空腹な二人
彼にとって自分は何なのか。それを考えることは、自分にとって彼は何なのかと考えることと同義だった。
最近、彼女はふと気が付くとそればかり考えている。
この森を訪れてから、もう二月が過ぎていた。
不便はあるが、生活が成り立たないほどの困難はない。季節は進み、肌に降り注ぐ陽光は日に日に強さを増している。見上げた空は、きっぱりと濃い。
「どれくらい気温が上がるかしら」
洗濯を終えた衣服を干しながら呟く。木から木へと渡されたロープは、彼が掛けてくれたものだ。
そう、彼女は家の外にいた。近くに彼の姿はないが、許可は得ている。最近、こうして外に出る機会が増えた。洗濯、薪集め、果実の収穫、気晴らしの散歩。
ただし、条件付きである。
足元を見下ろす。――――彼女の隣には大きな獣がいた。
それは、彼と同じ灰色の毛並みを持つ狼だ。
もちろん彼が化けているのではない。いくら人狼でもそんな特殊能力は持ち合わせていない。
この狼は、彼の呼び出しに応じるものらしかった。
「あなた達の関係って、何て呼べばいいのかしらね?」
相棒、弟分、友人。
彼に訊ねてみたが、何とも答えられないようだった。それどころか、数年来の付き合いだというのに、名前一つなかったと言うのである。
不便だし、不憫だと思う。
そう言うと、仕方なしに彼は名前を付けた。グラウ、と。
「灰色、なんてあんまりそのままだわ」
彼も至極単純な名前ではあったが。
狼――――グラウの方は彼女の声にどうでも良さそうな様子でパタリと一つ尻尾を振るだけ。
彼女のお目付け役に選ばれたグラウは、けれどそれほど彼女に好意的ではない。好意的ではないというより、信用していないというのが正しいかもしれない。
人狼と違い狼は群れで生きる生き物だ。けれど、どんな生き物でもはぐれ者というのは出てくるもの。グラウは言葉そのままに、一匹狼というやつらしい。
はぐれてしまったその理由は何だったのだろうか。
グラウは喋れないし、彼もそこの経緯は知らないらしい。
ただ、野生の生き物にとって群れで生きないという選択は、著しく生存率を下げる。獲物を狩ることも天敵から身を守ることも種を繋いでいくことも。何もかもが不利な状況にある。
彼とグラウの関係は、そういう不利を補うためのもののようだった。
彼はグラウに縄張り内での狩りを許し、時には自分が狩った獲物を分けてやる。グラウは代わりに縄張り内の見回りをしたり、彼の小さな頼み事をこなす。
利害の一致と言い切れば殺伐としているが、数年の付き合いは二人の間にそれなりに信頼関係を築いたようだった。
実際、彼女の目にはグラウが彼によく懐いているように映る。
「彼はあなたにとって心を許せる人なのね。……お兄さんみたいなものかしら?」
そんな彼の頼みだからこそ、グラウはこの不審な人間の娘のお目付け役を渋々承知した。
普通に森で出会っていたら襲われていて当然だが、そんな危険も感じずに済んでいる。どれだけ退屈でも彼女が外にいる間は傍を離れず、家から離れすぎるとそれ以上は行くなと服の裾を咥えて引っ張ってくれる。
何とも任務に忠実な番犬なのである。
今はまだ、義務感で隣にいるグラウ。
けれど彼女の中には欲求が芽生えていた。
せっかくの余生。この生活には何の保証もないけれど。
「楽しい思い出の一つや二つはあってもいいはずよね」
この狼と戯れてみたい。懐かれてみたい。
そんな風に他愛もない望みを抱くのは、本当に久しぶりのことだった。
入り口の扉がギッと立てた音に、彼女はハッと振り返る。
「おかえりなさい」
彼が帰って来たのだ。
彼女の出迎えに彼は頷いて応えてみせ、甕から水を掬い喉を潤した。
近頃彼はよく家を空ける。
その日のうちに帰って来ることがあれば、二三日戻らないこともある。長いと一週間近くも姿を見せないこともあった。
最初のうち、彼女は彼が飽きて棲みかごと彼女を捨てたのかとも思ったのだが、どうもそうではないらしい。
そろりと近付き、彼の様子を窺う。
すると彼女の危惧した通り、彼は怪我を負っていた。
「その腕……!」
