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【番外編】美味しいレシピ

「小さな食卓」の後日譚。

これといって不穏なことは何も起こらず、ツッコミ不在でいちゃこらしてます。


ヴォルフの愛は、独占欲により純愛というより偏愛になってしまった……






「ーーっ!ヴォルフの分からず屋!」

 堪らずリディアは声を上げた。

「何で俺が悪いみたいになってるんだ」

 ヴォルフの方もムッとした様子で返す。

「みたい、じゃないの。どうして分かってくれないの」

 お互い不満げな目を向け合ったのはものの数秒。

 もういいわと呟いて、彼女は腰に巻いていたエプロンを解いて椅子の背にかけた。



「ヴォルフなんて知らない」



 もう少し言い様があるのではと思ったがそんな子供っぽいセリフしか出て来ず、勢いのまま戸を開けて外に出る。



 引き留められはしなかった。どこへ行くのだとも

 まぁ行ける場所などどこにもなく、そしてするりと足元に寄り添ったこの用心棒がいれば、彼も大して心配はするまい。



 少し頭を冷やさなくちゃ、と思う。

 その反面意固地になっている部分があるのも事実で、リディアは険しい表情のまま一切振り返らず、新しい家を後にした。











 彼と彼女が一緒にいることを決めたあの日から、半年以上が経っていた。

 あの後辿り着いた彼が見つけていた新天地は、やはり間が空いてしまったせいで、余所者が入り込んでいた。

 それを彼が追い出して、二人と一匹の生活は改めて始まった。



 以来、平和なものである。変わらずリディアが外出する際はヴォルフかそれでなければグラウが必ず連れ添って目を光らせているが、人狼も大型の肉食動物も人間も、ここにはとんと姿を見せない。



