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甘やかな地獄






 名前など、どうして知りたいと思ったのだろう。

 その衝動の根源を、人狼はまだ知らない。




 森深くひっそりと建つ石造りの小さな家。元の持ち主は樵か猟師か、はたまた村を追われた爪弾き者か。

 いずれにせよ彼が見つけた時、この家は既に空だった。



 人狼の多くは森の中の空き家を棲みかとする。勿論、中の住人を美味しく頂いてから、家まで頂くこともある。

 意外に思うかもしれないが、森の中にはそれなりにこうした住居があるものだ。

 住まうのは森のもので生計を立てている人間。それから村では暮らせない事情を抱えた者。



 まぁ、住んでいた人間の素性はどうでも良い。大抵の人狼は気にしないものだ。




 捕らえたウサギを捌き終わった人狼は、部屋の奥に目を遣る。

 火の消えた暖炉の前のソファで、彼女は足を抱えて丸くなっていた。



 森で見つけたご馳走。人狼が住まうこの森に一人踏み入れた少女。村人達から人狼狩りの生け贄にされた、帰る場所のない存在。



 あの時、確かに彼は食欲を覚えていた。

 なのに、やめてしまったのだ。

 何故だか自分の本能をねじ曲げて、彼女を生かしてみようと思った。

 そしてそのまま連れ帰ったのだが――――




 最初の三日間ほど、彼女は自分の状況を把握できずに戸惑っていた。それでも、遠からず自分が食されるだろうと、彼の小腹が空くまでほんのちょっと生かされているだけなのだと考えていたようだった。