腕の腹に赤い線を引いたような傷口。何かに引っ掻かれたような感じである。
そう、最近彼は家を空けたかと思ったら怪我をして帰って来るのだ。
程度は擦り傷程度の軽いものから、今日のような顔をしかめるものまで様々だが。
「大したことない。この程度ならその内治る」
何でもないことのように言うが、見た目には痛々しい。彼女の目には大したことあるように映る。
「駄目よ。中途半端に傷口を放っておいたら、菌が入り込んで酷いことになるわ」
人狼の回復能力が、人間と比べてどのくらい優れているのかは知らない。
「薬を塗った方が絶対にいいわ」
けれど傷があれば痛いのは痛いだろうし、早く治るなら絶対にその方が良い。
「薬など」
ない、と言いかけた彼を遮る。
「薬草を摘んできたのよ。すぐに準備するから」
日中暇を持て余している彼女は、最近薬草探しを日課に加えていた。深い知識を持ち合わせている訳ではないが、簡単な調合なら何とかなる。
三種類の薬草をすり鉢で粘りけが出るまで磨り潰してしまう。特有の匂いがぷんとして、ちらりと見ると彼は眉を寄せていた。
「匂いはちょっとするけど、ちゃんと効用はあるから」
人狼は人間よりうんと鼻が良い。もしかすると思った以上に辛いのかもしれない。
「傷口を見せて」
けれど背に腹は変えられない。彼女は強気に要求した。
彼は少し躊躇ったが、観念することにしたらしい。
「……冷たくて、ちょっとヒリつくかもしれないけれど我慢してね?」
そっと手首を握って固定する。彼に触れるのは、やはり少し緊張する。
薬を塗ると彼は眉間のシワを更に深くしたが、それでも嫌がりはしなかった。
傷の手当てに限らず、彼は彼女のやることなすことを興味深そうに観察している節がある。
「染みてるかしら?」
「――――――問題ない」
少しずつ体裁を整えて行く彼と彼女の生活。
けれど二人の暮らしには色々と隔たりがある。それを人狼の方が率先して折り合いをつけてくれていることに、彼女も気付いていた。
例えば食事。
彼女の口に合うように丁寧に肉を捌き、火を通し調理する。
多分これまでは火を通すと言ってもせいぜい豪快に煮るか焼くか、その程度しかしていなかったはず。けれど今は味付けというものを考えるし、彼女の食べ方で彼も食べる。
冬場の獲物が少ない時期に備えて燻製を作ったりはしていたと言うが、それも日常ではなかったはず。ましてや生肉なんてものは、暮らし始めてから一度も見たことがない。
それどころか果実や魚など、然程縁がなかっただろう食材を彼は用意してくれていた。
雨漏りの修理、水汲み、頻繁に火を熾す為の薪。手間はきっと二倍以上。
それを思うと彼女も少しは何かできることが欲しいと思う。家事洗濯なんて微々たるもの。
薬草探しは、そんな彼女が考えた役に立てそうなことの一つだった。
もしこの生活を続けるつもりなら、きっとお互いのバランスが大切だ。
「手の平も切り傷だらけだわ」
包帯を巻き終えてから、別の軟膏を塗り込んでいく。触れている手は厚みがあって武骨ではあるけれど、温かい。血の通った温かさ。
以前彼は人間の娘を拐かす人狼の習性を教え、彼女を脅した。
けれど言った割に、彼は一切そういった素振りは見せない。不必要に彼女に触れないし、触れる必要がある時は丁重に触れる。
「今日は何もなかったか」
「特に問題は何も」
彼に対して、この生活に対して躊躇いや引っ掛かりがない訳ではない。
彼はきっと人間を手にかけたことがある。
彼女にそっと触れる、この手で。
そして今は控えているけれど、この先二度と絶対ないとは言えないだろう。
それを目の当たりにした時、どう受け止めればいいのか。
彼女の胸にふと不安が過る。
「アレはちゃんと付いていたか」
「アレ? ――――グラウのこと?」
「そうだ」
もしかすると縄張り争いが激化しているのかもしれない。余計な詮索はしない方が良いかと怪我の原因を訊ねたことはなかったが、彼女はふとそう考えた。彼と出会った時に襲われた別の人狼のことが、思い出される。
「せっかく名前を付けたのだから、ちゃんと呼んであげなきゃ駄目よ。他者から呼ばれることで、名前はより明確に本人を象っていくものなのだから」