 それぞれに負った傷をゆっくり癒して、いつの間にか季節は春へと巡っていた。

 痛ましげな傷痕が、彼の身体には沢山残ってしまった。時には疼くこともあるだろう。けれどやはり人間とは違い、彼は驚異的な回復を遂げたと思う。

 グラウも今ではすっかり元気だ。毎日駆け回り狩りに勤しむ。



「思わず飛び出してしまったけれど……」

 木々の間を抜けて開けた場所に出る。少しだけぽかりと空いた空間には小ぶりの花が揺れていて、散歩の最中に見つけたここはリディアのお気に入りだった。

 腰を下ろして、息を吐く。

 そよりと暖かな風が頬を撫でるだけで、あとは何もない。一時からは考えられないくらい、今彼女達は平穏に満たされている。

「………………」

 リディアはそっと服の上から腹に触れた。

 時折違和感を覚えることはあるが、痛むことはそうない。傷痕は残ってしまったけれど、あまり気にはしていなかった。



 傷痕が残ってしまったことを気にしているのは、ヴォルフの方だ。後悔に耐えるようにして眉を寄せたり、痛みを堪えるような顔をする。

 気にしていると言うよりは、彼はひどく気に病んでいると言った方が正確だ。

「別にいいのに……」

 彼女がこの傷にこだわらない理由は簡単だ。



 気に病みはするけれど、彼はこの傷を醜いだなんてことは絶対に思わない。彼はこの腹の傷ごと、彼女を丸まま抱きしめる。

 それで、十分ではないか。



 愛する人に疎まれないなら、どんな傷や痣ができようと構わないとリディアは思う。



 そして触れていて、思い出す。

 家を飛び出したその理由。

 思わずぎゅっと眉が寄った。

 隣で伏せていたグラウが困ったような目をして見上げて来る。



「だって、何度言っても分からないんだもの」











 ひっそりとした暮らしは、当然彼と彼女とグラウだけで構成されている訳で。



「今日の夕食は?」

 釜戸の前で仕込みをしていると、背後からヴォルフが肩越しに覗き込んできた。そう、肩越しに。

 わざわざ背を曲げなくても彼の身長なら十分に様子を窺えるというのに、そうはしない。

「今日はポトフ」

 彼女は材料を鍋に移すことだけに極力神経を集中させながら答える。

 耳を掠める滑らかな髪、頬に感じる僅かな吐息。それは不愉快ではないけれど、リディアの心を不用意に飛び跳ねさせる。

 前々から思っていたが、彼は心理的にも物理的にも距離が近過ぎだ。

「あとはじっくり煮込むだけよ。野菜もちゃんと食べてね」

「分かってる」

 仕込みを終えたリディアは手を回して腰に巻いていたエプロンのリボンの端を掴むーーーーと、反対の端を掴んだ彼がするりと結び目を解いた。

「ーーーーっ!」

 抜き取ったそれを手早く畳む姿を見て、彼女の胸はざわりと波立って、そのことに更に狼狽する。



 一事が万事こんな調子なのだ。

 近くて、甘い。甘くて、深い。

 しかも半ば無自覚だから性質が悪い。



 放っておけば、ヴォルフが益々自分に触れてくることは分かっていたので、

「グラウ!」

 困った時の万能ワードと言わんばかりに、リディアはその名を呼んだ。

「ブラッシング、してあげる」

 彼の腕が伸びてくる前に、自然な振る舞いを意識して傍を離れる。

「………………」

 けれどブラッシングを始めれば、その隣でさも次は自分の番だと言わんばかりに待ての状態に入るのはどういうことか。

 穏やかなの日常のはずなのに、気が落ち着かない。



 つまり、リディアは彼との距離を取りあぐねていた。











「あの、ヴォルフ?」

「ん?」

 お茶にしようと言ったのに。そのはずだったのに。

「その、お茶が冷めちゃう」

 彼の前にお茶を置いたら、そのまま手首を掴まれて引かれた。

 斜向かいの席に座るはずだった彼女は、今何故か彼の腹に背中を預けることになっている。

「あぁ、飲ませてやろうか」

「そういうことじゃなくて」

 幼児の世話や老人の介護ではあるまいし、そんな必要はない。

 それにその気になれば、リディアの手はカップに届く。

 そういうことじゃないのだ。

 最早目的はお茶を楽しむことではなく、彼の腕から抜け出すことにある。何の必要があってこんな体勢でいなくてはならないのか。

 彼の逞しい両腕は、リディアの腹にかっちり回されてしまっていた。

