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【番外編】食後のドルチェ

先に説明しておきますと、"ルディ"は"ヴォルフ"と同じく「オオカミ」を表す名前になります。






 その日、彼女は家の横にある小さな畑で、日課の手入れをしていた。

 土を掘り起こすところから始め、春には約束通り彼が手に入れて来てくれた野菜の種を蒔いたり、苗を植えたりした。

 夏場の今、畑は緑に溢れている。そのそこここに実が付き、日々の食糧となっていた。

「トマトの消費が追い付かないわ……」

 もちろんここに至るまで失敗もあり、駄目にしてしまった苗もある。けれど結果的には二人の消費に比べて供給が勝るという嬉しい悲鳴をあげるような状況だった。

「うーん、ドライトマトとかにすればいいのかしら? そうすれば日保ちもするし」

 作物が育つのは楽しいし、あれこれ考えなくてはならないこともあるので、畑仕事はリディアの日常においてなかなか重要な位置を占めている。

 色々レシピを考えて彼に食してもらうのも、やりがいのあることだ。

「さて、と」

 川から汲んで来た水を撒く。この時期はすぐに乾いてしまうので、日に何度も川を往復する。井戸の水もあるけれど、そちらは飲料水としての役割が強い。

 それなりに重労働ではあるけれど、いい運動と言えばそうだった。

 けれど、自分の手の平を見てふとリディアは思い出す。



 春先慣れない鍬や鋤で畑を掘り起こしていたら、皮がめくれてしまったことがあった。一緒に作業をしていたヴォルフがびっくりするほど気色ばんで彼女から用具を取り上げるものだから、あわや彼女は畑仕事を禁じられるところだったのである。

 余計な傷を作るようなら作業は禁止だと言い出す彼を説得するのは大変だった。過保護が過ぎるのだ。

 こんなようでは彼がいなければリディアの生活は成り立たなくなってしまう。そう言うと、彼は心底不思議そうな顔をして、それの何がいけないのかと問うた。ずっと一緒にいるのだから、それでも問題ないだろうと。