「……なかなか慣れない」
彼が困ったような笑みを小さく浮かべた。
怖くは、ない。今目の前にいる彼を、怖いとは思わない。
「日に一度、呼ぶところから始めてみるといいわ。――――はい、終わり」
合図のようにぽんと一度手の平を叩く。
この手は、本当は怖い手かもしれないけれど。
けれど今、ほんの少しの心地好さすら覚えて彼女は自分に戸惑う。
きっと今まで誰かの体温を間近に感じたことがなかったからだ。
そういう風に自分に言い聞かせた。
その日、彼とグラウは連れ立って出掛けてしまった。だから彼女は一日中家から出られなかった。
二人が帰って来たのは、月が空の端に掛かるような時刻になってから。
「今帰った」
帰宅時に一言告げるようになったのは、きっと進歩なのだと思う。
今日はグラウも家の中まで入って来た。それを見て彼女は声を上げる。
「どうしたの、葉っぱだらけよ」
グラウの全身が細かな葉に塗れている。一体どこを通って来たのやら。
するとグラウはぶるっと身を震わせて、違和感を振り払おうとした。お陰で床掃除のやり直しが彼女に課せられる。
「仕方ないわね」
それでもまだ取り切れてはいないので、彼女は苦笑と共に腕を伸ばした。グラウの毛に触れる。触れてもグラウは嫌がらない。
ここしばらくで、ようやく彼女はグラウとの距離を縮めることに成功していた。その毛並みはもふっと温かく、なかなかに魅惑的だ。
「あなたも付いてるわ」
グラウの毛を払いながら言う。
彼もグラウと同じように身を震わせた。
「髪にまだついてる」
「ここか?」
「違うわ、耳の後ろよ」
彼の手が頭部をさ迷う。
「もう少し右」
けれど、なかなか狙ってほしいところには届かない。
やがて焦れた彼は屈んでずいと頭を差し出した。
「…………」
咄嗟に固まってしまう。
「取ってくれ。……グラウにするのなら、俺にも同じようにしてくれてもいいだろう」
グラウと彼は違う。全然違う。
そう思ったが、迫力負けして手を伸ばす。
耳の後ろに隠れた葉をつまむ。指先に触れた髪は、以前触れた切られた髪のようにひどく滑らかな触り心地。耳の毛はふわふわだった。
その感触に気をとられていると、今度は肩をつつかれる。グラウの湿った鼻先。彼女を催促する。
「あぁ、あれね」
理解して彼女はキャビネットから例のものを取り出す。
それは――――――――ブラシだ。
物置で発見したこれこそが、グラウと彼女の距離を急速に縮めたアイテムだ。ブラッシングを通じて、グラウはいかに彼女が無害かを理解し、彼女を自分の内側へ入れることを許した。
「はいはい、分かってる」
早く早くと急かすグラウに苦笑しながら、彼女はその毛にブラシを通していく。全身隈無く、丁寧に。
遂にはお腹まで見せてブラッシングを強請るものだから、さすがに彼も呆れたような驚いたような声を出した。
「いつの間にここまで……」
そして念入りにブラッシングをしているうちに気付く。隣でしれっと待つ彼に。
「いや、それは……」
葉を払うのとは違う。ブラッシングだ。こう言ってはグラウに失礼だけれど、犬っころに対する扱いである。
「グラウにするのなら、俺にも同じようにしてくれてもいいだろう」
さっきと同じことを言う。ずいっと頭をまた差し出されて、彼女はブラシと彼の耳を困ったように見比べた。
「……グラウをといたブラシよ」
「――――」
彼は何とも言わない。ただ彼女をじっと見つめて訴えるだけ。
その目はずるいと思う。
心の柔いところを突かれてしまうような感覚。
無視し難く、結局は押しきられてしまうのだ。
躊躇いがちに手を伸ばす。
触れると、彼はピクリと耳を動かした。平気な顔を繕ってはいるけれど、お互い緊張している。
グラウの毛並みもそれはもう魅惑の触り心地だが、こちらもまた恐ろしくふわっと、けれど滑らかだ。
「…………」
あんまり素敵な触り心地に、身体の中身がぐらりと揺れる感覚。髪もそうだけれど、特別手入れをしているように見えないのに、どうしてこんな羨ましい状態を保っていられるのだろう。永遠に触れていたいくらいである。