 四日目から、彼女が段々とイライラしていることに人狼は気が付いた。変わらない現状に精神的負荷を覚えているようだった。

 自分がこのままここで生かされるかもしれないと、薄ら気づき始めたようだった。多分、それは彼女の望むところではないのだろう。



 そして今日、膝を抱え込んで顔を伏せる彼女は絶望しているらしい。




 花の蜜を湯で割った即席の飲み物を、人狼は彼女の前に置いてみる。

「……どういうつもり」

 この数日間、彼はこの棲みかで目覚め、食事を摂り、眠りについた。彼女にも同じ生活を与えた。用心の為家の外には決して出さなかったが。

「あなた、私を食べるんじゃなかったの」

「気が変わった」

「……その気はまたころっと変わってくれる?」

「さぁ?」

 あからさまな落胆の色が浮かぶ。こんなはずじゃなかったのに、と彼女は小さく呟いた。

 人狼はそれが少し面白くない。



 彼女が人狼にとって何なのか、これからどうするつもりなのか、そんなことは一つもはっきりしていない。

 ただ、こんな風に沈まれていては気が削がれる。いたぶる為に連れ帰った訳ではない。



「ご馳走だって言ったじゃない」

「言ったが、食わなくちゃ死ぬ訳でもない」

「手順を踏めば食べるって」

「腹が満たされればあんたを家に返してやるとも言った」

 とは言え、彼女には帰れる家が最早なかったのだが。

「満たされてなんか、なかったでしょう。この数日だって動物を狩ってた。お腹が空いたなら、労力をかけずともここに私がいるのに。こんなの、何だか変よ」

「……人間だって、牛やら羊やら目に留まれば端から全部捌いて食う訳じゃないだろう。それと同じだ」

「そんな」

「納得できないなら、人狼にとって人間は嗜好品だと思え。酒や煙草と同じ。摂取しなくて済むヤツは、口にしない」

 彼女は泣きそうな顔をした。

 今まで微かな恐怖を浮かべることはあっても、大きく取り乱したことはなかった彼女が。



 所在がなくて、途方に暮れている。そんな様子。



「死にたいのか」

 そのつもりで森へ来たのだろう。中途半端に生き延びてしまったから、どうしたらいいのか分からなくなっている。



 彼女は答えない。答えられないのかもしれない。



 何か喋ればいいのに。



「そんなに人狼の餌食になりたいのか」

 促すように再度問う。

 でも、彼は彼女の断末魔以外を聞きたいと思っている。

「――――分からない」

 呟くように彼女は答えた。

「でも……今の私に、生きるって、そんなに必要のあることかしら」

「人間は面倒なことを考える」

 苦笑混じりに言えば、彼女は少し眉根を寄せた。

「人狼は違うと言うの?」

「答えの出ないことに理屈を捏ね回す趣味はない。今、その心臓が動いているなら、それに任せておけばいい」

 カップを押し出すと、おずおずと彼女はそれを手に取った。そっと口をつける。

 細い喉がこくりと鳴るのを、人狼はじっと眺めていた。



 細くて柔くて、すぐにでも台無しにできそうな。



 だからこそ、彼は衝動では動きたくないと思っている。



 それにしても自分とはあまりに違う生き物だ。人狼は屋根があることぐらいしかこの家に求めていなかったが、彼女はそうもいかないだろうことに気付く。

 擦り合わせることは沢山ある。

 今年は冬中火を焚く必要があるのかもしれない、と彼は思った。











「ねぇ、これ、あなたの髪?」

 ダイニングテーブルに置かれたそれを眺めて彼女が問う。

 答えずとも、すっきりした彼のうなじを見れば一目瞭然だった。

 わざわざ紐で縛って取り置かれているのが不思議らしい。

「人狼の髪は意外と需要がある。高値で取り引きされるもんだ」

 彼は説明してやる。

「その滑らかな手触りと丈夫さから色々と加工される。時に魔除けの守りとしても使われるというから、こんなに可笑しいことはない」

「……どういう」

「魔で魔を退けようという発想は分かるが、守りとしているものの正体を知らずによく頼るものだ」

「人間が、人狼の髪を魔除けに?」

「人間以外が逆に必要とするか?」

 彼女は目を見張った。

「あなた、人間と取り引きをするの? 人間は人狼と承知していて取り引きするの?」

 彼女の常識からすれば驚愕の事実だろう。

「人間の村にそう頻繁には訪れやしないさ。ただ人狼っていうのは中途半端な存在で、狼でなければ人間でもない。けれど見方によっては狼であり人間でもある訳だ。習性と個体数から人狼だけでコミュニティを形成するほどではないから、必要とあれば人間の暮らしに紛れ込むのさ」

「……人間を、襲わないの」

「人狼にはこれでも礼節とルールがある。勿論、それを守らない野蛮な奴もいるが、それでもむやみやたらに襲いかかりはしない。一度に腹に収められる量は知れてるし、せいぜい路地裏に一人引きずり込むぐらいしかしないだろう」