「気持ちは分からなくもないけれど……」

 互いに互いだけを頼りに、存分に甘やかせたら、そこは何て居心地の良い世界だろうか。

 でも、世界は二人以外の要素を存分に孕み、ずっとと言ってもそれは永遠ではない。

 リディアはもちろん自分の命がある限り、ヴォルフの隣にいるだろう。

 けれと、それは有限なのだ。ヴォルフもリディアもいつかは死ぬ。どちらが先かは分からないけれど、同時にということは可能性としては低いだろう。



 与えられるだけの心を、彼に与えたい。自分だって彼の心がほしい。

 でも両の足で立つことを、頭の中身を相手に任せてはいけない。

 それは自分のためでもあるし、相手のためでもある。



「私がしっかりしなくちゃ」

 そう呟いたところで、トットッと地面を蹴る音が耳に届いた。よく耳に馴染んだ音だった。

「グラウ?」

 昨晩から出て行ったきりだったグラウだ。

 そう思ってリディアは振り返った。予見は、当たっていた。

 ーーーーただし、それだけではなかった。



「おかえりなさい……ってなぁに?」

 グラウは何かをパクりとくわえていた。

「獲物…………じゃない」

 濃いグレーの、正直汚れが目立つ小ぶりの何か。

「!」

 くたりとしたそれに目を凝らして、リディアは気付く。

「狼……! え、子どもの狼?」

 初めは何の毛玉かと思ったが、よく見ると尖った耳や顔つきはオオカミそのものである。

 産んだの!? と訊きかけて、グラウはオスだと思い直す。

「……というか、その子、生きてる?」

 目を閉じ力が抜けた小さな身体は、嫌な想像をけしかける。

 恐る恐るそう訊くと、けれど見計らったようにその小さな足がピクピクと動いた。

「良かった」

 グラウはこの子狼をどこかで拾って、保護するつもりで連れ帰ったのではないだろうか。

「でもその子、怪我してる……?」

 訊くと同意するようにパタリと尻尾がひと振りされる。

「手当てしなくちゃ。グラウ、家の中に」

 リディアは収穫物を入れたカゴをひとまず足元に置いて、家の中へ急ぐ。

 薬箱は扉を開けて左手すぐにある窓辺だ。ヴォルフやグラウは怪我が多いから、帰って来たらすぐに手に取れる場所に置いてある。



 トコトコ付いて来たグラウは、入口のすぐそこでポトリと子狼を床に降ろした。

「怪我してるの、後ろの右肢?」

 見下ろして戸惑う。

 元々濃い色をした体躯なのだが、汚れもひどくて仔細がはっきりしない。どこをどう触ればいいだろうか。

「洗うのが先かしら……?」

 けれど傷口の具合によると、相当気を付けて洗わなければ痛い思いをさせそうだ。



「リディア?」

 戸惑っていると背後から声を掛けられた。

「ヴォルフ!」

 家の裏手で薪を割ったいたヴォルフが顔を出す。

「ヴォルフ、大変。大変なの」

「大変?」

「見て、この子。グラウが拾って来たの。怪我をしているみたいで」

 床に横たわる子狼に元気はないが、澄んだ深いブルーの瞳にはしっかりと意思が宿っているように思える。この状態で森に捨て置かれていたら正直明日も知れないが、きちんと手当てさえできれば命に関わるような傷ではないのだろう。

 傷の具合を見ようとリディアは手を伸ばした。



 次の瞬間ーーーー



「きゃっ」

 キャン! という高い鳴き声と共に、子狼が前肢を振るう。手の甲に熱が走って、遅れてぷくりと赤い線が浮かぶ。

 どうやらいきなり手を出した彼女に驚いたらしかった。

 迂闊なことをした、とリディアが反省の念を抱いたその時ーーーー



「…………!」



 空気がガラっと変わった。

 きゅーんと頼りない声を細くあげ、子狼が尻尾をお腹の内側までくるりと撒く。視線を滑らせるとグラウも同じく尻尾が反応している。

「…………」

 うなじがヒヤリとする。場に立ち込めているのは絶対零度の怒りだ。発しているのは言わずもがな。

 その威圧は場のヒエラルキーを如実に現していた。

 リディアだって尻尾があったら、同じように巻いていただろう。

「ヴォ、ヴォルフ。こんなの、大したことないわ。この子だってわざとじゃないわよ」

 この場を穏便に治められるのは自分しかいないと、リディアは恐る恐る声を出す。

「そんなに怒らなくてもいいじゃない」

 しかし回答はにべもない。

「上下関係は初めにはっきりさせておくべきだ」

 獣相手にそれはそうかもしれないが。

 振り返った先には鋭い視線。

「怪我をして、気が立ってるのよ。そこに見知らぬ、しかも人間が現れて手出ししてきたんだから、驚いたり自衛したりするのは当然のことよ。この子に分別がない訳ではないわ」

「だからこそ、だ。同じ事を繰り返すようじゃ話にならない」

「今のは急に手を出した私が悪いの」

 それに上下関係云々は、ヴォルフの最初のひと睨みではっきりしたとリディアは思う。どう見たって、この場で一番逆らってはいけない相手は彼だ。本能できっちり理解しているから、今この子狼はこんなに縮こまっている。

「その怖い空気をもうしまって。この子もちゃんと分かってる。手当てをしたいの。いえ、その前に身体を洗ってあげたくて」

 こんな調子でリディアの身に起こるあれこれに目くじらを立てていたら、外の雑草で手を切ったりした次の日には、きっと森は焼け野原だ。

「……順番が間違っている」

 苦味を噛み潰したような声でヴォルフが言う。

「こっちの手当てが先だ」

 取られた手の甲に走る細い傷は、けれど血が垂れるようなこともなく、この程度ならしばらくすれば傷痕も消えてくれるだろう。痕が残らなさそうなことにリディアは密かにほっとする。