ふと、耳に髪が擦れる感覚がして彼女はハッと現実に引き戻された。
自分がブラッシングなど忘れ、ただひたすらに彼の耳を触っていたこと。
真似をするみたいに彼が彼女の髪を指に巻き付けたこと。
自分の中に満ちていた酩酊感が、カッと羞恥心に変わる。
「ご、ごめんなさい」
「何故謝る?」
「……無遠慮なことをしたから」
「そうか? 悪くない心地だった」
「っ!」
時折彼はものすごく素直に、ストレートに言葉を紡ぐ。
それは会話の経験があまりないからなのか、人狼特有の巧言の一種なのか。とにかく心臓に悪いので、彼女はその度閉口している。
思ったより近い距離に彼の顔がある。その瞳が優しい色をしているように思えるから、彼女はますます閉口する。
自分の気のせいだろうか。
そこに慈しみや慕情を感じてしまうのは。
これが、一時の感情ではなく、本物だなんてことはあるだろうか。
彼女の中には、いつも迷いばかりが渦巻いている。
閉口していることと言えば、もう一つあった。
大抵のことは彼が擦り合わせてくれているし、彼女だって受け入れられる。これもなし崩し的には受け入れているが、それでも未だに抵抗感が強い。何かと言えば――――寝床の問題だ。
そう、この小さな家にはベッドが一つしかない。最初、彼は半分ずつ使えばいいと平気な顔で言い、彼女が微妙な顔をしたので、その後自分はソファーを使うと言い出した。ソファーはどう見ても彼の背丈に合うサイズではなく、後から来た自分がソファーを使うべきだと彼女は主張した。あとは言わずもがな、延々と押し問答である。
結局、真ん中から互いのエリアを侵さないという取り決めの元、一つのベッドを共有する羽目になっている。
彼をソファーで寝かせる訳にはいかない。そこを譲れなかったのだから、この結果は仕方がないのだと毎晩彼女は自分に言い聞かせる。
互いに触れずに済む、それなりの大きさなのが不幸中の幸いだ。いつも背中合わせに二人は眠りに落ちて行く。
「リディア」
就寝前、彼は彼女に話しかける。
「リディア?」
「――――何?」
呼吸で寝ているかどうかは分かるようなので、狸寝入りは通用しない。
彼女は先ほど彼の耳を撫で回したバツの悪さがたっぷり残っていたのでできれば知らんふりをしたかったのだが、そうもいかない様子だ。
何か隙間を満たすように、人狼は彼女のことを知りたがる。本当に取り留めのないくだらないことまで。
好きな食べ物、季節、得意な料理、苦手なもの。それから思い出話。引き出しの少ない彼女はいつも苦労する。
それに話している間、彼はこちらを向いている。彼女はずっと背中を向けているのだが、彼の視線がはっきり感じられる。だからますます困ってしまって、決して寝返りを打つことができない。
「どうしていつも背中を向ける」
今夜は何を訊かれるのかと思えば、今一番そっとしておいてほしいことを突いてきた。
「ど、どうしてもよ」
「背中に話しかけるのは存外つまらない」
「灯りもないのに顔を向ける必要が?」
「人狼は夜目が利く」
だから嫌なのだ。彼女は夜目など利かない。
「あなたにだけ見えて、私に見えないのは不公平だもの」
一方的に見られるなんて、耐えられない。彼が先ほどみたいに慈愛に満ちた目をしているかもと思えば、ますます心がざわついた。
「たっぷりの睡眠は怪我にも良いわ。この間の傷もまだ塞がってないのでしょう? 身体を休めなきゃいけないのだから、夜更かしは駄目よ」
「最近小言ばかりだ」
「怪我ばかりしてきて、心配させるからよ」
普通のことを言ったつもりだった。
なのに、急に弾んだ声が返される。
「――――――心配? 心配するのか?」
しまった、と思って、彼女はあえて素っ気なく彼をがっかりさせる言葉を選ぶ。
「…………同居人の心配をするのは普通のことよ。グラウが怪我したって同じように心配する」
「……グラウと同じか?」
案の定、あからさまに面白くなさそうな声のトーンになる。
「グラウと同じようにしてくれと言ったのは、あなたの方よ」
心が、またざわつく。まさか、と考えてしまう。
彼は本当に人間の娘に恋をしている?