「その、飲みにくいでしょう」

 心臓が肋骨の中で好き勝手に跳ね回っている。リディアは自分の顔にどんどん熱が集まってくるのを自覚しながら、言葉を探す。

「だから飲ませてやると」

「いや、あなたが」

「リディアは華奢だから、抱え込んでも嵩張ったりしない」

 嵩張るとはどんな表現だ。それとも何か、嵩張ればこうはならないのか。太ればいいのか。

 ーーーーいや、今の彼相手ではどれだけだらしなく身体を肥えさせようと、こちらを見る目の妙な曇りは晴らせないだろう。



 何か彼を喜ばせながらもこの状況から逃れる術はないものか。

 必死に考えて、彼女は強請るように告げる。



「私は、あなたの顔を見ながらお茶を飲みたいの」



 渾身の一言だ、と思った。

 手応え通り、うっそりと彼が笑った気配がした。



「うん、じゃあ二杯目は俺が淹れよう」

 ーーーー解放する気がまるでない。だが、逆に言えば一杯目を空にしてしまえば自由の身。

 意を決してカップを掴めば、

「猫舌なんだからゆっくり飲まないと火傷する。少し冷ました方がいい」

 と言って腕に少し力を込めてくる。

 確かにリディアは猫舌だ。けれど問題はそこではない。



 そして、不意に大きな手が彼女の腹に当てられる。ゆっくりとゆっくりと小さな弧を描いて撫でられる。

「っ」

 恥ずかしい。冗談抜きで顔から火を吹くほど恥ずかしい。

 けれどリディアは彼のその行為を咎められない。



 彼が触れているのは、例の傷が残った場所だ。

 ここに触れる時、彼はただ甘い空気を垂れ流している訳ではない。後悔や不甲斐なさ、けれど同時に労りと慈しみを込めて触れる。



 まるでまじないをかけるように、そっと。



 それで痕が薄くなる訳ではないけれど、あまりに真摯なその様子に、彼女は丸め込まれてしまうのだ。

 けれどじんわりと温まっていく腹に、リディアはどんどん心許ない気分になって来る。



「ヴォルフ」

 耐え切れず、彼女は自分の手を重ねて止めた。

「ヴォルフ、あの」

「俺に触れられるのは嫌か」

 嫌じゃない。嫌な訳がない。

 彼が大事そうにそっと触れてくれると、彼女の胸はやにわにときめく。そうやって自分の胸をときめかせられるのが彼だけだということも、リディアは分かっている。

「…………嫌じゃないけど、駄目」

 けれど、それとこれとは別なのだ。

 人間には許容範囲というものがある。ヴォルフの触れ方は、彼にとっては普通でもリディアにとっては許容を超えたものだった。

「……難しいことを言うな」

「む、難しいことじゃないわ」



 そもそも、である。

 リディアは男性に対して全く免疫がないのである。その見目故昔から執拗に男性に言い寄られることはあったが、彼女はその全てをいなして無視して忌避して来たのである。

 無理に腕を掴まれたりだとか、そういう接触はあった。それはそれで最悪な心地だったが、反対に心を通わせた上で異性に触れられるというのも全く経験のないことで、彼女は大層戸惑っていた。

 何をどこまでどのように受け止めればいいのか分からない。



「ヴォルフはちょっと私に構い過ぎじゃないかしら」

「他に構うものもそうない」



 この暮らしではそうだろうが。



「あなたのことが嫌だとかそういうことじゃないけれど、でも、その、もうちょっと距離を取ってくれると、嬉しい」

「距離」

「な、何事にも慣れが必要だし、慣れるためには時間が必要。時間か必要ということは、要するに頻度を少なくして欲しいってことよ」

 分かってくれただろうか。自分の言葉を突き放しているとかそんな風に誤解していないだろうか。

 そっと視線を斜め上に滑らせると、そこには思案顔の彼がいた。リディアの視線に気が付いて、ヴォルフも視線を返す。

 目が合った途端、一瞬前よりもぐんと近い距離に顔があるような気がして、リディアは全速力で俯いた。

「……だから、こういうのも、ちょっと」

「ーーーー必要以上に触れなければいいということか?」

「そういう、こと」

 なるほど、と彼は一人ごちた。

「分かった。まぁ、善処する」

 前向きな言葉を引き出せたとリディアは思った。けれど分かってもらえた……! と喜んだのも束の間、その舌の根も乾かぬうちに、ふっと外されたと思った片手が彼女の艶やかな浅い茶色の髪を梳いた。