 自分のためにではなく、子狼のために。



「ねぇ、ヴォルフ」

 そして先に言質を取ってしまおうと思う。

「この子、手当てをしたらここに置いてあげていいでしょう?」

 彼は自分の内側に置いたものに対してはどこまでも懐が深いが、そう簡単に他者を受け入れはしない。今ここにある平和に余計なリスクを持ち込むことを好まない。最初にはっきりさせておかないと、この子狼を置くことを良しとしないだろう。

 何せ悪意はないとは言え、既に彼の不興を買ってしまっている。

「帰るところがあるならもちろん帰った方がいいけど、せめて元気になるまでは。帰るところがないなら……」

「ーーないだろうな。だからグラウも拾って来たんだろう。怪我が理由で群れからはぐれたか捨てられたか」

 うっかりはぐれたから怪我をした、という可能性もある。

 はぁ、とこれ見よがしにヴォルフは溜め息を吐いた。吐いたが、それだけだった。



「グラウ」

 呼び掛けられたグラウの耳がピコンと立つ。

「お前が拾って来たんだ。お前がきちんとしつけるように」



 かくして二人と一匹の生活に、新しい仲間が加わったのであった。











 リディアが許されたのは、子狼の身体を洗うのと怪我の手当てまでだった。それが済むとグラウはパクリと子狼をくわえて、彼女から遠ざけてしまったのである。

 以来、数日経つが彼女は全く子狼と触れ合えていない。

 ヴォルフが初日に宣った上下関係なんかは、あの怒りのオーラで一発で理解できたはずである。子狼はその後リディアが手当てを終えるまでそれはそれは大人しくしていたものだ。だから、もう危ないことは何もないと思うのである。

 けれど躾、と彼が言ったのを、グラウは律儀に守っているようだった。

 狼として必要な社会性を一通り教え込むまで人間の介入は許されないらしい。

 だからリディアはちっともあの可愛い生き物に触れられていないのである。



「触りたい……」

 あれは狼だ。犬ではない。むやみやたらにじゃれつく相手じゃないことは理解している。

 でも、迎え入れると決めたからにはもう家族なのだ。家族ならばスキンシップは必要だ。

 撫でくり回したい気持ちを抑え続けているせいか、近頃リディアはもふもふしたい欲求がストレスに変わりつつあった。

 今日も恨めしい気持ちで子狼に寄り添うグラウを見る。グラウは困った顔をするが、駄目なものは駄目と尻尾でピシャリと床を叩いた。



「リディア」

「…………なぁに」

「あまりそればかりに気をやるな。妬けてくる」

「ヴォルフったらこんな小さな子相手にまで嫉妬するの?」

「触りたいんだろう」

「そうよ。ぎゅっとしたいの。あんなに可愛いんだもの」

「グラウがいいと言うまでは駄目だ。リディアにはよく分からないかもしれないが、こう見えてグラウは真面目にコイツをしつけている。どうしても触りたいと言うならーーーー」

「!」

 不意に腰に腕が回されたと思ったら、ふわりと身体が浮いた。そのまま彼はソファーに腰掛ける。リディアは膝立ちで真正面からヴォルフと向き合う形だ。

「こちらを触ればいい。あれの触り心地がどれほどかは知らないが、俺のでも不足はないだろう?」

 取られた両手が彼の耳に添えられる。確かに触れた途端、魅惑の心地好さに襲われる。

「それに今日は約束の日だ」

「言われればそうでした……」



 約束の日。

 それは例の喧嘩以来二人で取り決めた、恒久的平和の為のあれこれである。

 観念してリディアは彼の耳をもふもふし出す。これは我に返るとそこそこ恥ずかしい行為なのだが、触っている間はひたすらに癒されるのでリディアにしてみれば比較的ハードルの低い案件なのである。




 他にも、


 ・朝昼晩のハグ(三分、一分、三分)


 ・就寝時の背中向け禁止(寝返りは不可抗力とする)