心を奪われている?
一時の気の迷いや、人狼の謀りではなく。
真心だけがそこにある?
もし、そうだったなら。
自分はそれにどう応えれば良いのだろうか。
彼女は自分の心を覗き込む。
彼のことを、嫌ってはいない。今まで彼女の周りにいた、どんな人間よりも彼は彼女を隔てなく扱う。彼の前では彼女の経歴なんて何の意味も価値もなく、そのことが彼女を楽にする。
今、目に映る彼を、彼女は正直恐れていない。
けれど、目に見えているものが全てでないことも、彼女はちゃんと分かっている。
彼は人狼としては特異だけれど、それでも確かに人狼なのだ。
人間とは、全く異なる存在。
彼と自分の間には埋め難い隔たりがあるのではないか。
どれだけの真心があったとしても、それは誰にも歓迎されないものではないか。そう思えてならない。
「リディア?」
呼び掛ける声は柔らかい。乙女の柔肌に牙を立てるような乱暴さは、どこにも見当たらない。
「寝たのか?」
けれど、それに心を預けてしまってはいけない。
思い描いてみたその先に幸せを見出だすことができず、彼女はきつく瞼を閉じた。
彼が彼女に家の外を許した理由。それはグラウの存在だけが全てではない。
彼女は首元から、そっとそれを取り出してみる。
彼女の髪に結われたリボンと同じ臙脂色の小さな小袋。以前彼女の服を買い求めに行った時、別行動の間に彼が買ったものらしかった。中には彼の髪がひと房、入っている。魔除けのお守りだ。
といってもそれは気休めではなく、人狼の髪が魔除けとされるには、きちんとした理由があると言う。
人狼は基本馴れ合わないので、他の人狼の匂いや気配がしても、特別縄張りを荒らされない限りは関わり合いにならない。だから人狼の髪を持つことで、ある程度人狼を退けることができる。あるいは人狼を恐れる他の動物を避けて行ける。
もちろん髪の持ち主の縄張り内では、本人相手に何の意味も持たない代物に成り下がるが。
「この森には一体どれだけ人狼がいるのかしら」
薬草探しに出ていた彼女は小袋を再びしまい込み、お供のグラウに話しかける。
グラウは耳をピクピク動かして答えた。正確に理解できる訳ではないが、それなりに人狼が住まっていることが察せられる様子。
グラウは賢い。彼女が思うに、こちらが話すことをかなりの精度で理解している。
人語を話す者が彼と彼女しかいない状況で、ふんわりとでも意思の疎通ができるグラウの存在は貴重なものだった。
ピタリ――――
不意に彼女の隣をぴったりと歩いていたグラウが足を止める。
「グラウ?」
遅れてそれに気が付いて、二三歩先で彼女は振り返った。何やら考え込んでいるような顔――――いや、何かを感じ取っているのか。
珍しい。
こうして出歩いていて、グラウが思案することはほとんどない。護衛役とは言え、グラウ自身の気配とお守りのおかげで実力行使など必要がないのが実情だった。グラウの役目はおおよそ足元の悪い場所や縄張りの外へ出かけた彼女に注意を促すことで、果たされていたのに。
「…………何かいるの?」
まさか他の人狼だろうか。
グラウの鼻がすんと鳴り、それにつられて彼女もその鼻先が向いた方へ視線をやる。
「…………?」
木々のずっと奥、何か見えた気がした。
もう一度、よく目を凝らしてみる。
「あれ……人間?」
はっきりとは見えない。けれどサイズ感や様々な色が見てとれることから、人間である可能性が高い。複数人、いる。
スカートの裾をグラウに引っ張られて、彼女は意識を戻された。
グラウが踵を返す。それに彼女も従う。
けれどしばらくすると、またピタリとグラウの脚が止まった。
「こっちにも?」
人の話し声がする。
彼女は動悸を覚えて胸を押さえる。
今まで外へ出る時は他の人狼や熊なんかに出くわしたらと、そればかり心配していた。
考えもしなかったのだ。人間と出会う可能性を。そして自分が人間と鉢合わせることを、これほど怖いと感じるとは思わなかった。
なぜならここは、人狼の住まう森。周辺の人間はおいそれと森に近付かない。ましてや森深く分け入ろうとは思わない。そのはずなのに。
怖いのは人狼であって、人間ではないはずなのに。
「まさかこれ、人狼狩りなの?」
恐ろしい考えが浮かぶ。
ここから彼と暮らす小さな家はそう離れていない。あそこが探し出されてしまったら、どうなる?