「………………」

「街中ですれ違った奴が人狼の可能性はそれなりにある訳だ」

 彼は上着を羽織り、ついでにフードを目深に被る。

「売りに行くの?」

「人狼の髪は意外と需要がある。ものによれば最高級品として市場に出回る。高値で取り引きされるものだ。ただし、名目上ただの狼の毛として」

 細い指が恐る恐る髪に触れた。

「すごい……」

 彼女が息を飲む。

 灰色の髪はよく見ると光沢を放っているし、手触りは絹のように滑らかなはずだ。

「店主は俺が人狼と勘付いているが、素知らぬフリで取り引きする。そうしているのがお互い平和的だ」

 そして彼は彼女を促した。

「あんたも支度をしてくれ」

「私も行くの?」

 驚きの声。

 この数日、彼は彼女を一歩も外に出そうとしなかったのだから、当然の反応だ。

「一生閉じ込めておく訳にもいかない。心配しなくても行き先はあんたが来た村とは別の場所だ」



 それに、そもそも彼女がいなければ始まらない。何の為に髪を取り引きするのかと言えば、彼女の為なのだから。











 石畳の両側には露天が軒を連ねている。

 人狼だけではなく、何故か彼女も目深にフードを被り、窺うようにそろそろと歩を進める。

「何故フードを外さない」

 彼は耳を隠さなければならないが、彼女に隠すところがあるとは思えない。万が一知人に見られたら、と心配しているのだろうか。

「この方が面倒事が起こらないから」

 彼女の言う面倒事の詳細はよく分からなかったが、彼はそれ以上の追及をやめた。



 露天の合間に息を潜めるように建つ細い家。彼女を外で待たせて彼は髪と硬貨を引き換える。

「いつもより短いな」

 店主は額と言うにはいささか広すぎる前頭部を撫で擦りながら言う。

「鬱陶しくなった」

「へぇ?」

 この程度のやり取りはいつものことだったが、探りを入れられているようで今日は特別煩わしく思えた。

「余計な詮索は身の為にならない」

「その通りで」

 瞬時に空気を読んだ店主は、溜め息混じりに同意するとすっと大人しくなる。



 革の小袋の重みは店主の指摘と相対していつもよりは軽い。それでも外で待っていた彼女に示してみれば、驚いた表情を返された。

 中身は銅貨ではなく勿論金貨銀貨である。



 そのまま彼女を伴って道なりに歩いて行く。

 周りを見渡せば人通りは多く、誰も彼を他の人間と区別せずに同じ空間に許容する。鳴りを潜めれば、やはり外見は人間と変わらないのだ。



 ふと背後を振り替えれば、人混みに揉まれ彼女の足がもたついていた。二三歩広がった空間に慌てて、思わずといった様子でその腕が伸びる。

「――――!」



 そして、人狼の上着の裾を掴んだ。



 ほっとしたのも束の間。

 彼女は自分の行動にハッとして、再び手を開く。馴れ馴れしい態度だと、そういう距離感の関係ではないと、自分の行動を後悔する表情が浮かぶ。

 彼も思わず呆然とした。意外というか、予想外だった。

 誰かにこんな風にすがられたことなどなかったから。

 彼女にとって人狼が手を伸ばすべき相手になり得るとは思いもしなかったから。



 ただの反射だ。

 そう思い直しながらも、彼は離れかけた彼女の手を取り、自分の上着の裾を握らせ直す。



「この人出だ。はぐれると厄介だ」

 本当は匂い一つですぐにでも彼女を辿ることはできたけれど、人狼はそう嘘を吐いた。目に見える範囲にいないと落ち着かない気がしたのだ。

「ごめんなさい」

 彼女は彼とは目を合わせずに、地面を見つめながらそう言って、改めて裾を握った。



 悪い気分ではないが、落ち着かない。

 そして心の片隅に浮かぶ物足りなさ。



 ここ数日、彼女はすっかり口数を減らしてしまった。

 出会った時のようにもっと色々と話してくれればこの落ち着かなさも紛らわせるものを。

 彼自身が長期間他者と時間を共有したことがない為、自分で引き起こした事態とは言え手を焼いてしまう。



 溜め息を呑み込んで、彼は目に留まった店に彼女を引っ張り込んだ。

「選べ」

 店中には色彩の洪水。山のように重なった衣服。

「――――え?」

「自分で選んでくれ」

「私の、服?」

「俺に女物を着る趣味はない」

 見渡してみると一目で分かる。店内は圧倒的に女性物で埋め尽くされている。

「で、でも」

「金ならある」

 そのために森から出てきたのだ。