 ・グラウ三回もふもふにつき、リディアからヴォルフへのハグ一回


 等々約束事があり、内容は二ヶ月に一度見直されることになっていた。

 基本リディアが押されがちだが、昼のハグが一分であるのや、寝返り不可抗力は彼女の懸命の努力により勝ち得た譲歩である。

 それに言われてしまったのだ。



"俺とリディアは家族だが、そうである前にまず恋人同士だ"



 恋人。

 思わぬ単語に赤面して言葉を失った後、けれど二人の間の愛情を変換するとそういう言葉になるのだと改めてハッとした。恋人だろうと言われて、それならばあれこれ拒否しまくるのもどうかと思うと、リディアは今更ながら自分自身を見つめ直す羽目になったのである。




「相変わらず羨ましい触り心地……」

 耳もふもふはヴォルフの提案だった。リディアがこの触り心地に弱いのを知って、なし崩し的に自分から触れることへの抵抗を取っ払ってしまおうという魂胆であるが、当のリディアはそこまでは読めていない。

 こう考えてみると随分彼に都合の良い取り決めが多いように思えるが、断りなしに触らないとかグラウの前では過剰なスキンシップは禁止とか色々制約はあるのだ。

 口付けだって頬とか額とかたまに唇に触れても軽い感じだけと、彼は彼でなかなかの禁欲生活を送っているのである。



 もふもふ、わしゃわしゃ、毛並みに沿って丁寧にすいたり。

 リディアの手はヴォルフにとって恐ろしく心地か良い。うっとりし過ぎて、たまに喉を鳴らしてしまう。それに気付いているのかいないのか、リディアは今日も存分にヴォルフの耳を堪能してくれている。

「ねぇ、ヴォルフ」

 甘い声が彼の名を呼ぶ。

「あのね、あの子に名前を付けてあげて」

 その声で強請られると、彼は何でも聞いてやりたくなる。それが最近すっかり彼女の心を奪ってくれている新参者のことであっても、チロリと心を舐める嫉妬の炎を横目に彼は応える。

「名前、な」

 確かにいつまでも"これ"とか"それ"とか言っているのでは不便かもしれない。



「………………では、ルディと」



「ーーーーーーーーー」

 これでも考えて絞り出したつもりなのだが、 彼女は沈黙でもって感想を示す。

「イマイチか?」

「いえ、そういう訳じゃ。あの、でも、グラウの時もちょっぴり思ったのだけど、分かりやすい名前が好きなのね」

「名付けの作法などよく分からない」

「作法……というか、思いを込めてつけるのよ。オオカミにオオカミを表す名前を付けるのは、その、随分ストレートだなって思っただけで」

 思い入れ、と言われてもピンとこない。ひねりがないのは百も承知だが、見たままを付けた方が分かりやすいし、識別ができるのならそれで役割は果たしていると思う。

 ーーーーいや、だが。以前彼女は言った。



"他者から呼ばれることで、名前はより明確に本人を象っていくものなのだから"



 思い入れがあれば名前には、それを呼ばれる本人には、もっと温かな血が流れるのだろう。



「思い入れ、とはどう表現する?」

「え……そうね、自分の好きなものの名前を付けたり、こういう人になってほしいという願いであったり。花とか星とか自然物から取ることもあるわ。花には花言葉があって、色んな意味を込められるし。昔の偉人・聖人から名前を取ったり親の名前にあやかったり、方法は色々よ。要は、名付ける相手のことを考えるその時間そのものが思い入れだと思う」

 なるほど、なかなか色々とあるらしい。

「あの、でも見た目の特徴を取るというのもよくある手法だわ。グラウなんかはまさにそれでしょ。あの子の名前も、もちろん悪いと言ってる訳じゃないの。ルディ、これからはそう呼びましょ」