「グラウ……」
不安に揺れる声を聞いたからか、安心させるようにグラウが彼女の太股に頬擦りをして、また別の方向へ歩き出す。
一人と一匹で、そっと気配を避けるように進んで行く。
けれど。
「!」
茂みを抜けた先で、避けていたはずのものに出くわしてしまった。
「駄目!」
彼女は反射的にグラウを茂みの中に押し止める。
「うわ!」
「何だ!?」
そこにいたのは若い男が二人。手にはそれぞれ斧と弓矢。物騒な出で立ちである。
向こうは人狼か獣が出たのかと身構えたが、出て来たのが人間の、それも若い娘だったので胸を撫で下ろした。
けれどそれも束の間。彼女をきっちり認識した瞬間、また驚きの声が上がる。彼女の方でも相手を見止めた瞬間、息が詰まった。
「お前、何でここに」
「何で生きて……? 生きて、るんだよな」
幽霊でも見たような顔をするのは――――彼女が元いた村の住人だった。
自分のツキのなさを彼女は呪う。よりによって、自分を知る人間と鉢合わせるなんて。
絶対に厄介なことになる。それは分かっていたけれど、彼女は次に自分がどう振る舞えばいいのか、その正解が見つけられずにいた。
だって、彼女はここにいてはいけない存在なのだ。
とっくに死んでいなくてはならないのだ。なのに。
「どういうことだ? 相変わらず人狼がうろつくようだから、しくじったのかとは思っていたが……」
そう、彼女はしくじった。この見目をして、人狼の食欲を欲しいままにはできなかった。あそこであの時、幕を引くつもりだったのに。
「いや、そもそも何で生きてる? この森で女が一人、身を守る術も持たずに生きられるもんか。人狼だけじゃない、他にも獣はいくらでもいるんだぞ」
驚きは見る見るうちに不審へ変わる。突き刺さる言葉と視線。寒々とした空気。すぐにこの場から逃げ出すべきなのに、手足が、思考が疎む。
彼らの態度に思い知らされる。
誰も彼女を餌にしたことを申し訳ないとは思っていないのだと。
欠片も痛む心はないのだ。
せめてバツの悪い顔くらいしてくれても良いではないかと思うけれど、自分にはそんな価値すらないらしい。
本当に酷いところにいたのだな、と今更ながら彼女は気付く。
そしてここしばらくが、ある意味でとても平穏だったことにも。
「おい、まさか」
「何だよ」
「こうして生きてるっていうことは」
侮蔑の表情が男に浮かぶ。
「人間だけじゃ飽きたらず、人狼までたらし込んだか」
「なっ……!」
その言葉には、さすがの彼女も腹の底からカッときた。
「怖いくらいの美貌だな」
「人狼相手とか、どんな神経してるんだ」
「そりゃ人間の男なんざ、相手にしない訳だ」
人を犠牲にして自分達の生活を守ろうとしたその所業だけで十分卑劣なのに、この期に及んで貶めようだなんて。こんな心無い言葉を浴びせられるなんて。
「あなた達に非難されなきゃならないことは、何もないわ……!」
大きな声に男達はたじろいだ。
多分、初めてのことだったから。
「な、何だよ。しくじったくせに、偉そうに」
「人狼がのさばってるせいで、オレらは今も森を自由に歩けない。こうして危険を犯してまで人狼狩りを実行する羽目になってるんだぞ」
そう、彼女は彼らに対し、声を荒らげてみせたことなどなかったのだ。火に油を注ぐだけだと分かっていたから。
ただ、少ない言葉と素っ気ない態度で拒んでいただけ。
だからこうして感情的になった彼女を、男達も予想し得なかったのだ。
「人狼よりも、あなた達の方がよほど卑劣で醜い生き物だわ」