 彼女を生かすという選択。

 それは確かに思いつきの気紛れかもしれない。いつまで続くかなんて、本当のところはよく分からない。

 ただ、始めたことにはそれなりの肉付けをして体を整えるのが彼の主義だ。中途半端は何もかもをつまらなくする。

 あの棲みかには彼女にそぐうものがほとんどない。服一つとっても、到底サイズの合わない彼のもので一時しのいでいた。



「適当に選んでやってくれないか。シーズン分ひとまとめに」

「随分気前がいい旦那だね」

 焦れて店主に声をかけると、五十絡みの女はにんまり笑いながら彼女のフードを外した。

「おやまぁ、これはまた選び甲斐のある……」

 まじまじ顔を見られて居心地悪そうにしている彼女に、彼は数枚硬貨を渡しながら囁く。

「他の用を済ませてくる。終わったら出たところで待っていてくれ」

 返事は待たずに踵を返す。

「これなんかどう? こっちのペンダントと合わせたら可愛いと思うけど」

「装飾品なんていらないです……!」

 背後では早速店主と彼女の攻防が繰り広げられていた。











 他にも入り用だろうと思われるものを買い求めて、彼は彼女と別れた店へと戻る。

 こんなに長時間、街中に紛れたのは久しぶりだった。

 すれ違う中には若い娘も赤子を抱いた母親もいるが、それほどそそられもしない。

 遠くに目指していた店が見えてきて、彼は思わず眉をしかめた。



 彼女はやはり逃げもせず、彼の言った通り店の前に立っていた。ただし、一人ではない。

 半ば取り囲むように若い男が二人、彼女の前に立ちはだかっている。



 人狼は目がいいのでよく見える。

 彼女の顔には明らかに迷惑そうな色が浮かんでいる。



「………………」

 彼は自分の中で怒りがうねるのを感じた。不愉快だ、とはっきり感じた。

 片方の男が彼女の華奢な腕を掴む。



 一跳びにその場まで駆けたい衝動を何とか抑えて、人混みを掻き分ける。



 あれは、自分のものなのに。

 他人のものに、許可なく触れて。



 彼女は振り解こうとするが、そう簡単にはいかない。あの細い腕に痣がつく様が容易に想像できて、彼は更に苛立ちを覚えた。



 あと、数メートル。



 人間らしく振る舞わなければならないことがもどかしく、言葉が喉を突いて出る。



「リディア!」



 弾かれたように彼女がこちらを見遣る。彼を、真っ直ぐ。

 そう、それでいい。



 彼は彼女と男達の間に割り込んだ。

「なん……」

 彼女に触れるその不作法な手を捻り上げる。

「っあ!」

「お前……!」

 もう一人の男が気色ばんだが、そんなものはひと睨みで蹴りが着いた。彼が見せるその剣呑な眼差しには、並の人間には出せない確かな殺気が宿っているはずだった。

「は、放せよ!」

 腹は立っている。けれど獣の性より理性がいくらか勝っていた。こんなところで揉めると大層面倒なことになる。

「……行くぞ」

 突き飛ばすように男を解放して、彼らが尻尾を巻いて逃げ出すより前に、彼女を促して歩き出す。



 彼女がフードを取りたがらなかった理由が、何となく彼にも察せられていた。











 幸いにも、彼女の腕に痣が残るようなことはなかった。

 棲みかに戻った彼は、検分し終わった腕をよくやく解放する。

「……私、よく分からないわ」

 黙りこくっていた彼女が、深い溜め息と共にそう吐き出した。

「分からないとは?」

「あなたがどういうつもりなのか」

「………………」

「分かるのは、おかしなことだらけってことだけ」

「おかしいか?」

「あなたがこの数日私にしてきたこと全て、到底人狼のすることとは思えない。あなたの態度には私に対する譲歩や思いやりばかりが見える。人狼は捕食者に対してそんな感情を向けるもの? それとも、これも人狼のお得意の謀りなのかしら。散々油断させて安心させて、その果てに裏切るの? そういうゲームなのかしら?」

 彼女の目に浮かぶ疑念、不安、恐れ。信じる訳にはいかないと雄弁に物語る。

 彼もまた自分がどういう生き物か十分分かっているつもりなので、信じてくれと口にすることの馬鹿らしさは理解していた。

「あなた、私の為に髪を売ったのでしょう? 私の為に食事を用意し、寝床を与え、服を揃えた。絡まれていた私を助けた。怪我をしていないか心配した。何もかもが私の望んでいた展開と違う」