 ちゃんと考えて付けてくれたのでしょう? と問われヴォルフは曖昧に頷いた。ちゃんとと言われれば甚だ疑問である。

「だがやはりセンスが足りていないらしいな」

「慣れれば簡単よ、きっと」

 そう微笑む彼女を見て、彼は未来を思う。

 それは、そう遠くない未来。そうだといい。

「俺よりリディアの方が良い名前をつけそうだ。……本番は、リディアに任せることにしよう」

「ーーーー本番?」

 言うと、彼女はきょとりとした顔をした。意味が分かっていないらしい。



 今はそれでもいいかと彼は喉の奥で笑った。

 次に家族が増える時、彼女がどんな名前を紡いでくれるのか、ヴォルフの心に密かな楽しみがまた一つ増える。











「昨日はすごい雨だったわね」

 リディアは窓を開けながら、背後のグラウに話しかける。

 昨夜は夏の嵐とでも言うべき暴風雨で、酷い雨と風が容赦なく窓を打ち付け、破れるのではないかと思うほどだった。結局ヴォルフがびしょ濡れになりながら窓という窓に板を張ってくれて、おかげで朝を迎えた今、部屋の中は荒れることなく無事である。

 雨漏りの様子もなく、おそらく屋根にも大きな問題は生じていないだろう。



「今日は嘘みたいに晴れ上がってる。昨日の雨で空が洗われたみたいに透き通ってるわ」

 見上げた空は澄んだ水色で、軒先や木々の葉に宿る水滴が陽の光をきらきらと反射しては平素より世界を美しく見せる。

 家を守ってくれたヴォルフは窓の板を全て外すと、早朝から見廻りに行ってくると家を出て行っていた。

「ね、私もちょっと家の周りをぐるりとしていい? 畑の被害が気になるの」

 言えば、グラウは家の扉まで移動し、リディアに是の意思を伝える。その後ろにはルディがちょこんと付き従っており、見ているだけで和む図だった。

 昨夜は鳴り響く雷に吃驚して、きゅんきゅん鳴きながらグラウの腹で丸くなっていたのも、かわいそうではあったけれど同時にとても可愛かった。



 扉を開けると当然ながらそこら中がぬかるんで、大小の水溜まりだらけだった。

「わ……」

 足を滑らせたりしないように気を付けて踏み出す。泥はねにも気を付けなくちゃと思っていたら、続くグラウの脚に目が留まる。これは家に上がる時はきちんと拭いてやらないと、床に惨状が広がってしまう。

「やだ、ルディ」

 ルディに至っては脚の短さが災いして、既に腹まで泥がはねていた。これはお風呂決定である。



 畑に顔を覗かせると、そこにはそれなりの被害が見て取れた。

「これは……」

 風で薙ぎ倒された茎、落とされた実、泥水と化した堆肥。

「ちょっと気合いを入れて直さなくちゃね……」

 自然の力を前に、人間にはどうしようもないことが多すぎる。嘆きはそこそこに受け入れてしまうことが肝要だ。

 リディアは小さな溜め息一つ一つで現実を受け止める。

 けれど、被害はあるが、半分は元の姿を取り戻せそうではある。全部が駄目になった訳ではない。

「あ、あんなところに」

 視線を奥にズラせば、しまい忘れていたのかジョウロが木々の奥に転がっている。

 二匹を伴ってリディアは銀色のフォルムを目指して進む。昨夜の雨のせいかこの季節にしては少し涼しい風が頬を撫でる。



 はっきり言って、彼女は何も考えていなかった。

 家のごく近くだし、グラウはいるし、要するに油断していた。

 グラウの反応が遅れたのは何故だろう。

 雨であらゆる匂いが流されていたからか、自分達が風上にいたからか。

 とりあえずガサリと茂みを掻き分ける大きな音がしたのと、グラウが低く唸ったのは同時だった。



「っ!!」

 突如現れたその姿になり損なった悲鳴が喉に張り付く。



「く、熊っ!?」



 そう、そこにいたのは熊だった。しかもかなりの巨体。どう見ても大人の熊である。

 熊に遭った時ってどうするのが正解だったかしら、と彼女は早鐘を打つ胸の内で考える。取り敢えず死んだフリは駄目だったはずだ。目を逸らさずゆっくり後退すれば良かったかしらとも思うが、熊の表情は恐ろしく獰猛で明らかにリディア達を敵か食糧と見倣している。