吐き捨てるようにそう口にしていた。
茂みの向こうからは、グラウが彼女を急かしてきていた。今にも加勢に出てきそうな護衛役を、けれど彼女は押し止める。
彼らは気が立っているし、武器を持っている。狼は恐れるべき相手だけれど、一匹相手なら勝機はあると応戦するかもしれない。グラウを信じていない訳ではないが、どんな怪我も負ってほしくなかった。
彼女を守りながら相手にしたのなら、グラウが殺されてしまう筋書きだって十二分にあり得る。
「もう構わないで。死んだものとして放っておいて」
言い捨てて、彼女は男達の間をするりと抜ける。
「ちょ、待て!」
「逃がすかよ。人狼狩りにはあんたにも責任があるだろ!」
責任?
おかしなことを言う。かたはら痛いとはこのことだ。
「放して!」
後ろから腕を掴まれて引き戻された彼女は、心底吐き気を覚えた。
「囮には使えるはずだ」
「ったく、好き勝手言いやがって」
もう誰とも関わり合いたくないと思った。
彼とグラウとあの小さな家での生活で、世界の全てが完結してしまえばいいと。
あの世界で、彼女はきっと自分の中の空白を満たしていけるはずなのだから。
「っ!」
思い切り腕を振り払う。けれど弾いてもまたすぐに伸びてくる。苛立ちと焦りがない交ぜになって彼女の身体中を駆け巡る。
そこにふと、
「!?」
「うわっ!」
大きな影が飛び出し、襲いかかってきた。
「狼だ!」
灰色の立派な体躯。
茂みに潜んでいたグラウがその身体を押し倒す――――――――彼女の、華奢な身体を。
「きゃっ」
低く地を這う唸り声。獰猛な表情。
「ヤバい、他にも近くにいるはずだぞ」
けれど彼女にはよく分かっていた。これはグラウの機転だと。
その証拠に、彼女の鳩尾に乗った前脚には何の力も込められていない。
彼女と彼らが仲間でと何でもないと理解しているから。
「おい、今のうちに早く逃げるぞ!」
だからグラウは彼らではなく、彼女に飛びかかったのだ。彼らがあっさりと彼女を見捨てることを見越して。
案の定、彼らは全速力で踵を返して逃げ出して行く。脅しをかけるように、その背中にグラウが吠えた。森中に響いていそうなほどの、遠吠え。
余韻がすっかり去ってから、彼女はそっと身を起こした。
「グラウ、グラウは本当に賢いね」
首に抱きつき顔を埋めれば、こんな時だと言うのにお日様の匂いがして癒される。
「グラウ、ありがとう」
気にするなと言うように、ウォンと短くグラウが返事をした。
グラウと連れ立って、彼女は何とか誰とも遭わずに家まで戻って来れた。
幸いなことにまだこの辺りには、誰も辿り着いていないらしい。
けれど、それも時間の問題だ。
ここを見つけられた時、どうすればいい? 彼は、どうするだろうか?
家の中に入るとひっそり静まり返っている。
「どこか出掛けているのね」
このまま遠出をして、一週間くらい帰って来なければ良いと思う。人狼狩りが落ち着くまで、帰って来なければ良い。
彼が人間に危害を加えるのも加えられるのも、見たくない。
気休め程度だろうけれど、扉に鍵を掛け部屋の奥でグラウを抱えて身を潜める。
「お願いだからそっとしておいて……」
人狼狩りなど、リスクの高いことを今更何故。
そう考えてハッとする。
人狼がのさばっているせいで、森を自由に歩けない。そう言っていた。
ごく最近、また人狼による何かしらの被害が出たのだ。村人が痺れを切らして危険を犯すようなことが。
「まさか……」
まさか彼が?