 彼女はきっと、生きることに疲れきっていた。もしかするとあの時、望み通り血の一滴まで啜ってやれば良かったのかもしれない。そんな気さえする。

「本当は私が誰に関わるのも面倒に思っていること、あなたは見抜いているでしょう? ……私、あなたに玩具にされてるのかしら。それとも毛色の珍しいペット扱い?」

「違う!」

 強い声が出ていた。

 彼女の思考がどんどん彼の望まない方へ流れて行く。ペットなどと、そんなことは微塵も思っていない。

「じゃああなたの私の扱いは、何を意味するの?」

 ただの気紛れとも違うのだと、彼は段々と確信し始めていた。

 さっき、彼女の名前を呼んだ時、彼女がそれに反応した時、何かが分かりかけたのだ。

「何が不満なんだ。人間の女に対する態度として何か間違いが?」

「人間の女を相手にする必要がそもそも……」

 そうではない。他の誰かや何かではなくて。



 言葉にするのが難しい。

 何を伝えたいのかもまだ掴めていないのだから、当然と言えば当然だが。

 だが、自分でなくてもいいだろうと言う彼女が気に入らなかった。

 彼女でなければ、こんなに色々と手をかけたりしない。とっくにあっさり片が着いている。



 口より先に、手が動いていた。



「!」

 肩を押すと、あっけなく彼女は仰向けに倒れる。



「知らないんだな」

「な、に」



「人狼には男しかいない」

「――――え?」



 ではどうやって種を繋いでいるのか。

 答えは、目の前に。



「時折人狼は年頃の娘を拐かす。食らうことが第一目的じゃない」

 言わんとするところを彼女が理解する。そんなこと、今まで思いつきもしなかったのだろう。呆然とした表情。

 彼女の無防備さをからかうように、彼の武骨な手が下腹部を滑る。

「大抵の娘は発狂するし、死を選ぶ。なまじもっても、子育ての入り口で挫折する。だからほとんどの人狼が母親というものをよく知らない」

「――――――――――――」

 恐怖に凍てつく眼差しが彼を貫いた。

 けれど、欲しいのはこれじゃない。

 恐れられたい訳ではなく、そういう扱いとは違うのだと教えたかった。



「……お巫山戯が過ぎたな」

 張り詰めていた空気を一方的に解いて、彼は腕を引いて彼女の身を起こす。

「………………あなたにも」

 すっかり萎縮してしまったかと思ったが、恐る恐るながらも彼女は言葉を紡いだ。

「母親の記憶はない?」

「残念ながら」

「ずっと独りなの?」

「人狼は大体十二、三歳で独り立ちする。俺も例に漏れずそれくらいで自分の縄張りを求めて外に出た。それまで、最低限のことは父親から教えられるものだ」

 問いかけは続く。

「寂しくはなかった?」

「人狼とは群れずに生きる。そういう生き物だ。それが当たり前で、疑問を持つことはない」

「でも、あなたは私の思う人狼とは随分規格が違うわ」

「俺が寂しさに参っていると?」

「…………何と言っていいか、分からなかったの。でも、ここ数日のあなたを見ていると、その、言葉を交わすことを大切にしているように思ったから。あなた、いつも私とちゃんと目線を合わせようとしていたわ。そういう他者と関わりたい欲求って 何 か欠損を埋めたいとか、気持ちの上での充足感を得たいとか、そういうことかしらって……勝手なことを言っているかもしれないけれど」



 寂しさなど。

 そんなもの、生まれてこの方概念として意識したことすらない。



 けれど、とふと彼は思った。

 その無縁の感情を、この先知ることになるのかもしれないと。



「私、あなたのこと、何も知らないわ」

 彼女は分かっていないのだろう。自分がどれほど奇特なことを言っているのかということを。

 人狼を知ろうとするその思考など、他のどの人間もし得ないということを。



「リディア」



 名前を呼ぶと妙に心が揺れる。それは心地良い揺らぎ。



「俺もあんたを何も知らない」

「そうね」

 今度は彼が問いかける。

「人が嫌いか?」

「……いいえ」

「嫌いというより苦手?」

「……いいえ」

「でも人と関わるのをえらく避ける」

 久しぶりの人間の街だというのに、彼女はちっとも嬉しそうではなかった。それどころか極力小さくなっていた。

「私は多分、他人よりも自分が嫌いなの」

「何故」

「周りと馴染まないから」

 苦笑する。苦笑とは言え、久しぶりに笑っているところを見た。

「さっきも見たでしょう? すぐに人に絡まれて、揉め事だらけ」

「それはあんたが美しいからだ」

 事実をそのまま口にする。



 そう、彼女は美しい。

 きめの細かい肌も、透き通る眼差しも、流れる髪も、何もかも。世間の標準を超えることは明らかだ。



 そんなストレートな言葉に、彼女はちょっと目を見張った。



「ありがとう。……でもその事実は私を幸せにはしなかった」

「それは、あんたの生い立ちのせいか?」

 彼女がこの人狼の森へ独り踏み入ることになった、その所以。詳しい訳は、聞いていなかった。

「楽しい話じゃないわ」

「辛い話なら、いい」

「今更辛くはないけれど……そうね、そうややこしい話でもないから」

 不義の子、と以前彼女は自分を称した。それが原因でこんな森の中にいるのだと。



「私の父親は、領主様なの。住んでいた村を含め一帯を治めていた領主様の娘。けれど母は領主様の奥方様ではないの」

 領地を見回っていた際に、領主が見初めたらしい。一介の村の娘だったが、その美しさが災いした。

「その頃、領主様は婚約中の奥方様とのご結婚を間近に控えてらした。奥方様の心中は察するに余りあるわ。冷めきった夫婦関係の果てに愛人を作られるのとは違う。まだ、始まってもいなかったのに。時期が時期だけに世間の非難と奥方様の憎しみは嵐のようだったって」