「わ、分かっていないでしょう……!」

 今度こそ顔を真っ赤にして、リディアは無理矢理ヴォルフの腕から抜け出した。











 そんなこんなで彼と彼女の日常は平和ながらも、多少悩みの種を抱えていた。

 分かった、善処すると言いながら、相変わらずリディアにとって彼の言動は刺激が強かった。

 途中で気が付いたのだが、"必要以上に触れない"という、その"必要"の基準がそもそも二人の間でズレているのだ。



「ーーーー」

 その日、ソファーで転た寝していたリディアは、目を開けて、少しだけぼんやりして、それからぎょっとした。

「っぁ!」

 二人座ったらきゅうきゅうになるような小さなソファーだ。自分はそこに普通に腰掛けてうつらうつらしていたはずである。

 なのに、目を開けたら、鼻先には彼の顔があるではないか。

 しかも、いつの間にやら横になっている。彼の上にのし掛かっている状態。

 ーーーーいや、違う。彼の方が彼女を抱き枕にしているのだ。

 無理をするから、小さなソファーから彼の足は随分とはみ出ている。



 とにかく離れなければと肩を浮かせたその瞬間、

「よく眠れたか」

 パチリと彼の目が開いた。



 近い。近すぎる。それに何だろうか。

 まだ眠たげなその表情が、やたらと危なげな気配を放っている。



 色気、という言葉を自分の中から引き出すことができなくて、けれどリディアは本能で引力を持ったその気配から意識を反らした。




 もうこれ以上は、無理だ。限界だ。





 臨界点を超えた彼女は叫ぶ。

「ど、どうしてこんなことになってるの!」

「…………駄目だったか?」

「私の言ったこと、全然分かってないでしょうっ……」

「だから、善処しているだろ」

 どこが! と彼女は嘆く。全くもってヴォルフは加減などしてくれていない。リディアは毎日毎日剥き出しの心臓を振り回されている気分で、落ち着く間もないというのに。

「だってこうしてた方が暖かいだろう」

 それならそっとブランケットでとも掛けてくれれば良いのだ。そうしてくれたなら、目が覚めた時リディアはその優しい気遣いに、心臓に負担をかけることなくきゅんとできただろう。

 リディアの求めるときめきのレベルは、そういうものなのである。



 無理矢理身を剥がした彼女は、寝室に駆け込んでブランケットを取り出した。そしてまた戻って、彼の身体に乱暴にそれを被せて言う。



「暖なら、これでとって。私を抱き枕にしては、駄目」



 愛想のない声が出たのは許して欲しい。

 でも何だかんだ言っておいて、寝入った時とあれだけ体勢が変わったというのにちっとも起きやしなかった自分も恥ずかしかった。結局油断しているし隙があるからこうなるのだと、そう思う。