 一触即発。

 まさにそんな空気。



|熊は雑食だ。木の実も魚も肉も食べる。この熊はもしかすると人間の味を知っているのかもしれない。リディアにはそんな気がした。



 唸り声と共にグラウが熊に向かって行く。

「ルディ!」

 熊と狼ではどちらが強いのか。体格的には熊が有利に思える。

 けれど不安と恐怖を押し込めて、リディアは走り出した。取り敢えず家に戻る。扉を閉めてしまえばすぐには破られないだろうし、最低限の安全は確保できるはずだ。グラウだって不必要に争わずに済む。

 家は視界に入る範囲だ。そう遠くはない。



「きゃっ」

 けれど横手からまた不意に響いた物音に驚いた彼女は、ぬかるんだ地面に足元を取られて転んでしまった。

「っ!?」

 顔を上げた先にいたのは。

「う、嘘……!」

 またもや熊である。先ほどより小柄なところを見るとまだ子どもなのかもしれない。ということは先ほどのあれは母熊か。



 けれど子どもといって安心できるサイズ感でもない。襲われたらひとたまりもないことは確実だ。



 早く、逃げなきゃ。



 立ち上がろうとした矢先だった。ウーと唸り声が響く。

 グラウのそれよりは高いその声は。

「ルディ!」

 ルディがリディアの前に庇うように立ちはだかり、四肢を踏ん張り尻尾を逆立て威嚇している。

 その姿は一重に健気でリディアの感動を誘ったが、同時にどう見ても無謀でもあった。



 絶対に敵わない。

 気持ちだけ、有り難く受け取るべきところだ。



「っ!」

 リディアは背後からルディを勢いよく抱え上げ走り出した。驚いたルディはキャウン! と鳴き声を上げたが、以前のように噛み付くようなことはない。

「追って来てる……!」

 当然と言えばそうだが、子熊は追いかけて来ていた。自分の脚力で逃げ切れるのか全く分からないが、リディアは恐怖を押し込め後ろを振り返るのをやめ、ひたすらに走り続ける。