「…………でもそれは、領主が悪いんじゃないのか。相手が相手だから、拒むに拒めなかっただけかもしれないじゃないか」

 彼の疑問を彼女は曖昧な笑みで受け流す。

「元々その外見故に、揉め事が絶えなかったらしいの。望まずとも男は寄ってくるし、それを見た女達は媚びを売ってるとか軽いとか略奪したとか、妬みや嫉みを募らせる。女の輪から外れれば、殊更男が寄ってくるのが目についてしまう」

 悪循環のスパイラルだ。

「折りの悪いことに、奥方様に第一子がお生まれになる前日に、私が生まれたの。恨みつらみや非難は一層募る」

 それも、計算してのことではないだろうに。

「母のことはよく知らない。私が四つの頃に亡くなったから。本当に世間が言うような道徳心に欠けたひどい人だったのか、領主様のことを愛してしまっていたのか、ただ不幸の連鎖から逃れられなかった可哀想な人だったのか。山のようにあった噂のどれが本当でどれが嘘なのか」

 彼はぼんやり想像する。彼女が独りぼっちでいるその様子を。

「その後は領主様の意向で屋敷に引き取られたわ。私を憐れに思ったのだろうけど、それはもう息の詰まる毎日だった。屋敷にはもちろん奥方様やご子息ご令嬢がいるから」

 結局奥方と彼女の両方が望んだことで、十五を迎える頃には金銭的援助の約束の元、村へ返されることになったと言う。

「村に戻ったら戻ったで厄介事は絶えなかったけれど、それでも屋敷にいた頃よりはマシだった。扉を閉ざしてしまえば、そこには私しかいない。私が母にそっくりだろうと、誰が下心を抱こうと、妬み嫉まれ爪弾きにされようと、家の中のいる私には関係のないことだった」



 寂しかったのは、孤独だったのは彼女の方だろう。

 恐らくそんな感情は、疾うに壊死しているのだろうが。



「人狼狩りの話が出た時、暗に志願しろと仄めかされたわ。丁度良いと思ったの。家の中に閉じ籠るのにも飽きてきたところだったから」



 にっこり笑って彼女は話を締め括る。



「まさかこんなことになるとは思わなかったけれど、きっと他の誰でもないあなたに出逢ったのは、運命ね。何か意味のあることだと、そう思いたいわ」



 それは自虐的な笑みではなく、自然と涌き出たものだった。



 こういう顔が見たかった。こういう感情を向けられたかった。




 彼はようやくはっきり理解する。

 彼女は彼と"対話"をする。彼を意志疎通できる相手だと認めている。

 彼を、人狼という種で見ずに、個として扱う。

 それが何ともむず痒く珍しく、そして惹き付けられるのだ。

 他の誰にも、きっとこんな風に心は動かない。




「その意味を知りたいのなら、死にたがらずにこの先を生きてみるといい」



 言葉だけは知っている。――――そう、恋情とかそんな部類のもの。



「ふふ、思わぬ余生だわ」

「きっと長い余生になる」



 なるほど、これは厄介だ。彼は内心頭を抱える。

 直接的な空腹よりも、これはもっと深刻な渇き、飢餓感だ。



 彼は彼女が欲しい。

 彼女の関心が、言葉が、微笑みが、その心、存在そのものが。

 けれどそれは一方的に働きかけて得られるものではない。目の前にあるのに、自分の意思だけではどうこうできない。

 こうなってはもう、短絡的に彼女を腹に収めても、単純な満腹さえ感じないだろう。




「時間なら、いくらでも。望むだけ、いや、飽きるほどを約束する」




 この感情はきっと手に余る。

 けれど酷く甘く狂おしく手放し難い。

 人狼と人間の相容れなさは、歴史が証明している。

 だけれどその先を望むなら、きっとそれは夢物語を始めるようなものなのだ。







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