「リディ……」

 居たたまれなくなって、リディアはまた寝室に駆け込んだ。



 勢い良く扉を閉めて、大きく息を吐く。



「はぁ……」



 寝室の床にはグラウが寝そべっていた。ここの窓からの陽当たりが一番良いから、グラウはよくここに居座っている。

「グラウ……うー……」

 癒しを求めて、リディアはグラウに抱きついた。ふかふかの毛に顔を埋める。

 仕方ないなぁという顔をしながらもどこか嬉しそうな気配を漏らし、グラウはわしゃわしゃと毛並みを崩すリディアを許す。

「グラウは、いつでもふかふかね。純粋に、本当に純粋にひたすらに癒しだわ」



 グラウと戯れるのはこんなにも気楽なのに。



 そう思った時だった。

 勢い良く閉めた扉が、またけたたましい音を立てて開かれる。



「リディア!」

 その声は平素より大きく、険を含んだものだった。

 グラウの毛並みに頬を埋めた状態で、彼女はヴォルフを降り仰ぐ。

「な、に」

「俺には駄目と言って、何故グラウには全部許す! 自分から触りに行く!」

「そんな、それは」



 だってグラウはヴォルフじゃないから。



 まるで浮気現場を現行犯で押さえたと言わんばかりの剣幕である。

「そんな犬っころは良くて、俺は駄目だなんて不公平だろう」

「犬っころだなんて、グラウは大切な家族の一員よ。あなたと私とグラウをそうやって区別しないで」

「俺に区別するなと言うなら、リディアも区別すべきでないだろう? 同じように扱うべきだ」



 売り言葉に買い言葉。

 何にも悪くないのに、肩身が狭そうにグラウが小さく身動ぎする。



「お、同じようにって言われても」

「リディアはずるい」

 言われてドキリとした。

「だってそうだろう? 俺とグラウを同じと言ったり違うと言ったり、都合の良いようにくるくる翻す」

「う……」

 痛いところを突かれた。確かにご指摘の通りだ。

 ヴォルフの甘い攻撃を躱すため、リディアは時に彼をグラウと同じに扱い、それでは無理と思えばグラウと区別してどうにかしてきた。

 それは卑怯なやり口と言えなくもない。



「ーーーー分かった、分かったわ」

 諦めたようにリディアは深く溜め息を漏らす。



 はっきりさせよう。自分の立場と、考えを。



「あなたとグラウは違う。違うんだってはっきりさせるわ。だから、グラウにするのと同じようには、あなたにはしない」

 だから決してもふもふしたり、わしゃわしゃしたりしない。

 ヴォルフとグラウは違う。

 両方ともリディアの大切な家族だけれど、その家族に向ける愛しさとして、ヴォルフとグラウではやはりはっきりと意味合いが違う。

 きっぱりさせると、神妙な顔でヴォルフも頷いた。そして、言う。

「俺ももちろんそうだ。当然リディアとグラウは違う。だからグラウにしないようなことも、リディアにはする」

「そん…………!」

 何という宣言だ。絶句してしまう。

「こんなに甘くて柔らかくて大切なものなんだから、触れたくなるのは自然の摂理だ。放っておいて誰かに掠め取られたらどうする」

 何てことを言うのだ。大体、ここにはその"誰か"なんていないのに。

「リディア」

 分かってくれるだろう? と言下に含まれた甘い声。



 彼の愛情はまるで強い酒みたいだ。

 リディアは酒などろくに飲めない。口をつければきっと悪酔いする。匂いだけで、こんなにくらりとすると言うのに。



「リディア、何がそんなに駄目なんだ」

 分かっている。分かっている。リディアに免疫がなさ過ぎるのだ。きっと必要以上に過剰反応しているのだ。

 だからただ、時間が欲しいだけなのに。



 今までにされた沢山のことが一息に思い出され、羞恥の心が限界を超えた。



「ーーっ!ヴォルフの分からず屋!」




 そして、冒頭の状況に至るという訳である。











「でも私、誰かと喧嘩なんて初めてかも」

 飛び出す羽目になった経緯を思い出して、リディアはポツリと呟いた。

 拒絶することはあっても、争うことなどとんとなかった今までの暮らし。そもそも本気でぶつかるような相手など彼女の人生には皆無だった。

 彼もきっと血生臭い争いを除外すれば、単純に感情のやり取りだけで揉めたのは初めてだろう。

「喧嘩って、親しい仲じゃないと本気でできないのね」

 お互いの信頼がないと、刺を持った本音など口にできない。その後の関係修復に支障をきたす。信頼のない揉め事が起これば、それは関係の破壊しかもたらされないのだろう。



 分かってくれない、という不満は心の底に燻っている。リディアは彼に"恥ずかしいから"と告げることすら恥ずかしいのだ。



 自分の面倒さには、彼女も薄々気が付いている。

 あと、もう一つ。本当はヴォルフが彼なりにあれでも色々と抑えてくれていることにも、気が付いているのだ。

「……喧嘩の後には、仲直りをしなくちゃいけないのよね」

 上手く、できるだろうか。

 わふ、と背中を押すように、グラウが鳴いた。

 その可愛い用心棒を思わず抱きしめたくなったけれど、さっきのこともあってリディアは自重する。あんまり引っ付くと、とばっちりを受けるのはグラウなのだ。

「グラウに嫉妬するなんて、本当に困った人ね」

 羞恥と怒りは時間が流れただけ薄まってきていた。

 平静を取り戻した心が、小さな微笑みを零す余裕を与える。

 ちょっと不謹慎だけど、喧嘩したことが嬉しくもあったのだ。

 ぶつかり合える相手が自分にいること。しない方がいいけれど、でもある意味で気を許し合った結果のようにも思える。

「でもどうしようかしら。同じ事を延々繰り返す訳にもいかないし…………恥ずかしくてどうしようもなくドキドキするから、その、何かしら……えーっと、一日一回のハグくらいから始めてもらえませんかとか、そういう感じでどうにか……」