「っ……!」

 まだ、大丈夫だろうか。追い付かれていないだろうか。家まではまだ距離がある。



 どうしよう、どうしよう、どうしようーーーー



「リディア!」

 だからその声が響いた時、安堵のあまり思わず足を止めそうになった。

「ヴォルフ!」

 見廻りに出ていた彼が帰って来たのだ。

「家の中へ!」

 言われた通り、リディアは何とか家の中に駆け込んで、扉を閉めた。

 荒い息を吐きながら、腕の中のルディを抱き締める。



 どれくれいそうしていただろうか。不意に扉をノックする音がして、リディアは弾かれたようにドアノブに飛び付いた。

「ヴォルフ! ーーーーグラウも!」

 二人とも泥だらけではあるが、ちゃんと自分の足で立っている。

「二人とも怪我は」

「ない。グラウの方も向こうが怯んで逃げたらしい」

「あぁ、良かった……」

「怖い思いをさせて済まなかった。リディアは大丈夫か。転んだんだろう」

「転んだだけよ」

 泥だらけのスカートを摘まんで、リディアは苦笑する。痛むようなところはどこにもなかった。

「湯を沸かそう。身体を洗わなければ」

 そうね、と頷いて、彼女は自分を含めた全員の惨状を見つめた。

 今日は洗濯日和である。











 彼女を先に湯浴みに立たせ、ヴォルフはその隙に井戸水でグラウとルディの身体を洗ってやった。

 濡れた身体をガシガシと拭かれる子狼は、大人しくされるがままになっている。

 先ほども一応リディアを庇おうとしたらしい。無謀は無謀だが、その心意気や良しである。

 立派な用心棒になってくれれば、それ以上に有難いことはない。



「ヴォルフ、先に有り難う」

 浴室から顔を覗かせたリディアと交代でヴォルフも汗と泥を流してしまう。



 今日は間が悪かった。

 あの熊も昨夜の急な嵐に棲みかにも帰り損ね気が立っていたのだろう。絶対の安全などどこにもないことは百も承知だが、自分の手抜かりがあったようにも思う。



 手早く身体を清め終わると、彼は居間に戻った。

 居間では暖炉の前に敷いたラグの上に彼女が座っている。

 風呂上がりに纏めた髪が一筋垂れるうなじが色っぽく、密かに彼を誘惑する。

 彼女の方はそんなことにはちっとも気付かず、ルディの方を見ていた。彼女の心を掴むあの小さな狼に時折彼は嫉妬するのだが、けれど子狼に注ぐあの柔らかくて温かい眼差しを見るのはそれはそれで好きだった。



