぁあぁあっ!」
絶叫、痛み、怒り。この程度では止まらない身体。
随分とマズイ感覚はあったが、それでも彼は突き進み続けた。
「コイツ、まだ……!」
彼の鋭い爪が邪魔くさい人間達を凪ぎ払う。彼女まではあと数メートル。
けれど、そこで不覚にも彼は足元から崩おれた。そして取り囲まれる気配。
「殺さないで、やめて、お願い」
恐怖に歪んだ懇願が鼓膜を震わせる。
「殺さないで殺さないで殺さないで!」
そして彼女が叫ぶ。はっきりと。
「ヴォルフ!」
半狂乱になりながら。
「ヴォルフ!!」
他の誰でもない、彼の名前を。
「死んじゃダメ生きていて逃げてお願い」
引き攣れた声が痛ましくて、彼は彼女を慰めてやりたくて仕方がなかった。大丈夫だと言ってやりたいのに、状況がそれを許さない。
「お願い、ヴォルフ」
彼女はガタイの良い男に動きを制限されていたが、それを振り切るように身を捩り、隣に立つ男を仰いだ。
「何も、殺さないで」
その男は人間達の中でも一等身なりが良い。平民でないことは明らかだった。
「お願いだから、もう何も殺さないで」
懇願の声。
彼は掠れた意識の隅で、その男が微かに笑った気配を拾った。
「どうやら彼女は恐ろしく慈悲深い聖女のようだ」
何もかもが勘に障る。
男の声も、取り囲む人間達の気配も、木々が燃えていく臭いも。
けれど一番腹が立つのは、こんなところに這いつくばっている自分だ。
「まぁわざわざ止めを刺す必要もないだろう。この深手では、どうせ先など知れている。捨て置け」
あぁ、許し難い。
この脚が、あと一度だけ地面を蹴り上げることさえできれば。
男の喉など、一思いに掻き切ってやれるものを。
「ヴォルフ……!」
彼の胸にやりきれなさが吹き荒れる。
あんなに望んでいたことだったのに。
彼の名を呼ぶ彼女の声は、不幸の蜜を滴らせている。