 あれ、とリディアは思った。しょうもない喧嘩だという自覚はあったが、これはもしや他人に聞かせればただのノロケなのでは、と。

「もしかして犬も食わないっていうのはこういう……?」

 頬を押さえてぼそりと呟くと、ちょっと呆れたようにグラウが短く吠えた。



 ーーーーどうやら、犬も食わない類いのものらしい。











 ヴォルフは食卓に頬杖を突きながら、彼女が出て行った扉を見つめている。扉は開かれたままだから、外の景色がぽかりと広がっている。



 彼女はどこまで行っただろうか。まさかこのまま帰って来ないことはあるまい。どこかへ出て行こうと思っても、他のどこかなんて彼も彼女も持っていないのだ。



 ここは小さな閉ざされた世界。外から怖いものは何も来ない。

 ーーーーただ、まぁ、内側にはそれなりの不安要素があった訳である。



「難しいな」

 怒らせてしまった。彼女があんな風に感情を爆発させるなんて、珍しい。そして彼の方もついつい感情的になってしまった。

「困ったことだ。あれは自分の芳しさとズルさを知らない」

 ヴォルフが彼女に感じるのは歯牙にかけたいという衝動ではないが、とにかく彼女の傍にいるといい匂いがするのだ。これが惚れた相手なのだから、触れたくなるのは当然のことである。



 だって、近くにいるのだ。伸ばせば届く距離に。

 この腕の中に閉じ込められるのならば、それが良い。



 ここにはちゃんと小さな平和があるが、それでもヴォルフは彼女を喪いかけたあの出来事を鮮明に覚えている。それは予告なく彼の心に不安の影を落とすのだ。



 いつか、また、失うのでは?

 誰かが、横からかっさらって行くのでは?

 だって彼女はあんなにも美しい。外も内も美しい。人狼なんかに愛情を掛けてしまうほどに。




「これでも殊勝に"待て"を聞いているつもりなんだがな」

 自嘲が口の端に浮かんだ。

 惚れた弱みだ。彼女が涙目で嫌とか駄目と言えば、彼は引き下がるしかない。

 怖がらせることは本意ではない。だから、彼も人狼の性を抑え込んでこれでも加減しているのだ。

「…………そろそろ行くか」

 半刻ほど経った頃、彼は腰を上げた。

 迎えに行かなければ。リディアはきっと帰りにくく思っていることだろう。



 勢い良く出て行ったが、あまり心配はしていない。グラウが付いているし、心配しないでいいように彼はこの周辺の環境を常に整えている。

 それに四六時中張り付いているので、例の御守りがなくても十分に他への牽制になるのだ。人間には分からないだろうが、実は彼女には彼の匂いがべったりなのだから。

「独占欲、と言うんだろうな」

 彼女があまりに逃げたがるから、グラウの匂いさえ許してやれなかった。そもそも、逃げられれば追いたくなるのが獣の性分だと言うのに。



 分かっている。嫉妬だ。単純に羨ましかったのだ。

 彼女にあんなに構ってもらえるグラウが。



 重症だな、と彼は息を吐いた。

 でも、言わせてもらってもいいだろうか。

 リディアはヴォルフが全く加減をしていないと思っているようだが、彼は常に理性を総動員して彼女に接している。

 毎日は忍耐の連続だ。彼も人並みに好きな女性から嫌われるのは怖いので、自分のためと言い聞かせて耐えているのだ。そこのところを是非汲んで頂きたい。

「…………何にせよ、あまりに(うぶ)で奥手過ぎる」

 彼女にあまりに経験値がない。無用な揉め事を避けるため人を極力避けて生きてきた弊害が、こんなところで出てしまっている。

 どうしたものかと、ヴォルフはもう一度溜め息を吐いた。











 見つけるのは簡単だった。

 彼女は気に入りの場所で、何やらうんうん頭を抱えて唸っていた。ーーーー心労をかけ過ぎただろうか。



 ヴォルフが地面をじゃりと踏み鳴らすと、その音に彼女はきゅっと身を竦めて飛び上がる。反射的にグラウに飛び付きかけて、その直前に彼だと気付いたリディアは、寸のところで不自然に停止した。

 飛び出す直前の悶着を思い出したのだろう。

「……リディア」

 迎えに来てみれば、彼女は怒っているというよりも困ったような表情を浮かべていた。とりあえず怒り心頭といった様子ではないので、ホッとする。



「……感情的になって、ごめんなさい」

 先に言ったのはリディア。

「いや、俺もつまらないことで突っかかったりして悪かった」

 そう返して、彼女の前で目線が合うように膝をつく。帰ろう、とそう言うつもりだった。でも彼女は小さく開けた口をはくはくさせており、所在なくあちこちさ迷っている視線は何か言葉を探しているようだった。