 ふらふらとルディは覚束ない足取りをしている。疲れてすっかり眠くなってしまっているのだ。

 そしてそのままリディアの膝まで来たかと思ったら、パタリと倒れてすーすー寝息を立て始めた。

「…………!」

 リディアが感極まった表情を彼とグラウに向ける。膝の上の生き物に触れたいのだろうが、二人がまだ良しと言わないので必死に耐えているようだ。



 グラウがパタリと尻尾を揺らした。

「別に構わない」

 彼もそう言って首肯する。

「!」

 リディアは更に表情を輝かせ、そっと眠る子狼に触れた。起こさないようにそうっと、けれど幸せそうに何度も毛並みを撫でる。

「そんなに良い触り心地か」

 彼女の隣に腰を下ろして問う。

「とっても」

 即答されるとやはり少し面白くない。

 子狼はすやすやと平和な寝顔を見せている。



「昨日の雷」

 ふと思い出して口にした。

「え? あぁ、酷かったわよねぇ。ルディがものすごく怯えちゃって」

 彼女の言う通り、この子どもは酷く怯えてグラウの腹で丸くなっていた。それに引き換えーーーー

「リディアは平気そうだった」

「そうね、私はそれほど」

 そう、時折大きな音に吃驚することはあっても、それは怖がるのとは違っていた。

「子どもの頃も平気だったのか」

「まぁね」

 答えた彼女の表情に苦いものが混じる。目線だけで続きを促すと、苦笑しながら教えてくれた。

「どうしようもなかったのよ。怯えて泣いたところで、誰も慰めてくれる人はいなかったんだもの。何てことはないのだと、言い聞かせて諦めて慣れるしかなかったの」

 そう、彼女はそうやって生きてきたのだ。

 おかげで普通の少女が怖がるようなものには、少々のことでは動じてくれない。

「残念なことだ」

「残念?」

 彼は素直な心情を吐露した。

「泣いて縋ってくれれば、思い切り慰めてやれたものを」

「!」



 そうすれば心置きなく彼女を抱き締められたというのに。



 物足りなくなってきて、彼は請うた。

「リディア」

「な、なに」

 あと、そろそろ膝の上のルディへの許容が限界に近い。

「触れてもいいか」

「……ちょ、ちょっとだけなら」

 彼女は顔を赤らめながらも拒否はしなかった。



 柔らかなその頬に触れる。親指の腹で白い肌を撫でるとむず痒そうに小さく身動ぎした。

「リディア」

 許可が必要なので、ヴォルフは再度呼び掛ける。

「ななな、なに」

「口付けしたい」

「っぁ!?」

 彼女はぎょっと身を疎ませた。視線を所在なくさ迷わせながらしどろもどろに言う。

「だ、だだだ駄目よ。グ、グラウが見てる!」

「…………なるほど」

 確かに他人の視線があっては無粋だ。



 ヴォルフはリディアの膝のルディをひょいとつまみ上げると、クッションの上にそっと降ろした。子狼は身動ぎ一つせず未だ夢の中である。

「ヴォ、ヴォルフ? ってきゃっ!」

⑪彼は彼女を一息に抱き上げた。反射的に彼女は彼に抱き付くしかない。

「え、え、何?」

「人目が気になるんだろう?」

 彼は言いながら寝室のドアをくぐり、そのまま足でバタンと空間を閉ざした。











「人目が気になるんだろう?」

 そう言って彼は寝室のドアを閉ざして、ベッドの上にリディアを降ろす。

「や、ちょ、ま、その!」

「別に誰も見ていない」

「いや、その」

問題はそれだけではないと言いたいけれど、舌の上で言葉が滑って上手く出て来てくれない。

「う、あ、ヴォル」

 何か言わなければと思ったけれどその時にはもう彼の顔が目の前まで迫ってきていて、リディアはぎゅっと唇を引き結ぶのが精一杯だった。



 嫌ではない。決して嫌ではないのだ。

 ただ、心臓が潰れそうで苦しい。

 ーーーーしかも、いつもよりやけに長くはないか。



 そっと彼の胸を押し返そうとした瞬間、彼は何と彼女の唇をペロリと舐めた。

「ふぇっ、ひゃっ!?」

 あまりのことに驚いて、思わず声を漏らしてしまう。十分いっぱいいっぱいだったのに、更に開いた唇の隙間から彼の舌が口腔に滑り込んで来るではないか。

「む、んっ!」

 頭が真っ白になる。驚きが過ぎて、ろくに抵抗もできない。こんなに深い口付けは初めてだ。



 怖くて、やめてほしくて、ーーーーでもそれなのに嫌じゃないと思った自分にぎょっとした。



 それがどれくらいの長さだったのかは分からない。リディアが思考を放棄しかけた頃、不意にヴォルフは彼女を解放した。



「っは!」

 涙目で彼を見上げると、くくと笑い声を漏らしている。

「わ、笑うなんて酷いわ!」

「悪い」

 抗議すると、彼はやはり笑みを浮かべたまま彼女の口の端を拭った。

「!」

 リディアは更に顔を赤くするしかない。

「悪かった。あんまり可愛いものだから」

「可愛いとか、そういうことを言っておけば、それでいいって、思ってるでしょ」

「思ったことをそのままに言っているだけだ。含みなんか何もない」

 ひょいとそのまま膝に横抱きにされる。抗議の意を伝えるためにポカリと胸を叩いてみたが、彼は気にも止めなかった。



「昔は心の動き自体が単純で、それに伴う感情も知れていたから、腹が減ったとか苛々するとか痛いとか、自分の中の言葉が少なかったんだと今更に分かる」

「?」

「幸福と不幸の違いも大してなかったという話だ」

 言って、ヴォルフは彼女の頭に頬擦りした。



 今はとても幸福なのだろう。

 リディアはちゃんと彼を幸福な気持ちにできているのだろう。



 そして彼の言うことが、リディアにも少し分かる。

 彼女の場合、言葉は知っていたけれど、それは絵に描いた餅のようなものだった。想像してはみるけれど、それだけ。



 彼女も彼と出逢って知ったのだ。

 本当の幸福と不幸を。心を揺らし、誰かを想うということを。



「こんな日々がずっとずっと続くといいわ」



 天寿が二人に訪れるその時まで。

 リディアはそう願う。



「うん、ずっと俺と一緒にいてくれ」



 この生活を手に入れるまで色々あった。

 けれど今ここには平穏がある。

 そして、生きている限り日々は続く。



「それは一等幸福な日々だ」



 続くのなら、それは甘い甘い日々がいい。



「ヴォルフ」

「ん?」

 今ならできる気がして、リディアはそっと背を伸ばし気持ちを形にしてみた。

「!」

 ヴォルフの唇の端っこに、リディアのそれが触れる。



 明日も明後日もずっとずっと。

 彼女の心はこの愛しいオオカミに囚われているのだ。






「リ、リディア、今のもう一回」

「む、無理よ、無理無理!当分なしよ!」

「じゃあさっきの、もう一回していいか?」

「ひっ、駄目ーっ!」

(あんなの何回もされたら身がもたない……!)



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