そんなはずはないと思うけれど、断言できるほど彼女は彼を知り尽くしている訳ではない。
それに近頃よく怪我を負っていた。縄張り争いとかそういうものを想像していたが、もしかすると今回の人狼狩りと何か関係があるのか。
「そんなはず、ない」
信じたいと願っているけれど、その願いで真実を曇らせてはいけない。
「他の人狼が原因かもしれないわ」
彼女が見る限り、彼はただ欲望のままには動かない。無闇な揉め事を持ち込みたがるタイプではない。だから、軽率なことはしないはずだ。
例え人間との間に何かあったとしても、その理由を彼の口からちゃんと訊きたいと、彼女は思う。
どれほどの時間が経っただろうか。
ガチャリ、と唐突に入り口の扉が無遠慮な音を鳴らした。反射的に彼女はグラウにしがみつく。
「――――リディア? いるのか?」
彼だ。
彼女は扉に駆け寄り鍵を開ける。
「無事で良かった」
開口一番、彼はそう言った。ホッとした顔を見せた。
先ほどとの雲泥の扱いの差に、彼女は目眩すら覚える。彼の方がきっとずっと"心"というものを持っている。
「グラウが呼ぶから何事かと」
「呼ぶ?」
「さっき、遠吠えが」
あの遠吠えには、彼へのメッセージも込められていたらしい。
「人狼狩りなの」
「あぁ、随分な人数がうろついている」
「ここもきっとすぐにでも見つかってしまうわ」
ごめんなさい、と彼女は謝った。
「何が」
「うろついているのは、元住んでいた村の住人達だわ。さっき、見つかってしまった」
平穏が音を立てて崩れて行く。
彼女は思う。自分はそれでなくとも彼に我慢や妥協ばかり強いてきたのに、それにとどまらず生活そのものを台無しにしかけている。まるで不幸の呼び水だ。
「私がしくじったから。だからこんな余計な揉め事が」
彼女がどうなっていようと、きっと村人達はいつの日か人狼狩りを強行しただろうが、それでも自分の失態だという感覚が拭えない。
「――――何もされなかったか」
そんな彼女にかけられたのは、焦りも苛立ちも見えない声。
「………………」
彼の瞳はすこぶる落ち着いていて、彼女とは対照的だった。
「何も。大したことは何も」
「それならいい。最低限のものだけ、荷物をまとめてくれ」
「え」
そして彼はあっさりと言い切る。
「ここは捨てる」
あんまり簡単に言うものだから、ますます彼女は動揺する。
「でもここはあなたが守ってきた縄張りなんじゃ」
他にどこへ行けると言うのか。
「当てはある」
これまたさらりと言ってのけ、彼はグラウに外の見張りを命じると手早く荷造りを始めた。それに引きずられるように、気持ちが定まらぬまま彼女も彼の動作を真似る。
どうしてこんなことになっているのだろう。
今までだって何の保証もない、先の見えない暮らしだった。けれどふわふわしてはいても、足場はきっとあったのだ。なのにそれが急に底が抜けたようになって、奈落へ落ちて行く感じがする。
取り返しがつかない、抗いようのない力に、引っ張られているような。
「……そんな顔をするな」
振り返った彼が言った。
自分がどんな顔をしているかなんて、彼女にはてんで分からない。
「心配しなくても、どうとでもなる」
本当だろうか。
自分達の取り合わせの歪さを、彼女は改めて感じる。
人狼と人間が安穏と末永く暮らせる世界なんて、きっとない。
自然の摂理に反しているのだ。
だから、世界は二人をそっとしておいてくれない。
一緒にいては、いけないのだろう。
「行くぞ」
けれど。
当然のように差し出されたその手を。
行く先に破綻しか待っていないと思いながらも、彼女は取らずにはいられないのだ。