「あ、の」

「どうした」

「その…………えっと、」

「うん」

「っぁ……」

「ん?」

 リディアはなかなか切り出せないでいる。けれど彼女の気持ちが整うまで、彼は無闇に急かしたりしない。懸命に言葉を紡ごうとする彼女が可愛くて思わず頬に手を添えたくなるが、それも我慢する。

 そう、彼は待てができる男なのだから。



「お互いの、今後の恒久的な平和のために!」

 やがて意を決したようにリディアは切り出した。



「うん?」

 恒久的な平和?

「あ、歩みよりが必要だなって思うの!」

 真っ赤な顔で彼女は続ける。

「私、分かってるわ。ヴォルフが、本当は、色々我慢してること。我慢、させてるのよね」

「いや、それは」

 それは必要な我慢だ。バランスが上手く取れなくて今回は揉めてしまったが、相手のあることなのだから思いや行為が一方的ではマズイのは当然だろう。

「でも、その、私はやっぱり色々慣れてなくて。ヴォルフのくれるものを、上手く受け止められないの。あなたが隣で笑ってくれるだけで、それだけでもう胸がいっぱいになっちゃうの」

 それは思っていたよりも重症だ。ぜひ改善して頂かなければならない。

「それで、その、歩み寄りっていうのは……例えば一日一回、こう、何て言うかぎゅっとする時間を設けるとか、そういう形で徐々にね?」

 なるほど。

「取り決めをしようってことか?」

「義務じゃなくて、習慣ね。習慣として、身に付けたいというか」

 取り決めたから仕方なく嫌々やる訳ではないと、そう言いたいらしい。可愛いことだ。

「で、スタートが一日一回の抱擁?」

「理想としては」

「一日一回は少ない」

「え、じゃあ朝晩二回……?」

「朝昼晩、三回」

「えぇ……?」

「時間は」

「じ、時間?」

 ぎゅっとして一瞬で終わったことにされては、消化不良にも程がある。

「えーっと、それはそうね、その」

 あわあわし出した彼女の様子がおかしくて、思わず笑い声が漏れる。

「そうだな、その辺りは家に帰ってからじっくり検討するべきか」

 彼とてもう少し、色々と要求させてもらわなければ。



 そうだ、とヴォルフは思う。リディアは元々芯はしっかりしているが、それは一人で生きていくことが前提のもので、他者と関わる経験の薄い彼女は誰かと何かをすることに対し不慣れだし、かつ押しに弱い。それに結局情に脆い。

 人狼らしく言葉巧みに上手く丸め込んでしまえば良いのかもしれない。うん、それが良い。

「リディア」

 呼んで手を差し出せば、おずおずと温もりが重ねられる。ヴォルフの親指が半ば無意識に彼女の手の甲をなぞった。

 小さく身体を強張らせた彼女にしまったと内心焦るが、彼女は一瞬の後、彼の手を握る力をほんの少し強めた。



「帰りましょう、ヴォルフ」



 仲直りがあるのなら、多少の喧嘩も悪くない。

 しかもこれで彼女が恒久的平和の名目の元譲歩を示してくれるなら、旨味の方が大きいと言っても良かった。



 そんな本音を隠しながら、ヴォルフは愛する少女と家路を往く。

 握った手が惜しいから、できるだけゆっくり、遠回りをしながら。







本当は抱き抱えて帰りたいのを、ヴォルフは我慢している。

だって彼は待てのできる男だから。



当社比糖度200%増し増しのつもりでお送りしました。

本編と比べると詐欺のような平和ボケの日々。


本編完結で、やっと自らに課していた地の文での"彼"・"彼女"縛りから解放されたので、すっきりです。

あともう一篇、糖度増し増しでお送りする予定です。


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